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ビートルズ側近マルの本⑤

 【スピリチュアル・ビートルズ】ビートルズは1963年12月半ば、秋の国内ツアーを終えた。次はフィンズベリー・アストリア劇場でのクリスマス・ショーが控えていた。ちょうどその週に、第4弾シングル「シー・ラブズ・ユー」が「抱きしめたい」にとって代わりヒットチャートの首位に躍り出ていた。
 クリスマス・ショーの初日一回目のライブで冒頭の「ロール・オーバー・ベートーベン」の時に困ったことが起きた。マルはステージに飛び出していって出来る限り迅速に、原因と思われる箇所を修理したという。
 マルは煩雑な仕事に取り組まざるをえなかった。ワット変換、電力供給関係での配置変更など。また、そのライブハウス特有のシステムに合わせなければいけなかった。しかし、間違えてしまうこともあったのだ。
 例えば、ある時、スピーカーにつなぐ前にアンプのスイッチを入れたら、スピーカーが吹き飛んでしまったことも。
 アストリア劇場では、ビリー・J・クレーマー&ダコタスのローディ、デレク・フューズが居合わせた。デレクはマルの仕事に完敗した。
 マルは満足はしていなかったものの、緊張が解けると、大声で「やっと自由になれる!3週間もやってきたんだ!」と叫んだ。
 するとメンバーたち、とりわけジョージとポールが大きな笑い声をあげた。コンサートは最後のナンバーだったから問題はなかった。

アストリア劇場


 クリスマスの休暇に、マルは妻リリィと息子ゲイリーのもとで短い時間だったが過ごすことが出来た。が、1964年は運が悪いスタートとなった。ジョンのギターがなくなってしまったのだ。「1962 ギブソンJ-160E」”ジャンボ” アコースティック・ギター。ジョンはこのギターで「ラブ・ミー・ドゥ」「シー・ラブズ・ユー」や「抱きしめたい」を演奏していた。
 新年になってからのアストリア劇場でのショーの後になくなったようだった。マルはジョンに激しく口撃された。のちにマルは「ビートルズ時代のキャリアの中で最低の出来事だった」と振り返った。
 何年経っても、ジョンは”ジャンボ”がなくなったことでマルを責めたという。しかし、当時のステージや楽屋の混乱ぶりを考えるとモノがなくなってしまうのも無理もなかった。

「1962ギブソンJ-160E」アコースティック・ギター


 また、有力者たちがビートルズのコンサートに障害者を連れてくることがあった。ジョンは10代の頃、精神的あるいは肉体的にハンディを負った人たちの目の前で、残酷にも、彼らの真似をして顔をしかめたり、背中を丸めて足を引きずったりしたことがあった。
 ハンブルクでもジョンはこうした物まねを「crippling」(かたわ)としてビートルズのステージ上での出し物に加えた。マネージャーのブライアン・エプスタインはこうしたジョンの振る舞いを止めさせることにある程度は成功したものの、ジョンはそうした振る舞いを完全に止めることはなかった。
 楽屋にそうした人々が招き入れられることについて、のちにリンゴは「彼らはお茶なんかに手を出して、そのままにしていった。あまりに酷いと、ぼくらはいつも「マル、cripples!」と言ったものだ」と回想した。
 そのセリフは障害者がいない時にも話される彼らだけの隠語となった。

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