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フィル・スペクターとビートルズ

 2021年1月16日に81歳で亡くなったフィル・スペクターは音楽プロデューサーとして1960年代に「ウォール・オブ・サウンド」という録音手法を確立したことで知られる。
 スペクターはビートルズそして解散後もメンバーたちとかかわったことで知られる。中でもジョン・レノンとジョージ・ハリスンの信頼は篤く、ジョンの死後も妻ヨーコはプロデュースを頼んだくらいだ。
 ビートルズの13枚のオリジナルアルバムのうち、プロデューサーがジョージ・マーティンではないものが一枚ある。最後に発売されたアルバム『レット・イット・ビー』(1970)である。
 その時のプロデューサーがスペクターだった。
 彼をロンドンに連れてきたのはアラン・クレインだった、とジョージは語った。クレインは69年2月に会計監査役としてアップル・コーに介入した。やり手として知られていたクレインを推したのはジョンで、ポールは将来の養父リー・イーストマンにアップルの財政面を任せようとしていた。
 両者は対立した。
 70年1月27日、ジョンが朝起きて頭に浮かんだフレーズとメロディを基に「インスタント・カーマ」を書き上げて、その日のうちに、あたかも新聞を作るようにレコーディングしようとしていた。
 急遽、ミュージシャンたちが呼び集められた。その中の一人だったジョージはいう「アビーロードスタジオへ「インスタント・カーマ」を録りに行く途中でフィルと会ったから、ぼくは無理やり彼も連れて行ったんだ」。
 「そんな風にして彼はあのレコードに関わるようになった。それ以来ずっと仕事をするようになった」(「イマジン ジョン&ヨーコ」ヤマハミュージックエンタテインメント)。
 ジョンはビートルズのデビュー前からスペクターの「会ったとたんに一目ぼれ(To know him is to love him)」を取り上げるなど、大ファンだった。
 一方、ビートルズは69年初めから取り組んできた「ゲットバックセッション」を仕上げる段になって障害にぶつかっていた。
 当初はライブレコーディングだけで作る予定だった『レット・イット・ビー』だったが、結局スタジオでやることになり、いろいろとうまくいかなくなった時、クレインがスペクターを連れてきたのだという。


 スペクターは、ジョンの作品で世界野生基金(WWF)のチャリティに提供した「アクロス・ザ・ユニバース」をアーカイブの中から掘り起こし、手を加えて日の目を見るようなアルバムにした。
 一方でスペクターはポールのピアノによるシンプルな演奏だった「ロング・アンド・ワインディング・ロード」に壮大なオーケストレーションを施して、ポールの反発を買った。
 ポールは、クレインがアルバムの出来が悪いと判断してスペクターを読んできて「ごてごてと飾らせた」と言った(ポール・デュ・ノイヤー著「ポール・マッカートニー告白」DU BOOKS)。
 「でもぼくの手元には、そういった手が入る前の初期バージョンがあった。それを聞いていたぼくは、うん、こいつは挑戦的なすごいアルバムだぞと思った。でも、このアルバムは再プロデュースされ、いわば売りやすいレコードに再構築されてしまった」。
 一方、ジョンとジョージの信頼を得たスペクターはその後も彼らと仕事をするようになる。
 ジョンの実質的ファーストソロアルバム『ジョンの魂』(70)の「最後の仕上げ」もその一つ。ヨーコによれば「とても控えめな仕事だったけど、彼のミキシングのおかげでとても美しいアルバムが出来たわ」。
 同時期、スペクターはジョージのLP3枚組大作『オール・シングス・マスト・パス』(70)のプロデュースも手がけた。スペクターは音を分厚く重ねる「ウォール・オブ・サウンド」を作品に施した。


 「どの曲もアレンジが固まるまで何度も何度もプレイした。アレンジが固まって初めて、コントロール・ルームのエンジニアはフィルの指示による音作りに入ることが出来た」とジョージはいう。
 そしてジョージは、のちになっても彼が「驚くべき才能の持ち主」とするスペクターへの感謝を隠さなかった。
 翌71年、スペクターはジョージの呼びかけで夏に行われたバングラデシュ難民救済コンサートのライブ盤を共同プロデュースした。


 さらに、ジョンの信頼を勝ち得ていたスペクターは、アルバム『イマジン』(71)もジョン、ヨーコと共同プロデュースすることになる。
 ジョンは言った「フィルはとても大きなエゴを持っていたが、それを出さないようにしてもらった。彼はポピュラー音楽やサウンドに対して驚異的な耳を持っている。ぼくらはそれを利用しつつ、彼が「スペクター(恐ろしいもの)」にならないようにしたのだ」。


 73年秋、スペクターのプロデュースで、ジョンは後に『ロックン・ロール』(75)となるロックオールディーズのカバー集のためにロサンゼルスでセッションを開始する。
 だが、酒におぼれ、「狂人」の一面も見せていたスペクターは録音テープを持ち逃げしてしまった。
 ジョンは膨大な録音テープを取り返す。「フィルとの狂気のセッションだ。ぼくは酔っぱらったまま歌っていて、40人のミュージシャンの演奏もみんな調子っぱずれだった。冷静でまともな奴なんて誰もいなかった」とジョンは振り返った(「ジョン&ヨーコ プレイボーイ・インタビュー1980完全版」シンコーミュージック・エンタテインメント)。
 奇行が目立つようになっていたスペクターとジョンがその後、仕事をすることはなかった。だが、ヨーコはジョンの死後、『シーズン・オブ・グラス』を当初スペクターに任せようとしたが、結局袂を分かったようだ。
 スペクターはジョンを尊敬していた。スペクターは「エルビスが兵役に就いていた2年半の間、ずっとフィルがロックを守ってくれた」とジョンに言われたという。
 スペクターはジョンのことを「私が持ちえなかった兄弟のようなものだった」と語っていた。
 スペクターはジョンの死後、ジョンの誕生日である10月9日を国際的な休日にすべきだと思っていたという。
 「ジョンについて思い出すことは、マーティン・ルーサー・キングを思い出すこととほとんど同じだ。キング牧師記念日も制定までに時間がかかった」「ジョンの祝日を制定するために力を合わせる、そういうことができないなんておかしいだろう?」。
 スペクターは80年以降、第一線を引いていた。情緒不安定で隠遁生活を送っていたとされる。
 そしてスペクターは2003年に女優のラナ・クラーソンを射殺した容疑で逮捕され、2009年に第二級殺人罪で禁固19年の有罪判決を受けて収監されていた。

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