見出し画像

日本画の棲み家

 明治時代における西洋文化の到来は、床の間や座敷を「棲み家」として人々にとって身近であった日本絵画を展覧会場へと住み替えさせたために日本画を鑑賞するスタイルも変化していった。
 住友の邸宅を飾った日本画を観ていき、床の間や座敷を飾るその魅力を紹介する「日本画の棲み家」が2023年11月2日(木)から12月17日(日)まで泉屋博古館東京(東京都港区六本木1-5-1)で開催される。
 西洋に倣った展覧会制度の導入は特に床の間や座敷から展覧会場へと日本画の「棲み家」を変化させた。その結果、巨大で濃彩な作品が増えるなど、日本絵画は新しい「家」にふさわしい表現へと大きくシフトしていく。
 このような中で集められた泉屋の日本画は邸宅を飾るために描かれ、来客を迎えるための屏風や床映えする掛け軸など、展覧会を軸とする「展覧会芸術」とは逆行する「柔和」な性質と「吉祥的」内容を備えている。

〇第1章「邸宅の日本画」ーかつて日本では日々の暮らしの中に日本画があった。しかしながら展覧会制度が入ってきたことで、作品との出会い、そして鑑賞体験を一変させた。身近かつ親密だった美術鑑賞は次第に疎遠となり、展覧会場で大勢で見る体験へとシフトしていった。住友家第15代住友吉左衞門友純(1864-1926、号春翠)の邸宅は家族が暮らす一方で、迎賓施設として内外の賓客を迎えた。床の間には一年を通じてさまざまな掛け軸が飾られ、広間を区切るために屏風や衝立が重用された。春翠が生きた時代に邸宅を飾った日本画を紹介する。

 橋本雅邦《春秋山水》(左隻) 明治37年(1904)頃 泉屋博古館東京
望月玉泉《雪中蘆雁図》(左隻) 明治41年(1908) 泉屋博古館東京


〇第2章「日本画と床の間 ーあなたは床の間に何かける?」ー貴族や武士、豪商などの座敷に設えられた床の間が、庶民に普及したのは明治以降のこと。煎茶・抹茶席における茶掛けの歴史もあるが、生活空間における床の間の多くは接客空間にあり、「公」と「私」のあわいにある空間といえる。このような床の間に「映える」のはどんな日本画でしょうか。床の間にかけるべき軸として、古くは尊敬すべき人物の画像あるいはその書を掛けることが基本だった。やがて山水や花鳥そして風俗画をかけるようになった。寿老人や高砂、旭日に鶴亀といった吉祥性の高い画題は広く好まれ、座敷で行われてきた家族の行事などのハレの場には欠かせなかった。

 平福百穂《松樹に栗鼠図》大正~昭和前期 泉屋博古館東京
木島櫻谷《震威八荒図衝立》大正5年(1916) 泉屋博古館東京


〇トピック:近代の床の間と「床の間芸術」ー大正期には住宅改良が盛んになり、空間の合理性という観点から次第に「床の間無用論」が叫ばれた。テレビや荷物置きと化した床の間は生活の犠牲となって消えていく運命にあった。床の間の空間がもつ接客という役割、それに付随する封建制という性格が失われたことも大きな要因かもしれない。また大正期以降には「展覧会芸術」あるいは「会場芸術」という言葉に対置する「床の間芸術」という用語が当時の雑誌や新聞に登場する。これには「時代遅れ」といった軽侮の意味が込められている。当時の文献資料や作家の言葉から、床の間に向けられた眼差しを紹介する。

岸田劉生《四時競甘》大正15年(1926)泉屋博古館東京


〇第3章「現代版「床の間芸術」」ー今を生きる若手作家6名に新しい「床の間芸術」の制作を依頼。ここでいう「床の間芸術」は実際に床の間を飾る作品ではなく、昭和初期に竹内栖鳳(たけうちせいほう)や鏑木清方(かぶらぎきよかた)らが主張した「床の間芸術」の概念に基づくもの。各作家には今の「床の間芸術」はどうあるべきか、あるいは今後の鑑賞体験がどうあるべきか、新作を通じて問題提起してもらう。
〇特集展示:泉屋の床の間ー正月の床飾りの再現を中心に、住友家と床の間の物語を読み解く。江戸時代から明治時代における住友家の床の間に注目し、その文化活動の一端を紹介する。
 
 開館時間は午前11時から午後6時まで(入館は閉館の30分前まで)。休館日は月曜日。入館料は一般1000円、高大生600円、中学生以下無料。問い合わせは050-5541-8600(ハローダイヤル)。展覧会詳細ページはhttps://sen-oku.or.jp/program/20231102_thehabitatsuofnihonga/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?