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『海に住む子、空に住む子』

 彼女はあまりにも遠い存在だ。

 わたしの住む世界は、
 とても、とても深い海の底。
 暗くて、寂しい、何もない世界。

 今日もわたしは海底でひとりでいる。
 海底の砂に絵を描いたり、
 海流の波の音を聴いて過ごす。

 そんな一日の中で、
 夕方のある時間だけは、
 わたしはひとりにならない時間がある。

 それは、“空の子”と話をする時間。

 海底の岩山トンネルを抜けた先、
 海面から差し込む光に照らされて、
 はるか彼方から降りてきている
 一本の糸電話。

 わたしは、これで彼女と話をする。

「もしもし?」
「海ちゃん?」
「空ちゃん。今日も話を聞かせて」

 彼女は空に住んでいる。
 はるか彼方の空の上。
 わたしなんかが、手の届かない。
 とても遠い場所。

「今日は夕日がとても綺麗よ。
 明日は晴れね」
「そうなの? とても素敵」
「そっちはどう?」
「わたしの方は、何もないよ」
「…………」
「それじゃあ、また明日、
 この時間に話を聞かせて」

 私は糸電話を下ろす。
 そうして、目を瞑り、
 彼女の世界を想像する。

「今は大雨ね。朝は晴れていたのに」
「この時期って変わりやすいのね」
「昨日の夕日が嘘のよう。
 雷もなっているわ」
「嫌な天気ね」
「そうでもないわ。
 雨音が音楽みたいで楽しいのよ」
「そんな風に思えるなんて、素敵ね」
「……ねぇ、そっちはどう?」
「こっちには何もないよ。
 雨だって、海の底には関係ないから」
「…………」
「それじゃあ、また、この時間に」
 わたしは糸電話を下ろす。

 わたしと彼女は幼馴染だ。
 昔は同じ場所にいた。
 いつのまにか、彼女ははるか遠くへ。
 わたしは、深い海の底にいた。

「聞いて。明日、流星群があるの。
 星がたくさん流れるのよ」
「素敵ね。見たら感想を教えて」
「……私、貴方と一緒に見たいわ」
「……無理だよ」
「どうして?」
「わたしとあなたでは、
 もう住む世界が違うもの」
「…………」
「わたしも空に行けたらいいのに。
 そしたら、色んな世界が見られるのに。
 空の上から全てを見て。
 美しい世界を見ることができるのに」
「…………」
「一度ね、あなたに少しでも近づこうと、
 海面まで上がったことがあるの。
 そしたら、カモメたちが言っていたわ。
 “空の子は素晴らしい“って」
「…………」
「そのとき思ったの。
 “もうわたしのような世界の者が、
 近づくような人ではないんだ“って」
「…………」
「……そして、また海の底に戻ったの」
「ねぇ、そんなこと言わないで」
「……ごめんなさい。
 もうわたしたち、話すのやめましょう」
「……どうして?」
「わたしはとても醜いから。
 暗い世界しか知らない。
 あなたと話す価値なんてないのーー」

「私の憧れている世界を、
 価値がないなんて言わないで!」

「え……?」
「空にいたら、
 空にいたら全て知っているなんて、
 そんなわけないじゃない。
 ……私は、空に憧れていた。
 それだけを目指して、
 ずっと上り続けてきた。
 ……でも、見えないの。
 貴女の世界が、私には見えない」
「…………」
「気がついたら周りには誰もいないの。
 となりに、貴女が、いない。
 こんな風に話ができるのは、
 貴女だけだったのに」
「…………」
「ねぇ、教えてよ。
 何もないわけない。
 私には、貴女の世界が、
 とても美しく思えるの。
 私の憧れなのよ。
 否定したりなんかしないで」
「…………」
「貴女の世界の話を聞かせて」

 わたしの、わたしの世界は。
 とても、暗くてーー。
「……とても静か」
「……うん」
「とても落ち着いた場所」
「うん」
「とても、……心地良い」
「うん! それから?」
「日の光が差し込むと、
 海は色が変わるの」
「そうなの? 見てみたい」
「海流はね、音楽みたい」
「そんな風に思えるなんて、
 とても素敵ね」

 わたしは海の世界の話をする。
 彼女の知らない。
 わたしの世界のことを。

「……流星群、見てみたいな」
「ほんとう? 
 ……じゃあ、私、海面まで下りるわ」
「下りて平気なの?」
「うん。……もう、ここにいるの、
 疲れちゃった。それに」

「貴女に会いたい」

「……わたしも」

「じゃあ、明日、この時間に」
「いつもと同じ時間に」

「「同じ場所で会いましょう」」

 わたしは糸電話を下ろした。

 次の日、いつもと同じ時間。
 糸電話を辿って、
 わたしは海面へ上がる。
 彼女に会うために。


 その夜、美しい流れ星を、
 海面でずっと見ていた。

 彼女のとなりで。

 おしまい。



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