見出し画像

それでも写真を撮る。やらない理由は無限にある。

写真をRAWで撮るようになって早半年が過ぎた。撮影した写真をRAIDにぶちこみ続ける日々、写真のために新調したMacBook Proは早くも容量が一杯やと言い始め、確実にバックアップが取られていることを確認しながら整理していく。iPhoneのほうももれなく、容量が一杯やでと言い出した。

RAW現像がしたいのに、膨大な写真データを移し込む作業だけでタイムアップになって、どんどん降り積もっていく写真の、どこから手をつけて良いかわからない状況になっている。

SNSにちょこっと写真を載せたいだけの場合、JPEGデータをカメラから選んでダウンロード、そのまま掲載するパターンになりつつある。
もっとこう…パッとサッとやりたいんだけど、みんな撮った写真をどうやってその場で編集してSNSに載せたりしてるんだろう。

なかなか、よっこらせとPCを開けられずにいる。

自然と、写真を撮る手に迷いが生まれる。
撮ってもなぁ…データも圧迫するし、時間も食うし、編集できるかもわからんしなぁ、見返す時間もないかもしれないからなぁ…とか。
同じような写真は撮ってもしゃあないよなぁなどなど。

それらは都合よく、写真を撮らない言い訳としてのさばり始める。
やりたいことなのに、おかしいよね。

どんなことでもそうだけど、やらない理由は無限に現れては横たわるのだ。

写真て、撮ったその瞬間にはあまり感慨はなくて、なんの変哲もないものに価値が見出せなくて心が折れそうになる。でも、昔の写真を見返す経験をしていると、塩漬けにして何十年も醗酵させてから見返した時、その光景は今どんなにどんなに望んでも二度と戻れない触れられない、変えられないことを知っている。写真はその瞬間にタイムスリップできる装置であり、記憶に定着させるための手段でもある。

だから、どんなに編集が追いつかなくても、撮る。どれだけ繰り返し撮り続けているものでも、やっぱり撮る。これは自分に言い聞かせてる。

きっと私が死んだら私のRAIDにアクセスする人はいないだろう。夫は機械に弱いし、この膨大なデータに付き合ってくれるほどみんな暇じゃなかろう。同じような写真がたくさん、ほとんど日記のような写真たち。私のための写真たち。

明日も写真を撮る。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?