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周りの目、自分の目

結局どちらも自分の「目」であることには気が付いている。
「周りの目」は自分の想像や自意識。
「自分の目」は自分の事実や実感。

想像や自意識は危機管理と結びついていると思う。

それは、嫌われたくないということ。
自分の真ん中をぐっさり言葉で刺されたくないということ。
だから、簡単に周りの目なんて気にするなと言う方が無理がある。

分かったようなことを書いているが、ここで今自分が定義付けたようなことも今後変化していくだろうし、私も想像と自意識をフル稼働させて周りの目を気にしまくっていることは多々ある。

かつて、好きだった人に嫌われたくなくて追いつきたくて、相手の中に自分の選ぶ言葉を探しながら会話をした。
自分と向き合うことから逃げて綺麗事を並べた。
次第にそんな風に繕った口は動かなくなって嘘をついて、もう永遠にお別れとなった。
人生で初めて、失恋して声を出して泣いた。

恋愛に限ったことでは無い。
今でもことばが好きで文章を書くのが好きな一方で、自分がことばという型にはめて何かを表現することに恐怖に似た感覚を抱くときがある。
傷つけたら、私なんかが何言ってんだと思われたら、そもそも私はこのままで良いのか。

「周り」というのはよほどの有名人では無い限りそれは「世間」など広いものではなくて実際に自分の周りにいる人、もしくは自分の大切にしたい人、あるいは自分自身の形だと思う。

周りの目を気にするのは大切にしたいという気持ちの表れのようにも見える。
自分を、周りの人を、大切にしたい人を。
そしてそれはとても美しいことだと思う。

でも周りの目だけを気にすると、頭だけが動き続けて口も足も動かなくなって身動きがとれない。
焦りを繰り返して疲れ果ててしまう。
焦っているうちは動き出すことができない。

だからそれを手助けするのが「自分の目」なのではないかと思う。

自分が受け止めた事実や実感。
景色、温もり、笑顔、衝動、感動、興奮、
きっとまだまだある。
そしてまだまだ増えていく。

その数が自分の目の視野を広げてくれる。
それは心からことばを生み出す。
信じられる道に踏み出す一歩が怖くなくなる。

だからこうしようとか、どうするべきだなんて語れるような人間ではないし、そもそもそいうことが書きたいわけでは無い。


ただ最後にひとつ。
このタイトルをくれたあなたも、私の目の中にある大切なひとつです。
いつもありがとう。

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