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ハチ

以下の文章は、愛犬であるハチの寿命がもう長くないとわかったときに、その時の気持ちを整理するために、そして残しておくために、メモのアプリに書いたものです。
半年が経った今読み返してみると、この文章を書いた日からハチが死んじゃった2月2日(ちょうどハチの誕生日)までの期間にとことん悩み、考え、泣きまくったことが、今の自分の原体験だなって強く思います。そういう意味でハチはちゃんと自分の中に残っているな〜、とも。
今読み返すと、どっかで見たことある言い回しとか表現を取ってつけたように使ってる部分が多々あるんですけど、その理由はたぶん、一つは自分の言葉で文章を書く力がないせいで、もう一つは、どんどん膨らんでいって溢れちゃいそうな言葉にできない悲しみを言葉にするために、心情を既存のフォーマットに落とし込むしかなかったんだと思います。
長いですけど多くの人に読んで欲しいです。
なんで自分が多くの人に読んで欲しいと思うのかはまだちゃんとは分からないけど、でも読んで欲しいです。



ハチが死んじゃいそうだ。
僕が小学一年生の時に、誕生日プレゼントとしてやってきたハチ。
あれから時は流れ、僕は高3。受験生。共通テストが終わってからちょうど1週間が経ち、二次試験に向けてラストスパートだ。そしてハチは2月2日で13歳になる。なる。なるのかなぁ。あと2週間。
正直その確信もない。それまで生きているか分からない。それほどまでに、ハチは弱っている。

1ヶ月ぐらい前から、家の中でおしっこをしてしまうようになった。その時は、おばあちゃんになっちゃったねぇと、家族で笑いながら話していた。その少し前から、昼間でも寝ている姿を見るようになった気がする。今思うと、あれも何かの前兆だったのだろう。気づいてあげられなかった自分を責めてしまいそうになるけど、多分それは良くないことだ。過去は変えられない。でも、これも自分を正当化したいだけなのかな。
2週間ぐらい前から、真夜中に吠えて、母が散歩に連れて行くまで泣き止まなくなった。
1週間ぐらい前から、ご飯をあまり食べなくなった。
ここ数日は目に見えて痩せてしまい、立っているだけでもフラフラしている。家の中を歩くにも、方向を変えるたびに滑りそうになっている。もう踏ん張るだけの力がないのかもしれない、座っている時も足で体重を支えられないのか、人間でいうお姉さん座りのような体勢になってしまっている。息をするのも苦しそうで、まるで42キロを走り終えたマラソン選手のように全身を動かして呼吸している。その度に膨らんだり凹んだりする胸を見ているとこちらまで苦しくなる。
間違いなく「死」に蝕まれつつあるハチの「生」を確かめるように、いつものように頭を撫でてやると、いつもと違う骨の感触にまた切なくなる。

昨日の夜、ドッグフードをハチが全く食べないので、本当にこのままじゃ死んじゃうと思い、風呂上がりにスギ薬局に行き、犬用の缶詰とお菓子とカロリーメイトみたいなやつとチュールみたいなやつを買った。ついでにラ王とじゃがりこも買ったのは、多分、ハチが死にそうなことを意識したくなかったんだと思う。平然を装い、「俺にはラ王とじゃがりこを買う余裕があるんだ」と、母に、妹に、そして何より僕自身に、言い聞かせたかったんだと思う。でも自分自身のことだから、本当の気持ちは嫌でもわかってしまう。食べ終わった食器をカウンターに乗せることすらしない(お母さんには本当に申し訳ない)ウルトラめんどくさがりの僕が一日中勉強してくたくたで帰ってきた風呂上がりにスギ薬局まで行くのが何よりの証拠だ。「明日買いに行こう」ではダメだと思ったのだ。今日、今、1秒でも早くご飯を食べないと、ハチが死んじゃう。座布団の上で丸まっているハチの痛いほどに弱々しい目を見て、本気でそう感じたのだ。だからこそ、僕が買ってきたエサを食べてくれた時は、心底ほっとした。人は極度の不安から解き放たれた時、思わず笑みをこぼしてしまうもので、その時がそれだった。

そして今日の朝、母と妹がハチを病院に連れて行ってくれた。僕はスマホを家に置いて塾に行っていたから、診察結果は知らないまま勉強していた。勉強中は集中できるけど、ふと気を抜くと、ハチのことを考えてしまう。家に帰ってきてドアを開けると、ハチが水色のカバーみたいなのを顔の周りに付けられて、エリマキトカゲみたいになっていた。そのせいで表情は見えなかった。どんな顔をしてたんだろう。エリマキトカゲみたいであることに気を取られてしまい、玄関から上がる時にハチの尻尾を踏んでしまって、ハチが小さく「キャン」と鳴いて飛び起きた。申し訳ない。ごめんな〜と声をかけながら、ハチの弱った体をなるべく目に入れないように、さっさと二階へ向かう。

「厳しい状態やわ」という最悪の前置きに続いて母から告げられた病状は大きく二つ。腎臓がめちゃくちゃ悪くなってることと、大きなイボが何個もあること。
家でおしっこしちゃうのは前者の影響。後者は、一目で悪性とは分かる(母が「〇〇ぐらい大きかった」と例えて説明してくれた気がするけど、ショックすぎてもう記憶から消してしまっている。思い出したくない。)けど、その正体は分からないから、切除して、検査に出したらしい。二週間後に結果が分かると母は言った。それまでハチは生きてるかな、と僕は思ってしまった。すると、先生も同じ考えだったようで、「検査結果が出るまではなんとか持たせて下さい」と言われたらしい。そう言われても、、という感じだが、誰にもどうすることもできない話だから仕方がない。これから二週間は、毎日母が仕事終わりに車でハチを病院に連れて行って、注射を打たせてくれるらしい。母は本当に忙しいはずなのに、ありがたい。ハチがこれから毎日打つ注射が何の注射かはわからないそうだ。
母は、僕が受験に集中できるかどうかを気遣ってくれたけど、正直それは二の次だ。もしも、僕が一年浪人するのと引き換えにハチの寿命が一年伸びるなら、迷わず受け入れる。
あと、母は、明日僕も病院に行き、先生と会って話すことも提案してくれたけど、断った。ハチの病状とか、余命とか、何らかの可能性とか、選択肢とか、そういう話はしたくないし考えたくない。

ここ数日はいろんなことを考えたし、最悪の想定だって何度も何度もしたから、あまりショックは受けなかった。まあそうだろうな、という感じだった。でも、それでも、やっぱり涙は出てしまう。何度か泣きそうになったことはあったけど、実際に涙を流してしまうことはそれまでなかった。母も泣いていた。それからもう少し細かく病状の話をしたけど、それは書きたくない。

そのあと、僕はお風呂に入って、不可思議ワンダーボーイの「生きる」を聴いた。そのままぺリキュールも聴いて、神門バージョンのライブ映像も見た。

ちなみに、その間に母の中学時代(?)の友人が来てて、風呂から上がるとダイニングにいた。その人が来ることは風呂に入る前に母から知らされていた。その人は目がどんどん見えなくなっていってて、近い将来全盲になってしまう、だから今のうちに母やその友達が、その人をサポートする準備をしないといけない、という旨のことを、母は今日の昼過ぎに聞かされたらしい。朝はハチが死にかけていることを知らされ、昼は友人が全盲になりかけていることを知らされるのだから、たまったもんではないだろう。諸行無常にも程がある。「でもな、〇〇にな、絶対、申し訳ないとか私のせいでとか思わせたらあかんねん。ちょっとうちで話そうやー!って感じで喋らなあかんねん。」と母は話していた。だから、風呂のドア越しに楽しそうな笑い声が聞こえてくるたびに、僕は、母に対し、尊敬のような、憐れみのような、複雑な感情を抱いた。

風呂から上がったら、2人の邪魔をしないように、すぐ自分の部屋へ向かった。そして、ミスチルのあんまり覚えてないやのライブ映像をYouTubeで見たんだけど、途中からは、涙を止めることより、泣き声を下の階の2人に聞かれないことに精一杯になってしまい、途中で見るのをやめてしまった。

そのあとベッドでダラダラYouTubeを見て、夜ご飯を食べて、またベッドでYouTubeを見て、今に至る。妖怪きなこ爺さんのブログをさっき読んだ。いつ読んでも引き込まれる文章だけど、今日は一段と胸を打たれる。

※このとき読んだのはこれです。今でも月2回ぐらいは読み返す大好きな文章です。ぜひ読んでみてください。


そして今。決して晴れることはないであろう現在の心境を、整理するために、忘れないために、残すために、文章にしている。出来事の流れは一通り書き終えたので、ここからは自分の気持ちと、そしてハチと向き合おう。

死なないでほしい。生きていてほしい。それが1番。元気になってほしい。また散歩に行きたい。夜の太陽の広場で走り回りたい。それが2番。ここ半年弱ぐらいは、受験生ということで、夕方のハチの散歩も母にしてもらっていた。母は朝もハチの散歩をしてくれている。大感謝。でも、今となると、たまには散歩に行ってあげればよかったなと後悔する気持ちもある。その後悔が何の意味も持たないことは、小4で父、小6で祖父を亡くした僕はよく知っている。知ってはいても思ってしまう。なるべく思わないようにする。

そしてまた考える。
このままハチが元気にはならず、痩せこけたままで、それでも死ぬことはなく生き続けられたとして、ハチは果たして幸せなんだろうか。でも、昨日僕が買ってきたエサを食べるハチは、とても嬉しそうに見えた。尻尾も振っていたと思う。筋肉が落ちて体制が歪んでいるせいか、尻尾の位置は前より低くなってるけど、それでも振っていた。いつだろうか、家族で山に行った時、テンションが最高潮に達したハチは、自分の尻尾を追いかけてくるくる回っていたなぁ。ああ、めちゃくちゃ覚えてる。あと、昨日ハチの頭を撫でてあげて、手を止めた時は、「もっとやって」というようにお手をしてきた。いつものハチだ。「かわいいなぁ」よりも、前足を片方上げてもバランスを保てるだけの筋力がハチに残っていることに安心した。そんなことで安心してる自分がとても悲しかった。

ハチの気持ちを考えると、どんどん深いところに入り込んでしまう。なんせ、相手は犬である。
「痛いのかなあ」「辛いのかなぁ」「生きたいのかなあ」「死にたいのかなあ」
どれだけ問いかけても、答えはわからない。
人間以外の生き物も、死ぬことは怖いんだろうか。
本能的に、危険を避けようとはするだろう。でも、じゃあ、そこに、どれだけ「死」に対する認識が、そして恐怖があるんだろう。
でも、よく考えれば、動物の世界は、弱肉強食、常に死と隣り合わせだ。もしかしたら、動物は、人間よりもずっと、「死」を理解して、見つめているのかもしれない。

ハチが死にそうってなると、今まで「命がけ」のつもりだった受験のことも、どうでも良く思えてしまう。じゃあ、僕にとって、本当に「どうでもよくない」、本当に「命がけ」のことって何かあるのかな。「生きる意味」みたいなありふれた問いにたどり着いてしまう。妖怪きなこ爺さんは、命をマッチの火に喩えていた。古いマッチの火を、新しいマッチに移す。古い方の火は程なくして消え、新しい方はまた次のマッチへと受け継がれる。そこには何の意味も理由もなく、ただただ、次のマッチへ、次のマッチへと続いていく。多分、「それだけ」なんだろう。生きる意味とか、生きる理由とか、そんなものはいくら探しても見つからない。だってないんだから。ないものを探してもどうしようもないんだから、それらは自分で「作り出す」べきものなんだと思う。生まれて死ぬだけの人生に、後付けで、こじつけで、理由とか、意味とかを、一生かけて、作り出していく。なんか似たような話を倫理で習った気がするな。二次試験では倫理は使わないから、思い出す気にはならない。でも、大学に行ったら倫理とか哲学は学びたいなぁ。そうしたら、今の自分の感情に対しても、何らかの答えかヒントっぽいものは見つかるかなぁ。ハチの話から逸れてしまったかな。でも、「ハチと過ごす時間」は間違いなく、僕の「生きる意味」「生きる理由」の一部だった。過去形じゃないか。一部である!!

ハチはいつ死ぬんだろう。ずっと考えてしまう。今にも、母が、大慌てで階段を登ってきて、ドアを開けて、「ハチが、、、、、」って泣き出すんじゃないかと想像してしまう。似たようなことは6年前にもあった。おじいちゃんが亡くなる直前の時期である。僕と妹とハチをよく福万寺緑地に連れて行ってくれたおじいちゃんは、ちょうど今のハチのように、病院のベッドで寝ていた。お見舞いでその姿を見てから、僕は毎日、卒業式の練習の時に、膝の上でそっこり手を合わせて「じいちゃんが死にませんように、じいちゃんが死にませんように」って心の中で唱えていた。そしてある日、給食の時間に、母から電話だと先生に知らされて、その時点で僕は既に全てを悟った。そういえば、最後におじいちゃんにあったときに言ってくれた言葉、思い出せないんだよなぁ。妹は覚えてるかな。機会があれば聞いてみよう。話を戻すと、そのトラウマがあるから、僕は余計にハチの死を恐れているのかもしれない。今ハチが死んだら、「尻尾を踏んでキャンって泣いた」が、僕とハチの最後の思い出になってしまう。やるせなさすぎるでしょ。
でも、これから毎日、家を出る時は「生きてるハチを見るのはこれが最後かもな」って思わなきゃいけなくて、勉強してる時は「ハチ生きてるかな、でも死んでても俺はスマホを持ってないから知る術がないよな」って思わないといけなくて、家に帰ってドアを開ける時はドアの前に目を腫らした母が立っていて最悪の知らせを聞かされる覚悟をしないといけなくて、朝起きる時も同じだって考えると、正直辛い。本当に元気になってほしいし、もしも元気になれないって決まってるなら、それなら、早く楽にしてあげて下さい神様、とも思ってしまう。それはエゴなのかな。ハチは苦しくても少しでも長く生きたいのかな。分からない。

今すぐベッドから飛び出して、おそらくもう長くは残されていないであろう、そしてハチもそうだと自覚しているであろうハチと過ごせる時間を、めいっぱい大事に過ごして、今までの感謝とか、ごめんねとか、思い出の話とか、伝えたいなって思う。散歩は毎日行けてるらしいから(これが唯一のポジティブな要素。頼むから毎日散歩には行ってくれ。あとご飯は食べてくれ。生きてくれ。)、散歩に行きたいなとも思う。歩きながら号泣しちゃう自信があるけど。
でも、しないのは、そんなことしたら、ハチに最期のお別れを告げることになるような気がするから。今までありがとう、って言いたいけど、そんなこと絶対に言いたくない。その後に、「さようなら」が続くような気がするから。言えない。

こんな考えに至るのは、僕が日頃、感謝することとか、命が有限であることとかを、忘れてしまっているからだと思う。本当は、毎日、「今日死ぬかもしれない」って思いながら生きなきゃいけない。「これが最後の会話かもな」って思いながら行ってきますを言わなきゃいけない。「生きてた、よかった」って感謝しながらただいまーって言わなきゃいけない。そんな大事なことを忘れないために、昔の人は、挨拶を作ったんだろうな。
改めて考えると、僕は、大学に合格すれば、あと二ヶ月ぐらいでこの家から出て行ってしまう。ってことは、ハチが元気かどうかに関わらず、僕がハチに会える回数、日数、残り時間って、あまり長くない。それは、母にも、妹にも、祖母にも、高校の友達にも言えることだ。当たり前じゃない、って口で言うのは簡単だけど、本当にそれを忘れないでいるのはめちゃくちゃ難しい。人は慣れる生き物だから。

僕が明日からすべきこと。
ハチに、母に、妹に、祖母に、友達に、先生に、
感謝して生きる。
「もしああしてれば、、」って
パラレルワールドの僕が悔やんで悔やんで悔やんでそれでもどうすることもできない夢の世界に
今自分は立っているんだって、
当たり前のことなんか何もないんだって、
この気持ちを、忘れずに生きる。
そして、
今まで周りの人(と犬)がくれたものと、
これからくれるものを、
忘れずに、胸の中に、大事に取っておく。

なんかきれいにまとまりそうだけど、あともう少し。
あんまり考えたくないけど、
ハチが(ハチに限る話じゃない。「人が」って言い換えてもいい。)
死んだ時、残された僕らは、何ができるだろう。
死んだ人を忘れない限り、記憶の中でその人は生き続けるってよく言うけど、どうだろうか。
そりゃ大事な人との記憶は一生忘れないけど、
その中にその人は生きてるのか?
いや、もう死んでるでしょ、って今は思う。
心臓が止まった時点で、命は終わり。
無へと帰っていく。
心の中で生きる、とか、響きはいいけど、
それは、残された側の
「覚えてたい」と「生き続けててほしい」が作った
都合のいい幻想だろう。
死んだら終わりだと思う。

じゃあ、残された側はどうするんだよ!?!?
って聞かれると、僕の答えはやはり
「その人のことを」
いや、濁すのはやめようか。
「ハチのことを、忘れずに、覚えておく」である。
これは、ハチのためとかじゃない。
ハチが生き続ける、とかそんなのはない。
ただ、僕にとって、ハチとの思い出は大事な宝物で、それは、ハチが生きていても死んでても関係ない。
だから、その宝物を、大事に持っておく。
大事だから。宝物だから。
それ以上の理由も意味もない。
そもそも生きること自体が、
理由も意味も持たないんだから。
ただ、ハチが生きていて、僕が生きていて、
共に時間を過ごした。
それだけ、それだけのことを、
僕が勝手に、宝物にして、大事にして、
胸の中にしまう。
そこで全て完結しているし、完結すべきだと思う。

「今」を大事に生きれば、その時間は宝物になる。
その宝物を、胸の中にしまっておく。
それがやがて、
生きる意味になり、生きる理由になる。

とりあえず今思ってることは全部吐き出せたかなー。
また何かあれば追記するかも。
この文章を数ヶ月後に読み返して「考えすぎやわーー」って笑い飛ばせることを願う。



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