「ろう」と「難聴」のいざこざ
「聴覚障害者」とひとくくりにされる「ろう」と「難聴」。この境界には少し、ゴタゴタがある気がします。
こんにちは!くつばこ+のせんです。何か計画を立てる時はワクワクしているのに、いざ実行するときになると億劫になるのはなぜでしょうか?今まで計画通りにいった長期休みは一度もありません‥。
☆昨日のnoteの締めくくりを読んで
昨日noteでうたが、筑波大学附属聴覚特別支援学校の生徒が書いた読書感想文『聾者は障害者か?』を読んだとき、「ろう文化を持たない聴覚障害者に対して、優越感を感じてそう」と思った、と書いていました。せんは言われるまで感じなかったのですが、もう一度読んでみると「たしかにそうとも取れるかも…」と。
今日は、どうしてこういうことが起きるのかを考えてみようと思います。
☆「ろう」と「難聴」の違い
くつばこ+のnoteでもちょくちょく登場する「ろう」と「難聴」、この違いみなさん説明できますか?いろいろ幅はありますが、大きな特徴として「ろう」は日本手話を第一言語として、ろう者独自のろう文化があります。それに対して「難聴」は、音声言語をメインに使い聴文化の影響が大きいです。聴力の程度が重度だと「ろう」、軽~高度だと「難聴」の人が多い、のように大まかには聴力で分けられている雰囲気もあります。しかし、聴力が重度でも「自分は難聴」という人もいれば、高度だけど「自分はろう者」という人もいます。ここはアイデンティティの部分なので、数字で線引をしたり周りが決められるものではありません。
そんな言語も文化も違う「ろう」と「難聴」ですが、耳が聞こえない/聞こえにくい=「聴覚障害者」として、ひとくくりにされがちです。でも実際は…。
☆大学で感じる辛さ
せんが通う大学は聴覚障害学生が多く、日常的に手話を使うろう学生の割合が高いです。そして、日本手話やろう文化の授業もあり、「ろう」を中心にした講義がメインです。ですが、せんは難聴なので、これらについていけない・納得いかないこともしばしば…。たとえば講義の中で、「難聴者が少しでも聞こえることを自慢するから、ろう者と難聴者の間に軋轢が生まれる」と言われたことがあります。言語も文化も違うので、度々行き違いが起きたりぶつかったりする「ろう」と「難聴」 たしかに少しでも“聞こえる”ことを優位に思っている難聴者も、中にはいるのかもしれません。でも、すれ違う理由はそれだけじゃないと思うんです。ろう者が自分たちの言語文化を難聴者に押しつけたり、「難聴者は言語文化を持ってなくて(中途半端で)かわいそう」という言い方をしたり(それこそ障害者=かわいそうの考え方なのでは?とせんは思うのですが)、ということも、すれ違いが起きる原因になっているのではないでしょうか。どちらか一方のせいではないと思います。
☆問題の原因をずらしてはいけない
もうひとつ講義の中で言われて、ショックだった言葉があります。
「音声を使う難聴者がいるからろう者の肩身は狭くなる、誤解される」
と思うろう者もいる
この言葉を聞いたとき、ショックと怒りと悲しさといろんな感情が入り混じって、しばらく混乱状態でした。「そうじゃないよね?私たちに責任を求めるのは違うよね?」と必死に思ったのを覚えています。ろう者が不利益を被るのは、音声を使わないろう者に対する環境が整えられていない“社会の問題”なのに、“マジョリティに合わせちゃう難聴者”の問題にされてしまう。音声を使う難聴者だって、すべてわかるわけじゃない。難聴者ならではの「もがき」だってあるのに。そんな気持ちでした。
☆考え方の違い
ろう者は、聞こえない/聞こえにくいなら手話を使えば良いじゃんという考え方。難聴者は、マジョリティが使う音声を使えるならそっちを使った方がいいじゃんという考え方。どちらが良い悪いとか、正しい正しくないとかではなくて、どっちも自分に合う方を、好む方を、選んでいるんです。だから、あなたは手話ができないのね・口話ができないのね、と自分の言語に当てはめて欠けているところを指摘するのではなく、お互いそれぞれが選んだものを尊重しあえたらいいなと思います。
「ろう」を悪くいうようなnoteにとられてしまうかもしれませんが、友だちとして仲のいいろう者はたくさんいて、憧れる人も尊敬する人もいます。「個々人の問題ではなく、属性で見たときにちょっとしたズレがある。でも、お互いの言語文化を尊重しながら歩み寄っていけたらいいよね。」と思っていることが伝わったら嬉しいです。