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会津ムラムラ

   【2012年発表の再録】
90年代に、細野晴臣、清水靖晃、そして私が マネージャーがやっていた鈴木惣一朗の 3人が企画していた越境型音楽イベント 『東京ムラムラ』というものがあった。

91年と92年はパナソニックが汐留に一時的に存在させていたイベントスペース、東京パーンで 1週間以上に渡ってイベントをやった。 アフリカのザンジバルのバンドが出たり、エレキギター弾いて歌うアラブのじいさんが出たり、 無声映画の伴奏の日本の楽団が出たり、 アンビエント・テクノのジ・オーヴを初来日させたり とにかくノンジャンル!すごいイベントだった。

93年には日本が15年不況に突入し、 パナソニックがスポンサードから降りてしまって、 原宿ラフォーレがなんとかお金を出してくれて 中国の作曲家、チャオ・チーピンさんを 招いた(『赤いコーリャン』等の映画音楽で有名)。

さてさて、94年はなんと!会津の劇場からお金が出て、会津にて『会津ムラムラ』というイベントを開催する 事になった。この時の出し物は、鈴木惣一朗の 提案がみごとに通って「コミック・バンド大会」♫
アマチュアのそれではなく、本当に芸人として 長年やっているコミックバンドを集めた音楽祭となった!

  出演
坊屋三郎(ぼうやさぶろう:元あきれたぼういず)
都家歌六(のこぎり演奏芸人)
チチ松村(ゴンチチ)
中村有志
YOU(歌手/女優)
三木のり一(三木のり平の長男)
照屋林助&まーにんねーらんバンド

なんと、このメンバーで一緒に会津までバス旅行したのである。私は、都家歌六および鈴木惣一朗、両方のマネージャー として参加した。

行き帰りのバスは本当に楽しかった。
三木のり平の長男の、のり一(かず)氏とジャズの話を したり、坊屋三郎さんのサポートでやって来た ハウゼ畦元(あぜもと)さんと話をしたり、、、、。。。。

ハウゼ畦元さんの、昭和芸人音楽家話は、 映画を観ているようだった。当時、どさ回りの 歌手のバックの演奏家は、誰の演奏を担当するか 何も聞かされずに、手配師から呼ばれて上野へ行く。そこで手配師から切符を渡されて、君は今夜は○○さんのバックで仙台行きだ、とか告げられる。
ハウゼ畦元さんも、しょっちゅうそういう仕事をしていたのだが、ある日まちがった切符を渡され、まちがった汽車に乗ってしまった。
途中で気づいて、ほうほうのていに引き返し、正しい場所に本番5分前にたどり着いて譜面も初見で演奏した・・・・とか。

「ハウゼ畦元さんのハウゼはアルフレッド・ハウゼのハウゼですか?」
「そうです。今の人はタンゴのハウゼを知らないのに、あなたは若いのによく知ってるね。そうそう、私はギターとオルガンの人といっしょにサン・サンズというバンドをやってたんです」
「あ、スリー・サンズのもじりですね?」
「スリー・サンズも知ってるのか、さすがだね。そのもじりでもあり、あるいは作曲家のサン・サーンスのもじりでもあった。そして3人だったしね」

こういう、昭和の本当の芸人たちとの会話が面白かった。 ドライブインで、みんなで食事したとき、鈴木惣一朗は
「坊屋三郎さん、何を食べましたか?」
と聞くと、坊屋三郎さん、サービス精神あって
「会津磐梯定食たべて、それで『バンダイ』と言ったよ」
とバンザイのかっこうをした。

イベント本番は、私は坊屋三郎さんの若い頃のスライドショーの上映を担当したりした。
坊屋三郎さんは、 自分でダッシュボードをからだにつけて、 鉄の爪でひっかいて汽車の音を模した芸を披露した。


そして一番感動的だったのは、坊屋三郎に憧れてコミックバンド「まーにんねーらんバンド」を始めた照屋林助さんが、このイベントで初めて坊屋三郎さんに 会えたという事だ。イベント終了後のパーティーで、坊屋三郎さんは
「彼らに、私が会長を務めるボーイズ・バラエティ協会の 会員になってもらう事にしました!」
と発表した。ボーイズ・バラエティ協会というのは、プロのコミックバンドの協会なのだ。晴れて、坊屋三郎さんに認められて入会した照屋林助さんの 喜びはひとしおだっただろう。。泣いてこそいなかったが、感無量だったにちがいない。

このイベントには坊屋三郎を追っかけて来た ドキュメンタリー番組のスタッフもいて、のちに放送された番組では、坊屋三郎さんが 舞台に出て行くのを舞台袖で見つめてる私の姿も映っていた。

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