noteの効能
noteの毎日投稿を始めて、1か月以上が経過している。
思っていることをそのまま書いているだけなので、文章を書く苦労は小説と比べれば100分の1くらいなのだけれど、それでもまとまった量の長文を書くとなると、それなりに時間はかかる。1時間はかけないようにしているけれど、見直しも含めると、だいたい30分はかけている。
いちおう小説を書くお仕事をしているので、担当編集者さんが万一、当アカウントをご覧になったら「その時間を小説執筆に充てれば……」と思われそうだ(被害妄想か)。
でも、個人的に、このnoteを続けていることは、小説執筆のうえでも大きな助けになっているのだ。そのことを書いておきたい。
まず、毎日パソコンを立ち上げるようになる、ということが大きい。
私は小説を一定量読まなければ、自分の小説が書けないたちである。頭の中に燃料となる文章が溜まらないと、書くものがどんどん痩せていく気がするのだ。
だから「読書も仕事」と思って、仕事机の前で小説を読みふける日もあるのだが、それが書かない言い訳にもなってしまっている面は……ある。
だが、noteを書くようになってから、パソコンを毎日立ち上げている。これは大きい。「せっかくだから、仕事も進めておくか」となって、プロットか本文に毎日触るようになった。
毎日進める、ということは大切だ。noteで、とりとめのないことを書くのも、この「毎日」の習慣化の一助となっている。
また、noteで文章を書くことにより、文章を書くことそれ自体の心理的ハードルが下がる、という効能も大きい。
Twitter(旧称)などの短文投稿サイトだと、投稿する文が短いし、日本語としておかしい文章も、面白おかしく投稿してしまうことがある。だから腰を据えて取り組む小説とは、脳の別の部分を使っている感覚がある。この「小説との無縁さ」こそ、多くの作家が息抜きとしてTwitterを使う理由だと思う。私もそうだ。
短文投稿サイトと比べて、noteではそれなりにちゃんとした日本語を書くように意識している。ただ、日常の記録が中心だから、肩肘張っているわけでもない。
ゆえに、小説執筆の前や合間にnoteの文章を書くことで、適度に緊張がほぐれる。小説はゆっくり書くことも大事だと思っているけれど、悩みまくるのもまた問題だ(現実に、締め切りというものもある)。
昔、東野圭吾先生がインタビューでおっしゃっていたことで、ときどき思い出す言葉がある。引用してみたい。
東野先生がこうおっしゃるのだから、多分小説というのは、自然体で書くのがいちばんなのだろう。
いい加減に書くのとは違う。出せる実力の上限値は決まっているのだから、がちがちに緊張したところで意味はない。力を抜いて、気楽にやることでしか、ベストなパフォーマンスは出せない、ということ。
そして実力の上限値には、これまでの読書の量と質が大きく関わってくると思うので、運動部的にいえば、読書こそが基礎練ということになるのだろう。
話が逸れちゃった。
要するに、小説を書くときには力を抜くことも大切で、noteはそのいい準備運動になるということだ。
あとはまあ、単純に楽しいです、note。
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