「仕事で小説を書くのは楽しいのか」問題

 今週の火曜日、高校のときの同級生数名と会って、お酒を飲んできた。
 みんな翌日の仕事があるというのに、終電ぎりぎりまで盛り上がってしまった。

 おもに、ごく内輪の話で盛り上がったのだが、その席でひとりの友人から鋭い質問をされた。
 私が小説を書いているということはみんな知っていて、小説家のお仕事がどんな感じなのかという話題になったのだが、
「小説を書くモチベーションは、デビュー前から変わらない? 今でも書いてて楽しいって気持ちでやってるの?」
 というようなことを尋ねられた。

 そのときは「書くのは楽しい」と答えたし、それは自分の正直な気持ちだけれど、あらためてこのことについて考えている。
 自分のモチベーションがここ数年、ゆるやかに変化してきたことは感じていたからだ。
 こういうことは、ひとりで頭の中で考えていると、ネガティブな方向に気持ちが引っ張られてしまうときもあるから、この場で考えを整理してみたい。

 デビュー前は間違いなく、小説を書くことを心から楽しんでいた。誰に頼まれるでもなく、夢中で書いていた。
 とくに、私が高校生のときに初めて商業出版した『無気力探偵 面倒な事件、お断り』という小説は、もともと本になるとは思わず、趣味全開で書いていた習作なのだ。
 とりわけキャラクターについて言えば、探偵役の男の子の造形とか、ボーイズラブが好きな女子が出てくるところとか、「男の娘」と称される中性的な美少年が出てくるところとか……、思春期だった当時の自分の好みが山ほど盛られている。

 私はウェブ上の投稿サイトに小説を載せていて、そのひとつが『無気力探偵』だった。これを書籍化しませんか、と出版社に声をかけていただいたことがデビューの契機だった。
 本当に予想していなかったことで、まさに望外の喜びというしかなかった。もともと小説家志望ではあったが、「大学生になったら長編をちゃんと書き上げて公募に出してみたいな」というような、ゆるいキャリアプランだった。
 そもそもウェブに小説を載せるようになったのは、高校の友達に誘われたのがきっかけだった(先日会った同級生たちではなく、部活の友達)。私はウェブに小説を投稿してデビューするルートがある、ということもぼんやりとしか知らなかった。
 なので本当に、最初のきっかけは「『好き』だけで書いていた」ことと言える。投稿サイトの読者に楽しんでいただけるのも嬉しかったし、物書きとしての力量をつける練習のつもりもあったが、それらも含めて、「好きでやっていた」のだ。

(ただ、実際に『無気力探偵』を出版するときにはほとんど全編を書き直す必要が生じたので、書籍化した本は「これは仕事」という意識で書いた部分も多い。短時間での改稿作業はきつく、未熟さを痛感したが……それはまた別の話)

 それからもデビュー版元であるマイナビ出版で、商業出版を続けさせていただいている。本当にありがたいことだ。
 さてそれで、冒頭の話題――自分のモチベーションの話に戻ると。
 小説を書くこと自体はずっと楽しいのだが、「楽しい」だけではいられなくなっている、というのは率直なところかもしれない。

 それはやはり、責任というものが生じるからだろう。
 文章を書くことでお金をいただく、ということの重さは、ぼんやりと小説家を夢見ていた小中学生のときに想像していた以上のプレッシャーだった。
 いちど印刷されてしまった本の中身は、もう直せない。誤字脱字も、文法ミスも、人名の誤記も。ミステリとして辻褄が合わないところがあっても。あるいは、誰かを意図せず傷つけてしまうような、不用意な文章も。
 重版すれば、そのときに誤字脱字くらいなら直せるが、本が一定数以上売れなければ重版しない。さらに、文章を数行に渡ってまるごと書き換えるような改変は不可。そもそも、読者のかたの手に渡った初版本の中身は、もう絶対に直せないのだ。
 活字になって製本された自著は(国内の出版物すべてが納入される)国立国会図書館にも納められる。
 お金をいただいて文章を書けるのは、有難く光栄なことだけれど、文章を書くときの気構えは変質せざるを得ない。

 このへんが、やはり単に「楽しい」だけではやっていけない理由だ。
 しかしもうひとつ付け加えるなら、「楽しさ」そのものの質も、少しずつ変わってきたように思う。
 趣味性全開で書いていた習作時代は、自分が楽しんで書けることだけを書いていたけれど、プロになるとそうはいかない。デビュー前の作品ではハチャメチャだった警察考証をはじめ、歴史考証、地理や経済の感覚、ジェンダーやセクシュアリティへの視点……など、小説の品質を保つために意識しなければいけないことがたくさんある。
 これらの項目は、上手く書けたからといって小説の面白さの核にはなれないけれど、いい加減だと減点対象になる。読者に減点されないための「守り」もプロの仕事なんだな、と思い知った。
 では、その「守り」が苦しいばかりかと言えば、そうでもない。最近ではむしろ、こういう細部のリアリティを追求することにこそ書く喜びを感じる。つまり、小説の質が高まることが楽しい。

 この文章を書きながら、自分の気持ちがわかってきたかもしれない。
 いまの自分は、(曲がりなりにも)プロであることで苦しんでいるし、またプロであることが楽しさに繋がっているのだろう。
 商業出版される前提の小説を書く「楽しさ(≒やりがい)」と、単に小説を書くことそれ自体の快楽を区別しないと、挫けてしまう気がする。思えば私も、このあたりのモチベーションを上手く自分で定義できず、苦しんだ記憶がある。
 今でも、趣味でこそこそと二次創作小説を書くときなどは、1日に平気で1万文字くらい書けてしまう。それは楽しいからだ。お仕事で書く小説だとそうはいかない。でも、そうはいかなくていいのだ、きっと。

 自分の小説の読者のかたに読まれたら恥ずかしいというか、申し訳ないくらいぶっちゃけた話になってしまった。
 でも、自分なりに、このことは一度整理しておきたかった。
 書くことで悩んでいる人が何かのはずみで拙文に辿り着いたとしたら、どこかしら参考になれば幸いである。

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