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どうする、ニッポン

2 タテ社会とヨコ社会

人類学者の中根千枝氏によると、社会集団の構成要因は「資格」(属性)の共通性があるものと「場」(所属)を共有によるものがあり、各個人は「資格」による社会層、あるいは「場」による社会集団に属しているといわれています。

2.1 タテ社会の日本

私たちの社会は“属性”よりも“所属”を強調することが多かったようです。

2.1.1 タテ社会の成立-倭国とヤマト

縄文時代かその前に南からフィリピン、台湾、沖縄を経て日本へ渡ってきた人たちがいます。南からの人は、マレーシア半島から島伝いでフィリピンへ来た人たちと、ポリネシアから島伝いにフィリピンへ来た人たちがいました。彼らがフィリピンから海を渡って台湾まで来ると、次は沖縄へ来て九州まで来ることは当然の冒険だったと思われます。北からの人たちは朝鮮半島から対馬を経て九州や中国地方、近畿地方へ来ています。地図の北を下にして朝鮮半島から日本をみますと、日本海を隔てて九州地方から北陸地方までが目と鼻の先のように見えます。ユーラシア大陸を横断して東端にある朝鮮半島まで来た人たちが、海を渡りたいと考えたことは想像に難くないことです。北へ向かった人はアジア大陸をシベリアからベーリング海峡を渡って、アラスカへ行きました。また、サハリンを経て北海道へ来た人たちもいたと思われます。

縄文時代の日本列島は、北からも南からも多様な民族が渡って来る、国際色豊かな島でした。日本へ来た人は民族ごとに別々に暮らしました。同じ民族グループは地域ごとに集落をつくって暮らして、今でいうところの“国”を形成していました。もともと日本列島に住んでいる人たちも集落を作っていました。民族ごとに文化が違い話す言葉も違いますから、民族固有の言葉と風俗習慣が国民のアイデンティの証明でした。それぞれの民族にはリーダーがおり“国”はリーダーに率いられていました。リーダーが男の国もあれば女の国もありました。どの国も互いに対等の付き合いをしていました。九州に「倭国」と呼ばれる“国”があり、中国と交渉があったことは「魏志倭人伝」に記録されています。卑弥呼が率いた邪馬台国がどこにあったのかはいまだに明確ではありませんが、おそらく「倭国」と総称された“国”の一つではないでしょうか。

古代の日本が中国の影響を強く受け始めたのは弥生時代と思われます。弥生時代も後期になると、「倭国」の支配者層は古代中華帝国の統治手法を学んで、“国”を運営する基本規則としました。彼らは漢字と文章をタテに書く漢文を習得していたようです。文章をタテに書く漢文の習得が、日本の「タテ社会」の始まりです。中国では鳥の足跡(縦に歩きます)から鳥の種類を記録するためとか、占いのために大腿骨(縦にひびが入ります)などの骨を用いたといわれていますから、記録する文字も縦に書くようになったようです。古代中国の「タテ社会」の始まりです。

余談ですが、墨で筆を使って漢文を書くとき、書いた文字が乾かないうちに左の行へ移ると書いた文字が擦れてしまうので、漢字の文章を縦に右から左へ書くのは自然ではないような気がします。漢字の書き順は左から右へ書きますから、文章を右から左へ書くより、縦書きでも横書きでも左から右へ書くのが自然ではないでしょうか。漢字の文章を右から左へ書くのは、文字を書くこと自体が修行だったからと思われます。

中国地方から近畿地方に来た豪族のうち、統治する地域を大阪・奈良地方から西へ東へと広げていった部族がありました。近畿地方から西の豪族たちを武力で平定し従えました。この部族が何がしか天皇家とつながりがあるのではないかと想像できます。古代日本の王となった天皇に従う部族たちが地域を支配する社会ができました。日本という本格的な“国”(統一国家)の始まりです。古墳時代にヤマト政権が誕生して、飛鳥時代へとつながります。各部族の支配下にある一般の人は、自分たちが住む地域を優先しました。ここに「場」(所属)を優先する日本の「タテ社会」が確立したのです。

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