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《短編小説》蟹工船

海面に降り注ぐ屈折した太陽光は灰色の雲に閉じ込められ、大気は湿った熱気でうねっている。

港には三十人の若い兵士の隊列があり、海を背にして立つ教官は、兵士達に向かって何か言っているが、ほとんどの兵士達は教官を透かして海の果てを見ながら静かに胸を高鳴らせていた。

そんな中、隊列の一番後ろに立つ一人の兵士だけは、教官の話を聞きながら夢夢不思議な気持ちを心中に感じていた。

「それでは校舎で座学を行い、その後、大和号へと乗船してもらう。説明は以上である」

教官はそう言い終えると、隊列の横を颯爽と抜け、校舎へと入っていった。若い兵士達もそれに続いて校舎へ入っていった。

教室には机が整然と並んでおり、早いものから順に前の方へ詰めて座っていった。

「ではこれから大和号における内部の名称、及び機能について説明する」

それから五十分の座学があった。
現在の時刻は十四時を指している。

「十分の休憩の後、武器の説明を行う」

教官が教室を出ると、教室のあちこちから話し声が聞こえ始めた。様子を伺うような小声から始まり、次第に大きな賑わいへ変わっていった。

「大和だ!大和に乗るんだ!」
「日本の誇りだ!万歳!」

教室が賑わう中、依然として久保田は一人、夢夢不思議な顔をしていたが、突然、ハッと何かを思い出したように息を呑み、急激に顔を青ざめさせた。そして咄嗟に後ろを振り向いた。

一番後ろの席に座っていた兵士と目が合う。北野は「おお」と嬉しそうに立ち上がり、久保田の元へと駆け寄って行った。すると久保田も立ち上がり、駆け寄ってきた北野の肩を突然ぐっと掴み、そのまま教室の後ろ壁へとぐいぐいと押しいった。何事だ、と北野は眉間に皺を寄せたが、久保田の鬼気迫る表情に何かただならぬことを感じて何も言わなかった。

「…北野、聞いてくれ。頼む、聞いてくれ」
久保田はハアハアと息を切らせていた。
「…なんだ、そんな息を切らせて…」
「これから起こることを思い出したんだ。知っているんだ。これから俺たちは蟹工船に乗せられるんだ」

その目は血走っていた。

「…ほー、蟹工船か、じゃあ蟹をとっ捕まえて、こう割って食えばいいな、そうかそうか、はは…」

北野は蟹の甲殻を割る仕草をしながら笑った。しかし、久保田の表情は変わらない。

「…違う。そんな易しいものじゃない。強制労働で無理やり働かさせれるんだ。こき使われて、休む暇もなく…、死ぬ奴もいる。無茶苦茶なんだ。そこには兵士としての誇りなんて微塵の欠片もない。人権なんて一つもないんだ」

その目にはうっすら涙が浮かんでいた。

「おい、待てよ…!何を言ってるんだ。これから俺たちは誇り高き大和の船に乗るんだ。さっきも授業でやったろ、俺たちはこれからあの船に乗るんだよ」
「頼む、聞いてくれ。お願いだから、頼む」

北野はこんな焦燥感に駆られた久保田を一度も見たことがなかった。

「…俺は知ってるんだよ。…あああ何で知ってるのかは、聞かないでくれ。…それでも、これから起こることは全て事実なんだ。ああ、くそ、もう時間がない。手短に言う。聞いてくれ。俺たちは蟹工船でボロ雑巾のような扱いを受ける。でも、そのままじゃだめなんだ。誰かがリーダーとなって立ち上がらなくてはならない。労働とは強制されるものであってはならないんだ。雇い主と働き手の関係はルールの上で平等でなくてはならない。それだけは忘れないでくれ、そして、これからきっと起こる最悪の事態を俺たちは受け止めなければならない。絶対に負けてはだめだ…ああ…」

久保田は涙を溜めた目で必死に北野を見つめていた。

「…そんなこと、分からないじゃないか」

「北野!一番辛いのはこの事実を知っている俺なんだ!分かってくれ!」

「…ああ、ああ、そうだな。たしかに一番辛いのはお前かもしれない。でも、もしそうだとするなら俺たちはこれからどうすればいい?」

「ああ、それだが、これから俺たちは蟹工船へ向かう小舟に乗せられる。本当は乗りたくないがこれはどうしても避けられないことなんだ。強制労働も避けられない。だからさっき言ったことは、いつかみんなにも伝えなくちゃいけない。その時が来るまで僕らは耐えなければならない」

「……ああ、そうか…」

「でも、俺は真っ先に死ぬかもしれない。体力がないんだ。風邪もすぐ引くしな」

久保田は自嘲気味に笑った。

「…そんなこと言うな。俺たちは」

ガラガラ、と教室のドアが開いた。そして大きな箱を抱えた教官が入ってきた。

「では、これから武器の扱いについて説明する。各自銃を取れ」

教官は机の上に箱を置き、箱の中からリボルバー式の拳銃を次々と机の上に置いていった。教室内からはどよめき声が漏れた。

北野は「また後で話そう」と言い、リボルバーに群がる兵士の中へ飛び込んでいった。

「もちろんこれは本物の銃だ。お前たちはこの銃を持って、我が日本国のために命を燃やし戦うのだ」

…嘘だ。蟹工船で銃なんて使わない。ああやって一旦、銃を持たせることで、兵士達に希望を持たせることが狙いに違いないんだ。

「こうして弾倉を開けて弾数を確認しろ」

教官はリボルバーの弾倉を開けてみせた。

「弾を込めた後は十分注意するように」

教官はそう言い残すと、教室を出て行った。みんな本物の銃に夢中になっている。

「教官はどこに行ったのかな」

田村が話かけてきた。

「さあ、知らん」

「…なあ、おい、久保田んところ宗教やってるやろ」

田村が弾倉を確認しながら言った。

「…ああ、婆ちゃんが熱心にやっとる。それで俺も生まれた時から信者ということにされとるけど、俺は宗教活動なんぞ一切やっとらんし、信仰も持っとらん」

「でも、お前んところの家族結構すごいやろ。俺この前、お前のところの婆ちゃんに勧誘されたで」

田村はお婆ちゃんが必死に説得してくる様子を真似をしながら笑った。家族が馬鹿にされるのは不愉快だった。

「ああ、婆ちゃんはそうかもしれん。でも僕には関係ないから」
「えー?怪しいぞ。お前ポケットに数珠でも隠し持っとんじゃないんか?それで、隙あらば俺たちを勧誘しようとか思っとるんじゃないんか?」
「はあ?何言っとんや。さっきも言ったが信仰心なんて一切もっとらんわ」
「じゃあポケット見せてみいや」

田村が制服のポケットに手を伸ばしてきた。

「やめえや!」

久保田はその手を掴んで、おもいきり捻り、田村を睨みつけた。

「おい、離せや。怪しいのう、お前。離せや」

田村は挑発的な態度を崩さなかった。口角は釣り上がっているが、目は全く笑っていなかった。久保田は何がそこまで田村を駆り立てているのかが分からなかった。

「田村、いい加減にせえや」

北野が割って入った。
その後、教室には教官が戻ってきて、授業は滞りなく行われた。

校舎から出ると、大雨だった。湿った嫌な空気が肌にまとわりつく。暗い空に灰色の分厚い雲が重なり合い、遠くの方で雷が光っていた。

「まるで牢獄だ」

久保田は呟いた。

「集合!」

教官の号令に、若い兵士達は速やかに従った。

「隊列を組め!これよりこの港に船が着く。お前らはそれに乗り込み、現在オホーツク海を航海中の大和号と合流する。大和号までは16時間あれば着くだろう。その間の食事、水分補給はできない。用を足すところもないので到着まで我慢するように。分かったか?…返事!」

「はい!!」

船内の環境は最悪らしい。我々に対する酷い扱いは、早くもこの船内から始まるのだ。そうして、だんだんと環境が酷くなっていくことに気づかないほど感覚を麻痺させられるのだ。排泄の我慢なんて16時間もできる筈がない。我々はこれからそうやって尊厳を踏み躙られ、操り人形に調教されていくのだ。みんなはまだ気付いていないらしい。この待遇がいかに不条理なものか、教官たちが思い描いている未来が我々にとってどれほど絶望的なものなのか。利用されて、使えなくなれば殺される運命をみんなはまだ気付いていないのだ。

薄暗い海の向こうから黒い船が現れた。黒い船は荒れ狂う波の上を縫うようにしてこちらへ向かってくる。ほとんどの兵士達は、大雨の中、その小舟を見てもなお目を輝かせている。

「あれがお前らを大和号へと運ぶ船だ」

黒い船はゆるゆると近づいてきた。あんな荒れ狂う波の中でも、こうして港へと辿り着くことができるというのは感心である。
港に着いた黒い船は近くで見ると思ったより背が低く、船体が長かった。

「梯子がかかったら速やかに搭乗しろ」

「はい!」

「あと、各自に渡した武器は念のため一旦回収しておく。搭乗する際、私が預かる」

黒船から梯子が降りた。

「では前から順に進め」

久保田は武器を回収されたら、二度と手元に戻ってこないことが分かっていた。全て見せかけなのだ。この船が戦地へ行くものではないのだから当たり前だ。

久保田は列の一番最後に立った。みんな簡単に順番を譲ってくれた。北野は人波に流され、列の先頭のほうまで行っていた。久保田は右ポケットの中からはみ出た銃を握りしめた。列の先頭の方を見ると、皆無言で、教官の持つ箱の中に銃を入れて、梯子を登り搭乗していっていた。列はあっという間に進んでいき、ついに久保田の搭乗する番になった。

「教官」

久保田はポケットに突っ込んだ銃を握りなが教官の前で立ち止まった。久保田の前にいた兵士は既に梯子を登り切っていた。

「なんだ貴様、銃を渡してさっさと搭乗せんか!」

教官が鬼のような顔で叫んだ。

「なぜこの銃には弾が込められているようになっているのでしょうか」

「どうでもいい! さっさと渡せ!」

教官は銃でいっぱいになった箱を抱えながら叫んだ。久保田は自分のこめかみに銃口を押しあて、速やかに引き金をひいた。爆音が耳を貫き雨音の中へと消えていった。そして静寂が訪れた。

2020.1.28 夢日記

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