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包丁を研ぐ人

 近所に、時々回ってくる包丁研ぎの人。
 店舗はないから、その辺のお店の軒先みたいなところを借りて一日だけ営業する。料金は格安。午前中預けると午後返してくれる。研いでいるのは、やせて小柄な、高齢の男性。日に焼けた皺の多い顔を、あまり上げずに応対してくれる。

 ある暑い夏の日に、布でくるんだ包丁を持っていった。
 危険な域に達する高温の予報が出ていて、その日も朝から凄まじい暑さだった。
 男性が座っているのは、申し訳程度に庇のある、その時間にはまったく日陰ができない場所で、ほぼ炎天下といっていい。
 こんなところにいて、大丈夫かなと心配になりつつ、持参の包丁を預ける。預けるついでに、
「今日はまた暑いですねえ」
と声をかけた。
 すると彼は、たぶん初めて顔を上げてこちらを見やり、静かにほほえんで、
「夏らしくて、いいじゃないですか」
と答えた。
 そのたった一言に、私の知ることのない、彼の(恐らく)厳しかった人生が込められているような気がして、一瞬ヒヤリとした。

 午後に包丁を取りに行くと、その場所は日陰になっていて、彼は別の包丁を研いでいた。傍らには、彼が乗ってきたらしい、修理の跡だらけの自転車が置いてあった。
 包丁の切れ味は、まあ普通だった。
 

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