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親の心子知らず

帝塚山空心館道場の山田です。

自分の合気道の原点である神戸大学体育会合気道部の思い出を書いてみたいと思います。

もともと自分は大学に入ったら何か武道をやりたいと考えており、武道系の部をいくつか体験してみたのですが、その中で特に面白いと思えた、合気道部と極真空手同好会に入りました。

当時は合気道部の稽古日が月・火・木・金・土で、極真空手同好会が水・土だったので、自分は月・火・水・木・金・土・土と部活を行っていました。
(友人からは「月月火水木金金みたいや」と笑われていました)

合気道部では・・・

合気道部では3回生が部を運営する幹部であり、稽古内容、スケジュールなど全てを決めていました。

稽古内容も、上下関係を始めとする礼儀も厳しいものでしたが、先輩方は自分たち以上に厳しいメニューをこなしておられたので、理不尽と感じることもなく、自然と先輩に対して敬意を持って接することができました。

自分たち合気道部の第37代は25人程が入部し、最終的に19人が3回生の最後の引退まで合気道部を続けましたが、これは歴代の中でもかなり例外的に多い代でした。

後に先輩方に「今やから言うけど、お前ら多すぎるから厳しくして間引こうとしたけど、あんまり減らんかったわ」と言われて愕然としたものです。
しかし、「お前らには厳しくしたけど、ちゃんとついて来てくれて嬉しかった」とも言われました。

神大合気道部では、入部した時の幹部を「親幹」(おやかん:親の代の幹部)と呼び、引退後も続く特別な関係になります。

そう、厳しい先輩達はとても怖かったですが、同時に兄や姉のように慕ってもいたのです。

さて、そんな先輩方に憧れ、早く自分も上手く、そして強くなりたいと言う思いで、疑問を持つこともなく稽古に打ち込んでいましたが、そんな自分でも「これはちょっと・・・」と思うことがありました。

試験期間に・・・

言うまでもなく、大学とは勉強をするために行く場所です。
(自分のような不良生徒もいますが・・・)

そのため、大学の定期試験の際は1週間ほど前から部活のための大学の設備の使用が禁止になるので、合気道部も2,3週間の休みになります。

そんな休みの間の試験の迫るある夜更けに、一本の電話がかかってきました。

「今から六甲山に夜景を見に行くから、お前も来い。」

先輩からの緊急招集命令でした。

「はい、分かりました!」と、拒否するという選択肢さえ頭に浮かばず、指定された集合場所に行くと、他にも呼び出されたであろう下宿組の同回生や先輩達がいて、何台かの車やバイクに分乗して山へ向かいました。

展望台でしばらく過ごして山を下りたのですが、それで解散ではなく、そのまま麓のファミレスに入って食事をし、ダラダラして解放されたのは午前3時でした・・・

試験の真っ最中に行わないあたり、致命的なダメージにならない「生かさず殺さず」のラインを突かれた感があって、「性質が悪いなぁ・・・」と思ったものです。

親幹は「試験勉強を妨害してやる」というような悪い笑みを浮かべていましたが、それでも夜景は奇麗だったし、夜に山に向かうという非日常感も相まって、結構ワクワクもしました。

それに合気道部の常として、一緒に行動するときは先輩が全ての出費を負担してくれたので、懐も痛まず、自分としては「呼んでもらえて良かったな」と思えましたが、人によっては「ふざけんな!」と感じてもおかしくないイベントでした。

幹部になり・・・

時は流れ、自分たちが3回生になり部を運営する幹部の役割が回ってきます。

自分は主将になりました。

自分たちの子供の代も25名ほどが入ってきましたが、最終的に5名まで減ってしまいました。

20名ほどがやめていったことになりますが、そのほとんどが主将である自分に「すみませんが、退部したいと思います。」と電話してくることになります。

これには随分へこみました。

当時は、自分たちが1回生だった頃を基準に行動しがちで、「厳しくしすぎたのかな?」と考えていましたが、最近になって、自分の引退後の部の状況も考え合わせて、ある傾向に気付きました。

それは、

部員が退部を決意するのは90%以上が、
試験休み・夏休み・ケガによる長期離脱などの部との関りが薄い時期

だということです。

普段は何も考える余裕もなく必死で食らいついているが、長期の休みになると、ふと冷静になって「何でこんなしんどいことやってるんやろう」と思ってしまうのかも知れない、と思い至りました。

自分は辞めたいと思ったことがなかったので、よく分かりませんでしたが、辞めそうになったことのある部員に話してみると、すごく納得されました。

悪ふざけの狙い

そこまで考えて、戦慄しました。

先輩の悪ふざけでしかないと思っていた「試験期間中の夜中の六甲山から夜景を見る会」は、実は大学に入りたての下宿生が部活動から離れて孤立してしまうのを防ぐという大きな意味があったのだ!と。

思えば、自分たちの代は19人、子供の代は25人と人数が多く、スケジュールを合わせたりメンバーを入れ替えたりといった手間が多く、あまりイベントをできていませんでした。

怪我などで休んでいる後輩にも一人一人気を配って対応するなどということも全くできていませんでした。

その結果が大量の退部者につながったのだ、と気付きました。

くだらないイベントでも先輩のやや理不尽な後輩イジリでも、会うことによって繋がりを意識するのには必要なことだったのだと気付きました。

この気付きを通じて、「人間関係において接点が1つだけというのはどうにも頼りない。複数の違った面での繋がりがあって初めて、信頼関係は深まるものではないか」と思うようになりました。

引退後10年以上も経ってから親幹の意図に気付いて、やはり先輩というのはありがたいものだと感じたのです。

でも、こんな文章を読んだら、親幹たちは案外「ただの悪ふざけやのに」と言って腹を抱えて笑われるかも知れませんね・・・






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