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ハネムーン


蜜月旅行


 札幌中央図書館の裏庭のベンチに腰掛け、俺は、お父さんと小さな息子が楽し気にキャッチボールをしているのを眺めていた。ふと、藻岩山の頂きに目をやると、山肌を覆う青々とした新緑と空が溶け合う境い目には暗雲が垂れ込めている。


 涙がとめどなく流れた。なんでだよ! 思わず、口にしたその時、スマホが鳴った。それは、俺が前日ツイッターに流したつぶやきにコメントがついたことを告げる通知音だった。


俺は北海道札幌生まれの20歳。大学の工学部でシステムエンジニアを目指す平凡な男だ。ツィッターで、ロシアの作家チェーホフの短編を読んだ感想をツイッターにあげていたら、突然、一人の女の子がコメントを寄せてきた。鹿児島のとある漁港の近くに住んでいて、教師を目指している19歳の女子だという。


 その時に投稿したのは、チェーホフの『箱に入った男』を読んだ読後感だった。


 この物語の主人公はギリシャ語の教師で、どんな天候でもこうもり傘を持ち、雨天用のオーバーシューズをつけている“用意周到”な人物だ。規律を振りかざす杓子定規な中年男が、新しく赴任してきた同僚教師の姉に惚れる顛末が、失笑せずにはおれない。この皮肉に満ちた作品を読んで俺はツイッターにこう書いた。


 ― この主人公のように、全てのことを社会の道徳や規範という“箱”の中に押し込めるやつは必ず周りにいる。そうすることで安心なんだろうな。でも、それじゃあ、社会は発展しない。殻を破れない奴はそこで後退するんだ。洒落もジョークも通じない主人公の恋の行方なんて想像に難くない。最後は棺という“箱”に収まったんだ。安心の極地だろうな。


 それに対して、反応してくる奴なんて誰もいなかった。だってチェーホフなんて読まないんだろうし、内容も分からないのに反論なんてできないしな。

 そう思って、ただ自己満足の感想を書いていたら、突然コメントがついた。ちょっと驚いた。

― そうですよね。でも、この物語の主人公の男性は、きっととてもナイーブだったんじゃないですか? だから型どおりに生きることで、かろうじて社会での自分の立ち位置を守っているんではないでしょうか?

 俺は面食らった。ロシア文学が好きな俺の友達やロシア語学科の連中でさえ、このマイナー作品を読んだという奴は少ない。ロシアの作家アントン・チェーホフの作品をあげよと言われて、せいぜい出てくるのは、『桜の園』『ワーニャ叔父さん』といった戯曲か、小説だったら『犬を連れた奥さん』というダブル不倫ものくらいなんだから。

 コメント欄に返信した。


― チェーホフ好きなんですか?

― ええ、一番好きな作家です。


 珍しい人もいるなと思って、個別メッセージに返信してみた。


― はじめまして! 俺、北海道大学工学部三年の山雅涼です。

― はじめまして、鹿児島大学教育学部二年の海野風香です。

― 俺もチェーホフが一番好きです。

― 嬉しい。私の周りにはいないから。

― そうですよね。もしよかったら、個別のやりとりしませんか?

― ええ、そうしましょう、チェーホフを語り合いたいですね。


 藻岩山に垂れ込めていた雲が、後ろに隠した太陽に照らされて白く光り始めた。学校終わりなのか、小学校高学年の男子達がドッチボールを始めた。周囲が賑やかになった。西日が暑い。 

 実は、俺のチェーホフ好きは筋金入りだ。ロシア語ができないから、専らロシア文学の大家の先生達の翻訳本を読んでいるのだが、チェーホフ全集を大学卒業までに読み切ると決めている。

 チェーホフとの出会いは、札幌のとある小さな博物館で、『アントン・チェーホフの遺産《サハリン島》』という展覧会をたまたま鑑賞したことがきっかけだった。高校生だった俺は、肺病病みのチェーホフがヨーロッパに近いモスクワから、北海道の上にあるサハリンに、船、列車、馬車、徒歩で1か月かけてやってきたバイタリティーに感服した。興味本位で図書館で、『サハリン島』をはじめとしていくつかの中・短編を借りて読んでみて、ドはまりした。

 皮肉でありながら、確かな彼独自の「視点」が、物語を面白くしている。思わず、「こんな奴いるよな」と呟きながら、チェーホフに料理される幾人もの市井の人たちの人生の哀愁やら、可笑しみやら、抱腹絶倒の珍事件を俺は堪能した。

 有名な作品なんて、高校時代に全部読破したから、今は、全集に収録されているマイナーな作品を読んでは感想をツイッターにあげていたってわけだ。

 海野さんの解釈は、俺の脳内には出現しそうもないものだった。とても興味を引かれた。硬派を自認している俺は、SNSで知り合って女の子をひっかけようなんて下心は持っていない。しかし、俺もやっぱり二十歳の普通の男だと証明することになった。彼女はなんだか魅力的だった。文字だけのやりとりなのに。

 こうして、彼女とのメール交換が始まった。最初はぎこちないやりとりだった。

 海野様 こんにちは

 貴方のチェーホフの捉え方、俺とは全く違っていて、すごく興味深かったです。チェーホフとの出会いを教えてください。山雅

 山雅様 こんにちは

 私は、高校生の頃、演劇部だったんです。顧問の先生が大のチェーホフ好きで、大学の演劇部でチェーホフを何度も上演したそうです。チェ―ホフのドラマにはヒーローは出てきませんよね。どこにでもいる市井の人の、だけど平凡じゃないドラマティックな人生が鮮やかに描かれていて、先生は大好きだと仰っていました。私は顧問の先生に影響されたんです。

 海野

 海野様

 顧問の先生はすごく慧眼な人ですね。チェーホフの鋭い視点で繰り広げられる、平凡な人の非凡な人生にはハッとさせられるし、人の性への皮肉な描き方の中にも、各人の人生への温かい賛歌があって、胸を打ちます。海野さんは、演劇部で何を演じましたか?


 山雅様

 私たちの期は『かもめ』を上演して、恥ずかしいんですけど、私はニーナを演じました。

 海野


 高校の演劇部で『かもめ』とは凄いと俺は感心した。この作品には、どんな絶望も耐え忍ぶ力を持てば、希望が地の底から湧いてくるというチェーホフの意志が底に流れている。高校生でそれを演じきったとしたら、相当、この戯曲を読み込んだんだろうなと思う。海野さんは、それからチェーホフに興味を持ち戯曲、中編、短編と読み進んでいったと聞いた。

 海野さんがどんな女の子なのか想像するのはワクワクして楽しかった。文学好きの女の子なんて、きっと牛乳瓶の底みたいなメガネをかけていて、髪型が市松人形みたいな娘だろうとは思ったけど、演劇少女だったのか。きっと可愛いんだろうな。俺は、コンタクトをしていなかったら、のび太君みたいだから釣りあうのかなと心配したり……。俺の鼻の下が多少伸びぎみなのは勘弁してほしい。正直に言うべきだろうな。俺は、女子とはほとんど口を利いたことがなかった。だから、文字ベースの交流でさえ、ひどく心臓が早打ちしていて、体に良くないとは思ったんだけど……。


  海野さん こんばんは

 昨日『すぐり』を読みました。その人なりの執着って、きっと誰もが持っているよね。でも、主人公の弟が、みすぼらしい身なりも厭わずケチケチ金を貯め、兄が見かねて金を送っても貯金してしまい、屋敷を手に入れるために金持ちのずっと年上の未亡人と結婚までした。そして、ぺんぺん草も生えなさそうな荒れた土地を手に入れた。すぐり、すぐりとなぜか執着して、とうとう庭に生ったと喜んで口にしたすぐりは酸っぱかった。本来なら甘いはずなのに。でも、満足そうに高笑いし、すぐりを夜通し食べ続けるっていう場面は背筋が寒くなった。弟の異常な執着の行きついた果てだ。それをおぞましい思いで見ている兄の気持ちが想像できたな。流石に皮肉屋チェーホフの真骨頂だね。

 山雅


 山雅さん こんばんは

 私もこの作品を読んだ時、チェーホフらしいなと思いました。その年上のお嫁さんを食うや食わずにさせておいて、彼女のお金を自分の名前で貯金したんですもんね。3年後に奥さんが亡くなってしまったという箇所では、私も唖然としました。

 それから数年後にやっとお屋敷を手にいれた。サンクコスト効果も手伝って、この弟さんは満足なんでしょうね。結果が酸っぱくても、それでも何かに夢中になってきた過程の満足感はずっと残るのでしょうね。

 海野


 彼女の登場人物への好意的でポジティブな視点は、俺の心を温かくした。俺は、チェーホフが、たっぷりの皮肉で登場人物の異常性を抉るのを読むと、同調的な気持ちになるし、俺はこんなぶっ飛んだ奴は理解できないと思うのだが、海野さんは、どんな人にも正義があるという見方だ。心の優しい人だなと思う。


 俺は、彼女に関心を持たずにいられなかった。当然、彼氏がいるのかとか、どんな恋愛観なのかとか、気になって仕方がなかった。だから、チェーホフの恋愛小説を読んで、彼女と語り合ってみた。


 海野さん こんにちは!

 俺は、今日は中編『中二階のある家』を読みました。主人公の画家が入り浸っていた没落貴族の家の姉妹のうち、彼は妹と恋をするでしょう? 多分ね、姉の存在が象徴するものって、表面的に貧しい人を助けて自己満足に浸っているその当時の貴族の姿だよね。偽善っていうことかな。でも、俺は、それより人間関係に興味があった。画家は本心では、気が強くて現実の権化みたいな姉のほうを好きだったんじゃないのかな? 彼女の心は手に入らないからこそ、反発して議論を吹っ掛けてばかりいたような気がするんだ。姉が放つ、画家を一刀両断にするセリフ「貴方には退屈なお話だったわね、人道援助なんて」強烈だよね。読んでて、歯ぎしりしちゃった。

 山雅

 

 山雅さん こんにちは

 山雅さんの解釈とても面白いです。確かにそうかもしれないですね。従順でまだなんの自我も育っていない真っ白な妹にも確かに惹かれていたと感じます。何の色もついていない妹のほうを自分の色に染めたい思いもあったでしょうね。貴族が従順な妻と暮らすユートピアのような幸せの象徴としての恋ですね。そして、姉には裏腹な思いをぶつけていたのでしょうか。男性の心って複雑ですね。ひと夏で終わった淡い恋が悲しかったです。最後の、「ミシューシ、君は何処にいるんだい?」ってセリフが私は心に残り続けています。

 海野


 俺は、恋愛初心者だからかもしれないが、海野さんの人となりに次第に惹かれていった。

 俺は、海野さんにチャットで話すことを提案した。チェーホフの感想以外にもいろんなことを海野さんと話したかった。彼女の言葉選びには優しさが溢れている。好きな作家が同じで、同世代で、俺はどうしても男として無関心でいられない。遠距離だから、俺達の関係はすぐに発展したりしないだろうが、彼女との交流は楽しみが過ぎた。

 彼女がどんな顔をしているのか知りたい気持ちもあったけど、写真を見せてと言うのは気がひけた。自分の顔は見せたくはなかった。がっかりされたくなかった。

 俺は、イケメンには分類されないが、彼女はきっとすごく可愛い。だって、チャットに書いてある字が可愛いんだ。いや! 画面に踊る活字にも表情があるんだよ! 可愛いうえに知性があって、俺の好みドンピシャなんだ。それに奥ゆかしいんだ。絵文字さえも奥ゆかしい、品があるんだよな。俺はだんだん彼女とのやりとりに夢中になっていった。母さんが時々、「誰?」と関心を示してきたが、最初は秘密にしていた。秘密のやりとりは、背徳感が手伝って、のめり込みやすいって聞いたけど、本当だった。

 7月に入って、母さんが夕張メロンを食べさせてくれたんだけど、旬のメロンはすごく美味い。俺は、海野さんに食べさせたくて仕方なくなって、母さんに頼んだら、包み隠さず話すはめになった。母さんはちょっと笑って、いいよと言ってくれた。

 早速、海野さんに、送るから住所教えてってチャットにメッセージしたら、彼女は遠慮していた。

― 今年も夕張メロンが札幌の市場に出始めたんだけど、最近では一番の甘さなんだ。海野さんに送るよ。

― そんな高価なもの、わるいよ。

― いや、その年にしかない味をその年に味わうっていいでしょ? だから食べてよ。

― その年に味わった想いを一緒にいただくんだ? 素敵だなあ。

― うん……


 その年に味わった想いかぁと、俺は一気に甘い気持ちになった。だって、この年は、海野さんと知り合った年なんだよ……。俺は、前から気になっていたことを思い切ってぶつけてみた。

― あの……俺が贈り物なんかしたら、君の……彼氏を怒らせないかな?

― 彼なんていないから……

 俺は、思わず空いてる手で拳を握りしめた。ガッツポーズが出そうになったが、ここは公共の場。ただでさえニヤついた俺がガッツポーズはダサい。マンネリ化していた俺の生活に光が満ち溢れた。彼女と知り合う前の俺の心の色は、グレーだったけど、今は、爽やかなミントグリーンだ。  

 俺は、どんどん彼女を好きになった。文字だけで恋するなんて、俺は、初心を通り越しておめでたいかもしれない。いや、たかが文字、されど文字じゃないが、文字は言葉だし、言葉は魂だよな。だから彼女の言葉、彼女の感情表現は俺を惹きつけてやまないんだ。

 俺は、彼女と会話するためにも、ひたすらチェーホフの読了に勤しんだ。

― この間、『中二階のある家』の話をしたけど、チェーホフの恋愛観が滲み出ている作品ってどれだと思う?

― そうだなぁ、道ならぬ恋のお話が多い気もするけど、私、『恋について』のアリョーヒンの想いが好きだなあ。

― そうか。告げなかったどころか、自分にさえも隠していた恋心だよね。

― うん、そうだね。女性のほうがそれで心のバランスを崩してしまうのは、読んでいてとても辛いな。

― そうだね。転地する彼女を駅に送っていってその時はじめて愛を告げるんだったよね。

― そう。そして最初で最後の口づけの後、永遠にお別れ……

― そして、彼は、その恋を何年も忘れることができないんだよな。

― 自分さえも欺いているなんて悲しいよ。心に正直にいてはいけないのかな?

― うん、そうだなぁ、相手は人妻で子供もいる。最初から、好きになってはいけないと抑制していたのかもしれないよね。

― そうだね……。好きになってはいけない障害か……。

― 障害を乗り越えてしまいたくなったと思うよ。

― 山雅さんなら、乗り越えますか?

― 俺ですか? ……乗り越えてしまいたいな……。

― 情熱的なんですね。

― いや、俺が情熱的なんじゃなく、相手に魅力が在りすぎるからだと……

― ……。やっぱり情熱的……。


 好きになってはいけない障害……。『恋について』の主人公の気持ちが俺には分かる気がした。チェーホフの恋愛観が強く反映されていると言われるこの作品。チェーホフは愛すれば愛するほど、相手から遠ざかる人物だったと言う。それは、美しい愛が日常というありきたりで醜いものに変貌することを嫌ったのだとも言われるが、彼が肺結核を患っていたことも大きかったかもしれない。相手のことを考えたら、絶対、前に進んじゃいけないという思いもあったのではないだろうか。切ない想いだ。アリョーヒンに投影されたチェーホフの気持ちが俺の胸を締め付けた。

 こんなチャットのやりとりを交わしたあとから、なんとなく2人の間に甘酸っぱいような雰囲気が流れるようになった。彼女も俺と同じ気持ちになったはずだ。不思議だよな。顔も見ていないし、声も聴いていないのに、俺は彼女を感じるようになっていた。

 だというのに、俺はグズグズと告白ができないでいた。あのチャットでの会話は、お互いがお互いに惹かれているって確認できた会話だったはずなのに……。

 いつもは、俺からチェーホフ談義を仕掛けてるのだけど、珍しく海野さんが始めた。

― 『戯れ』っていう短編は読みましたか? 橇で何度も雪の坂を降りる度に、後ろから抱え込

  んだ彼女の耳に「愛してる」って囁きかける主人公の男友達の意図は悪戯だったのか? 本心だったのかって考え込んでしまったんです。

― チェーホフの意図は、恋愛遊戯に女性が乗るか確かめたい男と、信じやすい女性を描くってことじゃないかな?

― やはり、そう思いますか? 女性の心を弄ぶなんて許せないなあ。

― そうだよね。でも、この男も恋に恋する大人になり切ってない少年なんだろうな。

― 山雅さんなら、こんな『戯れ』しますか?


 なんだか、海野さんが俺の本気を確かめているのかなって気がして、どう返事を返すのが正解か考えて、俺は手に汗が滲んできた。


― 俺は、遊びで好きだなんて言わない。主人公の女性が、空耳だったのかと思うように仕向けるこの男はズルい。俺ならそんなことしないよ。

― わあ! 思った通りの返事! なんだか爽快な気分!

― え? そうなの?

― 山雅さんなら、ビシって告白決めそうだなと思ったよ!


 俺は、少し怖気づいた。なんてまっすぐな女の子だろう。素直で心が澄んでいるこの女性を、俺は傷つけてしまうかもしれないと、初めて怖さを感じたんだ。自分の恋心を抑えるべきだと初めて自重した。なのに、俺は、彼女との交流を手放すことができなかった。


 俺達は、しかめつらしい文学談義ばかりしているわけではなかった。言葉のやりとりは、恋の戯れって言うか……意味のない会話にお互いへの好意がダダ洩れるんだ。札幌で紅葉前線が始まる10月の始めだった。


― 札幌って白樺が至るところにあるって聞いたよ。素敵ね。白樺林を散策してみたいな。

― うん、白樺林があるのは、郊外のほうだね。郊外は大自然に抱かれているって感じることが

  できる。札幌の中心街は、ハルニレとかプラタナスがびっしりと並んでいるね。中島公園っていう樹木がいっぱいある公園があるんだけど、そこがとても気持ちがいい。川も流れてて、鴨々川って言うんだよ。

― 可愛い名前だね。北海道の大自然に抱かれて、落ち葉の絨毯の上で、ベンチに座ってチェーホフを読む……素敵だな。涼君に似合いそうだね。


 え? 今、なんて? 涼君って書いてある! ファーストネームに君づけ? ぐっと距離が縮まっている? ドキドキが止まらない。どうしよう!! 俺は、風香ちゃんて呼んでもいいってこと? どうしよう、いいかな、いいのかな?


― 俺よりも、風香ちゃんが白樺の小道を歩いたら、絵になると思う。

― え? そう? 嬉しい。涼君と散歩して、ベンチでチェーホフを読めたらいいね!

― そうだね! おいでよ、札幌は今の時期のような紅葉もいいんだけどね、リラの咲く頃が抜群にいいんだ。街中が淡い紫色に染まる。六月の風は気持ちいいんだよ。その風にのってリラが香るんだ。風香ちゃんにぴったりの季節だよ。


 急に馴れ馴れしくしすぎただろうか? 返信が遅い気がしてやきもきした。


― 生きたい! あ! やだ! 誤変換しちゃった。行きたい!


 ちょっとドキっとした。


 生きたい……。それは、俺の心の叫びだったから。俺が、風香ちゃんに好きだって告げられないのには理由があった。


 札幌に居るふりをしている俺は、本当は東京にいる。俺は彼女を騙していた。初めはそんなつもりはなかった。SNSだし軽い気持ちだった。


 俺は、本当は日本全国から重病のガン患者が集まる大学病院のがん病棟に入院している。


 彼女へのメロンも母さんに頼んで俺の名前で送ってもらった。桜島のそばの漁港に住んでいる陽に焼けた彼女が目に浮かぶ。その彼女が俺からの贈り物を手にしてニコッと笑う顔を想像すると、俺はエネルギーをチャージした気分になった。俺が、病院から母さんに頼んだ時、母さんは何も言わずに俺の言う通りにしてくれたんだ。


 俺が、酒が好きで鹿児島の焼酎も大好きだと言うと、彼女は、すぐに実家にメロンのお礼だと言って、芋焼酎を一ケースも送ってきた。酒を飲めないがん患者の俺は慌てて父親に飲み口を聞いて、なんとかごまかした。


― 風香ちゃん、芋焼酎美味しかったよ。俺は、あの癖のある感じが意外と好きなんだ。札幌名物ジンギスカンと一緒に美味しく頂いたよ。

― 良かったあ。ラム肉に芋焼酎は合う?

― ああ、ばっちりだね。どっちもクセの強い味だけど、お互いのクセを懐に抱き込んで逆にマイルドさを出すんだよね!

― わあ、涼君ってすごい! 表現力あるね! 食レポができそう!

― まあね、食い意地張ってるから。

― 食いしん坊さんこそ、食の表現が豊かだよね!

― 風香ちゃんの褒め上手は名人の域だな。

― そう? お世辞でも嬉しいな。

― 本気だよ。


 照れたのか、風香ちゃんは話題をするっと変えた。


― 鹿とかきつねとか、熊まで出るんでしょ、そっちでは?

― 熊や鹿は山に食べ物がなくなってきたからだね。きつねは観光客の餌付け。人家の近くや国道にまで出てくるのが困ったもんだよ。

― でも、野生の動物見てみたい!

― 俺は、鹿児島の桜島が噴煙をあげるのを見てみたいな。

― ははは! ないものねだりだね、私たち!


 そうだね、本当にそうだ。ないものねだりなんだ。俺にはもう残された時間は多くない。それなのに、こんなに人を好きになってしまった俺は、叶わない恋を欲しがる欲張りな奴だ。

 

 俺は、ないものねだりをもうひとつしてしまった。つい、調子に乗ったんだよ。


― そうだ、お互い鹿児島と北海道じゃあ遠すぎるから。間をとって東京見物なんてどう?一度会えないかな?来年の春あたりはどうだろう?


 今度こそ、返信が異常に遅い。どうしたんだろうか、気を悪くしたのか、やはり、彼女は、ネットで知り合った男なんかと会うようなタイプの女の子じゃないんだろうな。真面目で純粋な子を、病人の男が騙しているんだし。そう思って、「冗談、会いたいなんて、ごり押ししてごめんね」と書いて送ろうとしたその瞬間、返事が来た。


― いいね。その頃ならわたしも遠出できると思うよ。


 彼女のチャットの文字が、愉快そうに踊っていた。


 その時は、会ってもいいと言ってくれていることに天にも登りそうな気分だった。しかしよくよく今の自分の病状を考えると、あり得ない。バカな男だ。来年の春まで生きているかもわからないのに。


 チャットでの長時間のやり取りは、愚かな自分への怒りも相まって、どっと疲れを呼んだ。802号室の俺はナースコールをして、看護師さんにトイレを介助してもらった。心なしか隣の801号室に看護師さんの出入りが多い気がした。


 その夜は、疲れで早々に眠ってしまった。

 

 週明けには、朝から診察があった。俺の病名は甲状腺未分化がんだ。難治性のがんで甲状腺がんのうち1.5~2%という稀なものであり、進行がすごく早い。悪性度が高いがんなのだ。高分化型の細胞は安定していてゆっくり進行するから対処がまだ可能だが、未分化の細胞は分裂増殖をくり返す。短い時間内にさかんに増殖するから進行がはやい。


 俺はある日、食べ物が飲み込みにくいので、病院に行ったらこのがんだと診断された。甲状腺のしこりが食道を圧迫していたらしい。札幌の病院から転院してきた時には、ステージは4bで、もう治る見込みはないと診断された。最近ではしこりは声帯にも攻撃をしかけているらしく声も枯れている。風香ちゃんとチャットじゃなく声で話したい気持ちもあったけど、この中年男のようなガラガラ声を聞かせたくなかった。


 パジャマにカーディガンという入院患者の定番スタイルで診察室の前の長椅子に座る。名前を呼ばれるのを待っていた。病院の待合にはお年寄りが多いが、たまに俺と同年代かなという人、子供が親に連れられて来ている場合もある。ガンの権威である有名なお医者さんを頼って全国から難治性のガンの患者が集まってくる。外来患者に混じって診療を受けるわけではないが、主治医の先生との一か月に一度の面談は先生の外来の診察室に呼ばれる。


 風香ちゃんからチャットが入った。ピローンという音が出ないようにバイブにしているからカーディガンのポケットでスマホがブーンと音を立てた。


― おはよう! 今日は涼君からチャットが来ないから、ちょっと心配しちゃった、忙しいの?

― いや、ちょっと今日は健康診断なんだ。病院なんだよ。

― そうなの? 涼君なら健康優良児ってとこでしょう?

― まあね。

 

 一番、触れたくない話題だなと思いながら、俺はメッセージを打ち込んでいた。健康優良児だった。スポーツ万能だったのに、今や、死にぞこないだ。でも、それは知られたくなかった。


― 風香ちゃんは体は丈夫かい?


 と、俺がメッセージを送った時、待合の隣の長椅子でブーンと音がしたことに気づいた。その患者も俺と同じように診療の待ち時間でチャットしているようだった。病院だから俺と同じようにバイブにしているんだろう。病院で通信機器はいけないのに、俺もその患者も、ちょっとくらい待てないものなのかな。性懲りもない。きっとあの子も恋をしているんだろう。彼女は、パジャマの上に膝丈のロングカーディガンを羽織っている。


 また、風香ちゃんのメッセージが着信した。


― 私? 体育はいつも5だった! 体力自慢だよ!

― そうか、俺も、体育はいつも5だったよ。


 俺がメッセージを送るたびに、近くでブーンと音がする。なんとなくあれと思うところがあって横目で眺めていたら、俺が送るとその彼女のスマホが振動する。彼女がメッセージ送信ボタンを押すと、俺のスマホがブーンと音を立てた。


 俺の心臓は高鳴った。まさか? まさか? 隣の長椅子に座っているのは、身長が158㎝くらいで、髪が肩までの長さの、目のぱっちりした女の子だった。肌の色は、蒼白い……。


「風香ちゃん、今、どこにいるの?」


 ブーン……


 隣の長椅子の女の子が真っすぐ俺を見てきた。


「涼……君?……」

「風香ちゃん……なのか?」


 彼女は食い入るように俺を見つめ、そして、わっと泣きだしてそこから走り去っていった。俺は呆然としてその後姿を見送った。ちょうどその時、名前を呼ばれて俺は診察室に入った。


 桜井先生は、俺の父親くらいの世代だ。鼻眼鏡のような小さなメガネをかけた顔が、作家であり医者であったチェーホフを思い起こさせた。


「山雅さん、抗がん剤が体質に合ったようですね。ガンの進行が少し抑制されています。良かったですね」

「そうですか、先生、俺はありていに言って、あとどれくらい生きられますか?」

「それは、なんとも。半年かもしれないし、3か月かもしれない。でも、生きることに望みを持てば、この状態でも1年も2年も生きる人だっています。重要なのは、生きたいって願うことですよ、山雅さん」


 桜井先生の言葉は俺の中の生きたいという渇望に火をつけた。「生きたい」という気持ちは、それまでは、俺には消極的な表現だった。生きたいのに病気になってデッドラインが決まっている俺。誰に向かって拳を振り上げたらいいか分からない怒りを、俺は当初は持て余していた。諦めに変わりかける頃、俺は海野風香と知り合った。生きたいなどという生易しいものではない、「生きる」「生きてやる」という、願望とは違う、強い意志としての「生きる」という思いが、大地を割り裂き、噴火するかのように俺の中でふつふつと音を立てた。


 風香ちゃんのために生きたい! 生きる! 生きるんだ!

 

「あの……海野風香さんは、がん病棟の患者ですか?」

「え? 海野さんと知り合いなの?」

「ええ、彼女はガンなんですか?」

「守秘義務があるから言えないですよ」

「そうですか……」

「……病棟には談話コーナーとかがあるでしょう? そこで患者さん同士が話したり、トランプしたり、趣味を共有したりしてます。他愛ない話でもなんでもお互いの励まし合いになるから、そこで海野さんとも話せるんじゃないかな?」

「分かりました」


 俺は、自分の表情が変わったことを意識していた。病室に戻る前に、診察結果を気を揉んで待っている札幌の母に電話した。


「母さん、俺」

「涼! 先生はなんだって?」

「うん、抗がん剤が体質に合ったんだって。ガンの進行も抑制されているし、俺、もう少し生きられそうだ」

「何言っているのさ! 涼! あんたは死んだりしないって! 馬鹿言うんでない!」

「分かっているよ! 母さん、心配するなって! それより、親父の会社どうなのさ?」

「涼は何も心配しなくていいんだよ。母さんもお父さんの会社を立て直すために奮闘してるんだから。涼、側にいてやれなくて本当にごめんねぇ」

「気にするなって! ほら、前に話したべや、俺にはチェーホフの姫がいるし、寂しくないんだって」

「そうだったねぇ。風香ちゃんだっけ? 宜しくね」

「ああ、今度来た時に、会わせてやるよ」

「まあ、会ったの?」

「まあな」


 俺は、母に心配を掛けまいと通常以上にカラ元気を発動したので、電話を切るともうそれだけで疲労感を覚えたのだが、それはなぜか生きているという実感になった。隣室にいると分かった風香ちゃんに声をかけることができるだろうか、応じてくれるだろうかとやきもきしながら病棟に帰る長い廊下を歩いた。


 前から、重病の若い女性がナースステーションの前の部屋、つまり俺の隣に長くいるのは知るには知っていた。 実はナースステーション前の個室の俺たちは病状も悪く、なるべく顔を合わせたくない。だから、すれ違っても顔を見ないようにしてきた。個室の前に張ってある患者名もこの病棟ではプライバシーに配慮しているから、外からはイニシャルだけ。ドアの内側に名前が書いてあり、看護師さんは、それを見て患者の取り違えをしないようにしている。


  その隣人こそが、診察室の前で会ったあの彼女だった。 


 すれ違う度に見ないふりをしていたが、俺は内心では無関心ではなかった。何処の部位かは知らないが、ここに入院しているんだから、ガン患者であることは間違いがない。そして、見たところ、俺が夢中になっている海野風香ちゃんと歳が似通っている。つまり俺と同世代ってことだ。それなのに、俺よりも病歴が長いんだろう。俺が来た時にはもうここに居たから。


 青春を謳歌することもなく、がん病棟に入院しているなんて、悲しい宿命だなと俺は同情したし、風香ちゃんと同じくらいの歳の子だったら、話すことも感性も似ているんだろうかと想像した。話してみたいなとは思ったけど、彼女は、俺を避けているような気がしたから、敢えて声をかけることはなかったんだ。

 それでも先月一度だけ彼女の病室の前ですれ違って目が合った。俺が慌てて会釈したら、彼女は、ニコッと笑った。その笑顔がとても眩しかった。片頬に浮かんだ笑窪が可愛い子だったんだ。


「あの、お大事に……」

「貴方も……」


 どう言ったらいいんだろう、俺は、彼女の笑顔に強く惹かれた。ガン患者っていうのは、暗い表情をしているのが普通だ。そりゃそうだ。余命宣告を受けて、刻一刻とその時が迫ってくるのを待っている。激しい焦燥感、どこにもぶつけることができない怒り、宿命を恨み、儚む涙。八つ当たりの相手が見つかったら、容赦なく言葉の石礫を投げてしまいそうになる。


 なのに、彼女にはそんな負の感情がまるでないように見えた。幸福そうに光り輝く笑顔。どうしてこの娘は、こんなに穏やかに笑っていられるんだろうと思った。


 俺は、屈託ない会話をしてくれる海野風香ちゃんと、隣人の彼女を重ねるようになっていた。


 俺は胸を高鳴らせながら病棟に戻った。しかし、そこにはただならぬ気配が漂っている。隣りの801号室の前が騒がしい。看護師さんに聞くと、風香ちゃんは診察から戻って病状が悪くなり、危険な状態になっていると言う。


「海野風香さんですよね?」

「そうですけど、知っているの?」

「恋人なんだ! 会わせてくれ!」

「え! 貴方が?」

「詳しいことはあとで! お願いだ! 声をかけさせてくれ!」

「ダメよ、規則だから、家族しか入れないのよ!」

「彼女と俺はもう1年つきあってるんだ!」


 そのやり取りが病室の中にいた風香ちゃんのお母さんに聞こえていた。お母さんが病室の外に出てきた。


「貴方は、風香のSNSの友人の?」

「はい!」


 風香ちゃんの担当の看護師さんが、はっとして俺に振り返った。

「チェーホフの君?」

「そうです、それは俺です!」

「長野先生! 海野さんが力を得ていると話していた男性に間違いないです」

「入れてあげなさい」 ・


 医師の言葉を聞いて、俺は病室に飛び込んだ。長野医師は蒼白な顔で蘇生処置の準備をしていた。

 


「風香ちゃん! 涼だよ! 頑張って!」

「下がっていて。大丈夫、必ず助けるから」

「先生!お願いします。俺の大事な人なんだ!」



 俺は、先生の後ろから風香ちゃんに声をかけ続けた。看護師さんたちがバタバタと出たり入ったりしている。バイタルが弱いと話している声が聞こえた。心拍が緩慢になっているらしかった。血圧も低下したままだ。お医者さんはカンフル剤を投与している。俺の隣で、風香ちゃんのお母さんが目をつぶって、祈るように両の手を握りしめて肩を震わせている。


「風香ちゃん、やっと会えたんだ。このまま俺を置いていかないで! 頼むよ」


 風香ちゃんに繋がっている心電図が反応した。看護師さんたちが色めき立った。


「先生! 心拍戻ってきました。血圧上昇してきてます。呼吸正常です」

「よし! もう大丈夫だ!」

 

 病室中に流れていた厳しく張りつめた空気が一気に緩んだ。医師がにっこりと笑って、俺の肩を叩いた。


「君の声が届いたみたいだ。手を握ってあげていいよ」


 俺は、安心しきってか腰が抜けた。ドスンと床に尻もちをついた。立ち上がろうと手を床につくと、手足がひどく冷たくなっていた。でも、先生が手を握っていいと言ってくれたので、俺は膝立ちで、ベッドの脇ににじり寄った。


「山雅さん、大丈夫?」と、看護師さんが、いつの間にか脱げ落ちていたカーディガンを俺の肩にかけ直してくれた。

「山雅さんだったのね? チェーホフの君は」

「はい」

「海野さんはね、チェーホフの君と知り合ってから状態が持ち直したのよ」

「え?そうなんですか?」


 風香ちゃんのお母さんが、にっこり笑って頷いていた。


「涼さん、風香がいつも涼君、涼君って話していました。風香は高校の時にガンが分かって、それからどんどん進行したんです」

「そうだったんですか……」

「涼さん、貴方とのやりとりが楽しくて、風香は余命一年って言われていたのに、それを半年も伸ばしているんですよ」

「え!」

「ええ、そうなの。山雅さん、貴方も彼女のおかげで状態が良くなったんじゃない? お互いがお互いの支えになってきたのよ」

「そうだったんだ……。俺、ずっと彼女のこと気にしてた……」

「それにしても、隣人だったなんてね! 守秘義務がなかったらとっくにお互いを引き合わせてあげられたのに……」


 看護師さんが慈愛のこもった眼差しで俺と風香ちゃんを代わる代わる見て微笑んだ。お母さんは、そっと俺の肩に手を置いて、後はお若い二人でね、と茶目っ気を込めて言うと、看護師さんと病室を後にした。


 俺は、お母さんの「お若い二人で」って言葉にちょっと赤面しつつも、しっかり風香ちゃんの手を握りしめた。彼女の容体は安定していた。呼吸も一定なのがわかる。俺は、ベッドの横に椅子をおいて風香ちゃんの手を握りしめたままずっと彼女の顔を眺めていた。


 風香ちゃんの髪が乱れているのに気づいて、俺は手櫛をいれてあげた。頭を撫でつけながら彼女の顔立ちを観察した。俺は勝手に、風香ちゃんを市松人形みたいなおかっぱ頭で瓶底メガネをかけた女の子なのかなとか、鹿児島の子だから陽に焼けてるんだろうかとか、演劇少女だから美形なのかなとか想像してきた。風香ちゃんはメガネはかけておらず、目がぱっちりとしていて可愛らしい。今は固く閉じたその目蓋を縁取る睫毛は長くて、頬に陰影が降りている。鼻はちょっと低めで丸い。彼女の愛らしさを強調しているなと思った。病気だからか少しパサついた髪は肩まで伸びているが、前髪にはシャギーが入っていて今どきの女の子のヘアスタイルだ。市松人形ではなかった。


 そして何よりも蒼いと言えるほどの色白の肌。それは、もう長い間病院に籠っているからなのかもしれない。でもその蒼白い肌と真っ赤な唇のコントラストが、白雪姫を思い起こさせて、俺は口づけしたら目を覚ますのかなとぼんやり思った。


 風香ちゃんとSNSで知り合ったのは、もう7か月前だ。その頃に俺は余命宣告を受けた。半年前にこの東京の大学病院に転院してきたが、その時には風香ちゃんはもうすでにここにいた。


 俺は、風香ちゃんにずっと札幌にいると言い続けてきた。メロンを送ったのも、焼酎を送ってもらったのもこの4か月の間だ。風香ちゃんも俺と同じ嘘をついていたんだ。先週、北海道と鹿児島は遠いから、東京で落ち合おうと約束したが、俺達はもうとっくの昔に、東京で落ち合っていたんだな。


 まさか、隣同士でSNSで会話し、お互いに元気な演技をし続けていたなんて。神様はよほど冗談が好きなんだなと思った。チェーホフならこんな奇想天外な事実を小説にしないわけがない。


 診察室の前で、俺が、風香ちゃんの知っているあの山雅涼だと分かって、風香ちゃんは泣きだした。彼女は、いったいどんな気持ちだったんだろう? 俺はどうだったろう? 衝撃だった。なにが? 風香ちゃんが側にいたことが驚きだった。こんな偶然は神様がくれた贈り物だとも思えるし、もっと早く気がついていたら、風香ちゃんともっと濃密な時間が送れたのかもしれない。

 いや、衝撃だったのは、風香ちゃんが余命幾ばくもないガン患者だったってことだ。お互いにその真実を知ってしまったのが衝撃だった。


 そんな俺の思いなど嘲笑うかのように、血圧やらヴァイタルサインやらをモニターする機械の音が規則正しく病室の中に鳴り響いている。部屋を見渡すと、個室の壁に風香ちゃんの親御さんがつくったのだろう段ボールの本棚に、びっしりとチェーホフ全集54巻本が並んでいるのが目に入った。俺は、風香ちゃんへの愛おしさで胸が締めつけられた。


 と、その時、風香ちゃんの目蓋がプルプルと震えた。俺の白雪姫がゆっくりと眼を開けた。


「風香ちゃん、気づいた?」

「涼君……ごめんね……」

「俺だって、いっぱい謝ることがあるよ」

「私、嘘ついてた」

「俺もだよ、騙してた」


 風香ちゃんの手が俺のそれを握り返してきた。弱々しそうな、そして悲しげな表情に反して彼女の指は俺の指に強く絡みついている。風香ちゃんの手は血が通っているんだということを実感させるに十分なほど温かい。俺は、あの時、この俺の大事な人が逝ってしまわなかったことを神に感謝した。


 風香ちゃんは瞳を潤ませて更に言った。


「ショックだった。涼君が私と同じ病気だったなんて」

「俺は甲状腺未分化ガンなんだ」

「私もなんだ、もう4b期なの、食道にきてるの」

「俺もだよ。声帯の神経にガンが浸潤してる。聞きづらい声だろ?」

「ううん、涼君の声が聞けてすごく嬉しい」

「俺達、ある意味運命の出会いだったんだね」

「そうだね、チェーホフの物語の主人公たちみたいだよね」

「俺も、今、君の顔を眺めながらそう思っていた」


 俺達は見つめ合った。病室の窓から差し込む午後の陽光が柔らかく俺達を包んだ。窓の外には冬の色が色濃く立ち込めていた。空はきっと春を待ち望んでいるのだろう。寒い色を振り払おうとするかのように空気が裂ける気配がしていた。


 見つめ続けていると、風香ちゃんがやっと微笑んだ。彼女の愛らしい丸い頬に片笑窪が浮かぶのを認めて、知らず知らずに口元が緩んだ。俺は、だらしない顔をしていないだろうかと気になった。


「涼君……私、涼君のこと勝手に偏屈そうなしかめ面の人だと想像してたんだ」

「ふっ、実際の俺はどんな男?」

「優しそうな目をしている。ちっとも偏屈そうじゃないね。背が高くてカッコいいし、笑った顔が眩しい……」


 風香ちゃんは眩しいものを見るように目を細めた。俺は、指を絡め直しながら、照れ隠しに風香ちゃんを揶揄った。


「俺は、風香ちゃんを色黒で瓶底メガネの子だと思ってた」

「ひっどい! 鹿児島育ちだと皆が色黒なの?」

「いや。ほんとの風香ちゃんは、色白で目がぱっちりしてて……可愛い……」

「……」


 俺は、風香ちゃんのバラ色に染まった頬に、思わず口づけた。口づけておいて慌てた。


「ごめん……」

「どうして謝るの?」

「だって、初対面ですることじゃなかった」

「ふふふ……。お互い、顔は知ってたじゃない? それに人となりも知っていたよ」

「そうだね。顔と中身が一致していなかったけど、知りあいだね、お互い」

「違う、恋人でしょう?」

「え?」

「聞こえていたの。涼君が、恋人ですって言って病室に飛び込んできたの」

「そうなの?」

「うん、臨死から戻った人は大抵の人が言っているよ。親しい人の声ってちゃんと聞こえているって。好きな人なら、なおさら……」


 俺は胸が震えた。幸せってなんだっけ? 好きな人が自分を好きだって言ってくれることじゃないのか? それ以上に幸せってあるかな? 俺は、青二才の若造だけど、言いたい。想い合うことがこの世の一番の幸福だと。声がうわずりそうになるのを必死で飲み込んで、冷静そうな声を出した。


「そうか……。じゃあ、受け入れてくれるの? 俺の申し込みを」

「勿論、とっくにつきあっているつもりだったもん。呼び戻してくれてありがとう、涼君」


 俺は、風香ちゃんの頬を自分の手で包み込んだ。彼女のリンゴのような唇に、そっと自分の唇を重ねた。俺たちのファーストキスは、消毒の匂いがした。


 翌日から、安静にして興奮するようなことをしたりしない限り、どちらかの部屋で過ごしてもいいと許可を貰って、俺達は思う存分言葉を交わし、視線を絡め合った。


 談話コーナーで、朝から晩まで話していることもあった。看護師さんが呆れて、「もう、病室に帰りなさい!」と、お尻を叩くこともあった。

 

 風香ちゃんといると話が尽きなかった。子供時代の事や、楽しかったこと、悲しかったこと、今までのすれ違いを埋めるために、俺達はとにかく声が枯れるほど話した。もともと枯れた中年男みたいな声の俺は、声が出なくなる日もあった。それでも俺は風香ちゃんを知りたかった。


「風香ちゃんにも子供の頃からの夢があったんだろ?」

「うん、あったよ。私、舞台女優になりたかったの。だから高校で演劇部に入ったんだ」

「そうか、風香ちゃんなら、オリガ・クニッペルにも負けない女優になったろうな」

「ああ、チェーホフの奥さんね?」

「ああ、綺麗だよな、それにモスクワ芸術座の看板女優だろ?」

「うん、チェーホフもイケメンだもんね、涼君似ているよ」

「よせよ。似ても似つかないって」

「そんなことないよ。メガネ顔が似てるって」

「そう? 俺はメガネ顔がのび太君だって、言われ続けてたからさ」

「あはは! ううん、チェーホフのほうが近いよ」

「まったく! いい気分にさせる天才だよ、風香ちゃんは」


 風香ちゃんは、相手に寄り添うという習慣が身についている子だ。両親の教育なのかもしれないが、相手の気持ちだけを考える優しい女性なんだよな。俺は、いつもおだてられたり、褒められたりしているうちに、地味で、20年彼女がいなかった冴えない男だということを忘れてしまう。


「私ね、本当は早大の演劇科に入りたかったの。でも、病気が分かって東京には行けないから、地元の大学を受験したんだ」

「ああ、鹿児島大学の教育学部だよね?」

「うん、でも、一日も通えなかった……」

「そうか。それでも合格したのは、すごいよ。努力家だよ、風香ちゃんは」

「でも、通ってもいないのに大学生って嘘ついてたの」

「俺も2年に進級してから、ほとんど通えなくなったんだよ」

「嘘つき同士だったね」

「罪なき嘘ってのもあるさ」

「そうだね……」


 その嘘は、自分にとって都合よい嘘だったのかもしれないけど、病人の俺でも恋をしたいっていう願望があることを否定されたくはなかった。騙していたことは罪だ。でも、神様は、同じ境遇の者同士を引き合わせた。俺達は、それを感謝した。好きになった人の命が、自分同様限られているって知ったのは動揺することだったけど、でも、お互いに身を引かなくてはいけない相手じゃなかったなんて、神に感謝するしかないんじゃないかって俺は思っていた。


「涼君は、北大の工学部なんてすごいね。夢だったの?」

「うん、俺、エンジニアになって父さんの会社を継いで、北海道一のICTの会社にしたかったんだよね」

「涼君って、親孝行なのね」

「親父を尊敬しているからね」

「そうなんだ! 素敵だね! 私も、漁師のお父さんを尊敬してる。すごい足腰が強いんだよ!」

「そうか! 風香って名前はお父さんがつけたの? 海に出てるときっと風が香るんだろな」

「そう。海の風は香るんだぞっていつも言っているよ」


 俺達の容態は安定していたし、日々が静かに過ぎていった。12月になった。俺は病院で21歳の誕生日を迎えた。師長の山本さんはじめとする看護師の皆さんが次々にお祝いのメッセージをくれた。病棟で顔見知りになった人たちが、誕生日だと知ると、病院のコンビニや珈琲ショップで買ったと言って病室にキャンディーや、ケーキを差し入れてくれた。病気になってからの俺は腐って投げやりになったこともあったけど、人に囲まれていることが、こんなにも温かい気持ちにさせられることだと知ることができた。そして、おそらく最後になるだろう誕生日を人生初の恋人が祝ってくれた。


「涼君、誕生日おめでとう!」

「ああ、ありがとう!」

「どんな気持ち?」

「嬉しいよ。風香ちゃんが側にいてくれる誕生日だから」


 俺が笑いかけると、風香ちゃんが、何か言い淀んでいるのに気づいた。黙ってたが、思い切ったように口を開いた。


「……もっと生きたいよね?」

「そうだな。どう思った? 病気だと分かった時?」

「信じたくなかった……」

「俺も。その後、異常な怒りに襲われた。『なんで、俺が?』ってさ。壁に何回穴開けたか分からない」

「え? 病室のじゃないよね?」

「ああ、実家の部屋の」

「分かるよ」

「その後は、落ち込んで、無気力になったな。ずっと、『なんで?』って呟いてばかりだった」

「うん……でも、その頃だよ、涼君のツイッターを見たの」

「そうか、俺、風香ちゃんのコメントで救われたんだよ」

「私もだよ。一筋の光だった」

「ありがとう」

「涼君、プレゼントだよ」


 そう言って、きっと俺が見ていないところで一生懸命編んだんだろうな、青いマフラーを俺の首に巻いてくれた。


「一体、いつ編んだの? 寝ないで編んだんじゃないよね?」

「私、すぐ疲れちゃうから……私からって言うより、お母さんからって言った方が正しいね。ごめん。でも、3分の1は私が編んだんだよ」

「そうか! 嬉しいよ、じゃあ、3分の2の分は抱きしめてよ。それで全てが満たされる」


 風香ちゃんが、俺を包むように抱きしめてくれた。俺よりずっと身体が小さい彼女が、母のように俺を抱く姿は、周囲にはどう映っただろう。でも、俺にはそんなことどうでも良かった。ただ、ただ、彼女が俺の側にいることが嬉しかった。


 俺と風香ちゃんは、陽気の良い日には、少し着こんで病院の屋上に出ることもあった。気持ちよい陽だまりで、二人でチェーホフを朗読しあうのは、俺達の楽しみの一つだった。それに、舞台女優を目指していた風香ちゃんの声はよく通る。俺は目を閉じて彼女の朗読に聞き入っている時が至福の時になった。俺はだんだん声が出しにくくなってきたので、風香ちゃんが読んでくれることが多くなっていった。

 

 この日、風香ちゃんが読んで聞かせてくれたのは、『クリスマス週間に』という作品だ。ロシアのクリスマスは1月7日だ。クリスマス週間は1月7日から19日になる。この日は1月12日。年が明けて、まだ東京の空は鈍色が続いているのだけど、珍しくポカポカ陽気の日だった。屋上からは遠くに、冠雪した雄々しい富士山が見えている。山の麓からこの屋上に続く東京の街はまったく切れ目なく住宅やビルが林立している。小さく箱のようにしか見えない家の一つ一つに、それぞれの人生やそれぞれの家族の関係があるんだろうな。


 風香ちゃんのひばりのような声が響く……。


『……何を書いたらいい? エゴールはインクにペンを浸して、老人とその妻を見た。……娘は元気なのか、なんとかして手紙を書きたいが、この両親は字が書けないのだ…』 


 都会で嫁いだ娘と2年も音信不通になっている田舎の両親が、クリスマスだからと代筆を頼んで娘に手紙を送る話だ。俺は、娘が両親に宛てた手紙を送る労をとってやらないどころか握りつぶしてしまう娘の夫に怒りを抱いた。


「この亭主はとんでもないね。男の風上にもおけないよ。自分の奥さんが自分の所有物だとでも思っているのかな」

「ほんとうだね、このご主人は、上司に頭が上がらなくて、そのことだけに終始しているんだろうね。可哀想でもあるけどね」

「男は、自分の妻の両親に、自分の両親と同じだけの感謝と敬意を表すべきだ」

「うふふ」


 風香ちゃんの俺を見る瞳の虹彩が陽光を反射してキラキラしている。彼女の表情は何か言いたげにニコニコ顔だった。俺はなにか変なこと言ったのかなと訝しく思った。


「え? なに? どうして笑ってるの?」

「涼君って、うちのお父さんと似ている」

「どこが?」

「俺は男だ!って胸張っているようなところ、君は俺が守る! 的な?」

「え? でも、男は、自分の女性を守るものだろ?」

「ふふふ! 涼君てちょっと古いタイプの男の人だよね?」

「そうかな?」

「そうだよ! 言葉遣いも、どっか昔風だもんね」

「そう? 参ったな、今どきの大学生のつもりだったのに」

「涼君の魅力は古風さなのっ!」

「そっか」

「でも、嬉しいな、私は、涼君に守られてるんだよね?」

「まあ、僭越至極ながらね」

「あはは! 涼君ってやっぱり古風!」


 俺のお姫さんの朗らかな笑い声は、俺をまったくもって幸福に浸らせる。チェーホフの味わい深い作品を、情景が思い浮かぶように声で表現をする。ひばりのような声が心地よいんだ。俺は、本当に楽しくて仕方なかった。


「ごめんね、風香ちゃんにばかり読ませて」

「いいよ、涼君は聞いてて」

「うん」

「声が出にくくて、辛いよね。私もね、抗がん剤で頭がつるってしてしまった時があったの」

「へえ、風香ちゃんのつるつる頭も見てみたかったな」

「いやだ~。涼君ってすぐ揶揄うんだから!」

「丸い顔してるから、頭が丸かったら、まん丸お月さんだなあ」

「あはは! もう、黙って聞いていてね」

「うん」


 俺は、もう作品の内容よりも、風香ちゃんの声を楽しんでいた。そして、彼女を初めて見かけた日から今日までのことを思い出しながら、ただ、この瞬間を楽しんでいた。


 髪を取り戻したくて、抗ガン剤を拒否して放射線治療だけにしたと言っていた。髪は女の命だって言うからな。そう言えば、隣人である彼女が俺を避けているなと感じていた頃、よくよく思い返してみると、頭にバンダナを巻いていて、生えかけの髪を隠していた。もしかして、俺に見られたくなかったからなのかな。風香ちゃんの髪の毛はけっこうパサついている。髪がないつるっとした風香ちゃんを想像すると痛々しい。

 

「風香ちゃん、俺がここに来た頃は、俺を避けていただろ?」

「うん、最初、隣人が涼君くらいの歳の男性だって分かって、髪の毛のことが気になって」

「そうか」

「うん、ごめんね」


 俺は、胸が締めつけられた。女の子としての幸福はどんなことだろう。俺がそれを叶えてあげられたらいいのにと切に思った。


「ねえ、俺、風香ちゃんに何かしてやりたいんだ。何かない? 俺にしてほしいこと?」

「……」


 風香ちゃんは、じっと俺を見つめている。言いたいことがあるのに、言えないでいる人の顔だ。

   俺は、彼女の後れ毛を直してあげながら、もう一度聞いた。


「遠慮しないで、きっと、俺が叶えてあげられることなんじゃない?」

「図々しい子だって思うと思う……」

「言ってごらんよ」

「海野風香って名前は気に入ってるの。海の風の香り……。涼君の名前って、山が涼しいって読めるよね……」


 俺は、風香ちゃんの言いたいことがよく分かった。それは俺の望みでもあったから。風香ちゃんの目を見つめた俺はこう口にした。


「……山が風を香らせる。山雅風香……」


 風香ちゃんは、耳まで真っ赤になっている。俺の胸は甘く疼いた。そっと肩を抱き寄せて、俺は風香ちゃんの耳にこう囁いた。


「結婚しよう」


 風香ちゃんは、大きな目を見開いて、俺をじっと見つめた。その瞳から次々に、丸い雫が零れ落ちた。冬の色は、少しずつ緩んできている。見つめあう俺達を、温かい風が包んでいた。

 俺は、その夜、風香ちゃんを隣の病室に帰さなかった。


 翌朝、看護師長の山本さんから大目玉を喰らった。桜井先生も部屋に来て、「控えなさい、命が縮むよ」と警告した。それでも、俺は幸福だった。幸福な奴は、聞き分けのないことをしてしまう。俺は、腕の中にいる風香をもうどこにも行かせたくなかった。羞恥で俺の背中に隠れてしまった風香を、それでも離そうとしない俺に、桜井先生はあきれ顔だった。


 丁度その日、母が上京すると連絡してきた。

 

― 涼、具合はどう?

― ああ、すこぶる良好さ。父さんは?

― うん、まだ、会社よ。

― そうか、母さん、姫とのことだけどな。

― うん、お熱いんだって? 看護師さんから聞いたよ。

― まあな、で、俺達、結婚しようと思う。

― 涼……そんな性急に考えなくても。向こうのご両親の意向もあるでしょ?

― 時間がないんだよ、母さん。風香にはお母さんがずっと付き添っているんだ。許しは得たよ。向こうのお母さんも、父さんと母さんの意向を気にしていた。

― そう、涼と風香ちゃんがいいなら、私たちはそれでいいよ。書類を揃えてもって行くから


 俺達は、3月3日の桃の節句であり風香の二十歳の誕生日に入籍し、病院で結婚式をすることにした。


 チェーホフがモスクワ芸術座の女優オリガ・クニッペルと結婚した時のエピソードは面白いものだった。たくさんの友人を家に集めて、サプライズで結婚を発表した。但し、2人がすでに新婚旅行に旅立った後で、友人が二人からのメッセージを招待客に向けて代読したんだ。客人たちは主役抜きで結婚披露パーティーをした。洒落者のチェーホフらしいよな。そして、彼らはドイツのバーデンバーデンで蜜月を過ごす。


 俺達も真似したいところだが、お互い病人の俺達は、どこにも行けない。俺達は病院で長く過ごしてきたから、病院が第二の家だ。家で皆から祝福を受けようと決めた。


「涼、私ね、バージンロードをお父さんと歩くのが、夢だったの」

「そうか、じゃあ、ナースステーションまで、廊下をバージンロードにして歩いたらどう?」

「わあ、いいね!」

「ナースステーションが式場だな」

「神父さんは?」

「桜井先生に頼もうか?」

「そうだね、私たちの主治医だもんね」


 看護師さんたちと病棟の患者たちが参列者だ。人前結婚式というのが流行った時期があったのよと看護師長で、俺達の叔母さん的な山本さんが言っていた。俺達は、病人前結婚式だ、新しいな風香と笑った。


 それから、俺達は日常に張り合いを感じるようになった。二人でつくりあげる手作り結婚式だ。詳細を話し合い、周囲に二人でお願いをしに行ったり、細かいところを詰め直したりした。


 そして、その当日……。



 病棟は、フロアの中心にナースステーションがあり、その周りをぐるっと取り囲むように病室が配置されている。西側のエレベーターホールから、風香のお父さんが風香に腕を貸し、白い壁づたいに廊下を少しずつ少しずつ進んでくる。右の曲がり角を曲がると、今か今かと待ち構える俺と、俺の両親、風香のお母さんが、エタノールの香るナースステーションに立っている。


 ナースステーションを取り囲むカウンター周りには入院患者さんや、看護師さんがにこやかな表情を見せ並んでいた。カウンターの中にはいろんな医療器具や、薬剤入れが乗ったワゴンがそこかしこに置かれている。病室と連携されているモニター類の音が、風香のお母さんの嗚咽をかき消していた。


 風香の目映いばかりの花嫁姿を見て、俺はこみ上げるものがあった。たったひとつでもいい、風香の望みを叶えてやれたと思うと、俺は男として誇らしい思いと、俺自身が噛みしめる幸福感で口元が緩み、目尻がさがりっぱなしだった。父さんのお下がりの黒の燕尾服を着た俺は、衣装に着られてはいたが幸福な花婿だった。


 風香が父親に導かれて、俺のところに辿り着いた。風香の母親が自ら縫いあげた純白のウェディングドレスはハイネックでデコルテ部分に綺麗なレースがあしらってある。風香の喉元には甲状腺の手術痕が鎖骨に沿って走っていた。それはよく「首飾り」と称されるものだ。だからいつもパジャマも首が隠れるものばかり着ていた。俺がプレゼントしたシルバーのイルカのペンダントもいつもハイネックの上から着けていた。この日は、ウェディングドレスの胸元にそのイルカが静かに揺れていた。


 風香が持っているブーケは桃の花だ。純白のドレスとのコントラストがとても綺麗だった。ベールの中からでも、俺を目つぶしせんばかりに光り輝く風香の笑顔が覗く。


「風香、綺麗だよ」

「涼……幸せで、涙が出そう」

「泣いていいよ、俺が涙を拭ってあげる」

「もう! かっこいいこと言わないでよ」


 風香じゃなくて、俺の母さんが大声で泣きだした。


「わーんわーん」

「母さん、泣くなよ……」


 子供のような声をあげて泣く母親の肩を父親が抱いて、きつく唇を噛みしめていた。ごめんな、父さん、母さん、病気になって心配かけて、傾きかけた会社を懸命に守りながら、俺の治療費を必死で捻出してくれてきた父さん、母さん。俺は、先に死んでいく親不孝を申し訳なく思うけど、でも、俺は敬愛する文豪チェーホフに出会って、たくさんの市井の人の一人一人まったく違う人生に触れて、十分人と出会ったし、人生を知った。たくさんの人生を疑似体験できた。


「お前は、青二才の若造だけど、人の心を感じられない朴念仁じゃない。それは、チェーホフのお陰だな」と、父さんがチェーホフ全集を買ってくれた時、そう言ったろ? 俺、凄く嬉しかったんだぜ。父さん、ありがとう。母さん、ありがとう。


 そして、そのチェーホフのお陰で、俺は、最愛の女性に巡り合った。もし、心の中に鍵穴があるとしたら、風香はその鍵穴にぴったりとはまり込む、唯一無二の俺の魂の片割れだ。チェーホフが俺に贈ってくれた人生最大の贈り物だよ。


 神父代わりの主治医の桜井先生が、厳かな声で言う。


「山雅涼君、君は幸福な時も病める時も、死が二人を分かつまで、海野風香さんを愛すると誓いますか?」

「誓います」

「海野風香さん、貴女は、幸福な時も病める時も、死が二人を分かつまで、山雅涼君を愛することを誓いますか?」

「誓います」

「指輪を交換してください」


 俺は、風香の手が冷たくなっているなと思って、暫く握りしめて温め、指輪を薬指に嵌めた。ベールの中から落ちてくる涙の雫が俺の手にかかる。震えてなかなか俺の指に指輪を嵌めることができない風香を励ました。


「自分で嵌めようか?」

「嫌よ、私が嵌めたいんだから」

「そうか、慌てなくていいよ」

「うん、涼、嬉しくて涙が止まらないよ」

「だから、泣いていいって言ってるだろ? 拭ってあげる」


 桜井先生が笑ってみていた。俺は、風香のベールをたくしあげ、泣いている風香の目蓋に口づけた。涙の味は甘かった。副交感神経に刺激された嬉し涙は甘いという。俺は、ゆっくり自分の唇を滑らせて風香の唇に重ねた。病棟の患者、看護師さん達の間に歓声があがった。皆が拍手を送ってくれる。鳥肌が立った。俺達は最高に不幸で、でも、極上の幸福を味わう宇宙一幸福な新婚夫婦だった。


 風香のお父さんが、俺と父親に笑顔を向けた。


「涼君、山雅さん、風香の幸せな顔を見て、この日を迎えられて本当に良かったと思います。ありがとうございます」

「海野さん、大事な娘さんが病に伏して、どれほど苦悩したか察して余りあります。家計を支える家長として娘さんの側に付き添っていることはできないだけに、心労も大きかったでしょう。涼は、まだまだ、若いですが、風香さんを心から想っています。父親同士として二人を見守ってやりましょう」


 俺は風香の幸せな顔を見せてやれただけで、少しは、義父孝行ができたと自負した。


「お父さん、よろしくお願いいたします。」

「ああ、涼君、風香をよろしく」


 お互いの両親に挨拶をしたあと、俺達は、病院内を練り歩く花嫁道中を行った。病に苦しむ人たちに、少しでも幸福のお裾分けをして、生きる希望を持ってほしかったからだ。風香は俺の腕に掴まり、これ以上ないほどの美しい笑顔を俺に向けた。


 俺達は8階の病棟から、エレベータで一階ずつ階下に降り、それぞれの階のナースステーションで、その階の患者さん達の祝福を受けた。少しでも疲れたらストップをかけるために看護師さんが両脇に付き添っていた。一階の外来にある小サロンまで行きつくと、クライスラーの『愛の喜び』が聴こえてきた。俺達のためにとピアノが得意な患者さんが演奏を申し出てくれたのだ。風香の可愛い花嫁姿に感涙する人、歓声を上げる人、そして、シャッターを切る人、俺達は病院中で祝福された。


 勿論、反対の声もあった。それは俺達の体力がもたないということもあった。やっかむ人も、同じことをできないことで落ち込む人も出るからだろう。でも、俺は、訴えたかったんだ。短い命を燃やしつくすことは本人にとって重要なことなんだ。病人だからと我慢しなくてはいけなかったことを、残りの命を燃やしつくしてでも実行することが、細く長く生きながらえることよりも重要な時があるんだってこと。それを、理解してくれた主治医の桜井先生と看護師長の山本さんに俺達は心から感謝している。


 お医者さんから、「くれぐれも、無理をしないこと」と釘を刺されたうえで、俺達は、同じ病室で寝食をともにしていいと許可をもらった。夫婦になってはじめて迎える夜だった。


 二人の愛の褥は四方を白い壁に囲まれた病室だ。シャーと音を立ててレールを走るカーテンはベッドをくるりと覆い隠す。天蓋つきのベッドだねと笑って、俺達は横になった。


 折れるほどに抱きしめたいと思ったが、俺にはそんな力が残っていない。そして、風香はそんな圧には耐えられるほど体力がない。俺は風香を柔く抱き、軽く唇を重ねた。か細い声で風香が言う。


「涼、ありがとう」

「俺のほうが風香にありがとうって言いたいよ」


 微笑みあう俺達は、泣きそうなほど幸せだと、それぞれに感じていた。二人きりだった。


「ねえ、チェーホフは、ドイツに療養に行かないほうが良かったんじゃないかな?」

「うん、オリガも本当は止めたかったのかもしれないね」

「そうでしょ? 結局、命を削ったものね」

「そうだよな、そこで亡くなることになったとしても、きっとチェーホフがそうしたかったんだろうな。新婚旅行も兼ねて療養に出たのは、二人きりになりたかったからかな。二人は遠距離恋愛をしていただろう。ずっと手紙だけで愛を育んでいたんだからね」

「そうね、モスクワとヤルタで離れていたんだよね」

「そうだね。手を取り合って、見つめ合って、二人きりで過ごしたかったのかもね」

「そうだよね。私も涼とこうやって二人きりで居られるのが幸せだな」


 闇の中で、ふわっと浮かびあがる風香の白い腕が俺の首に絡みついた。


「風香、愛しているよ。永遠に一緒にいよう」

「涼、愛している、ずっとずっと一緒だね」


 そのまま俺達は眠った。多幸感を伴う心地よい疲れがすぐに眠りの世界へと引き込んでいったからだ。俺達は、夢の中で強く抱きしめ合っていた。俺は、はっきりと風香の唇の感触を感じていた。風香の肌から匂い立つ桃の花の香りが俺を恍惚とさせ、俺の耳は、確かに風香の吐息を捉えていた。俺達の夜は永遠になった……。


 ―――――――― 病室に朝の柔らかい光が差し込んでいた。コンコンと軽快なノックが鳴り響き、真っ白な制服を身に纏った看護師が2名入って来た。


「山雅さん、奥さん、おはようございます! 点滴の時間ですよ」

「山雅さん!! 風香さん!!」


 新婚の若い二人は、微笑み抱き合って深い眠りについていた。朝の柔らかな光は、二人の憂いのない幸福そのものの顔を照らしている。窓に目をやれば、その光が天の高いところで雲を割り、真っすぐな一条の輝きを放っているのが見えた。


「先生呼んできます!」

「ご両親も呼んで!!」


 看護師の緊迫した声が、二人の頭上で響いていた。二人の耳にはもうその声は届いてはいなかった。すぐに二人の両親が部屋に駆けこんできた。


「「涼!」」

「「風香……」」

    

 青年は、新妻を腕に抱いて、待ち遠しい二人だけの蜜月旅行に旅立っていった。


 完



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