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『紫式部日記』を読み解く②

ちょっと涼しさを感じる夕暮れ時、紫式部日記を開いてみました。

源氏の物語、お前にあるを、殿のご覧じて、例のすずろ言ども出できたるついでに、梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる、
 すき物と名にし立てれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ

      (以下、原文はすべて岩波書店・新日本古典文学大系)

有名な部分ですが、ここだけ読むと道長はあまり熱心に源氏物語を読んではいなかったように思えるのです。彰子の前に源氏物語があるのをご覧になって、冗談など言いながら、梅の下に置いてあった紙に歌をお書きになった、という表現から、物語より、作者の紫式部に興味があったことが感じられます。
歌は「好色者という評判の立っているそなたのことだ。見かけた男がそのまま放っておくなんてあるまいよ」
暗に「だから、私になびいてもいいじゃない?」とモーションをかけている。
この時代、会話はまず和歌という形を取るから、和歌の下手な男はモーションをかけても下手な歌ならふられる!
(こんな歌しか読めないやつ、バカか)となるのです。
道長が、実際、この歌を詠んだとするなら、まだ紫式部は道長の愛人ではなかったように思います。紫式部は、

「人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけん
 めざましう」と聞こゆ。

「まだ誰にも手折られていないのにいったい誰が私を好色者と言ったのですか。失礼な」
多分、このやり取りなどから明治時代の学者たちに「紫式部は貞女の鑑」と持ち上げられたのではないでしょうか。でも、平安時代の女性を明治時代の「貞女」の物差しで測るのは、平安時代の女性に無理やりに洋服を着せるようなものです。
明治時代に、平安時代の女性作家たちは、実に理不尽な決めつけられ方をしたと思います。文学評論は時代の「ものさし」に縛られている!

紫式部は(日記のあちこちを読むと感じられるのですが)オトコよりオンナに興味と愛情があるようです。歌集を読むと、同性愛的傾向があるのでは、とも思えます。
優雅な歌で返してはいますが、内心、(うざいオヤジ、失せろ)と思っていたのかも知れません。
その後、一晩中、渡殿の部屋の戸を叩く人がいたが、怖くて返事もせず夜を明かし、さらに送られてきた歌、

夜もすがら水鶏(くひな)よりけになくなくぞ真木の戸口にたたきわびつる

「一晩中、水鶏みたいに戸を叩き続けたのに、戸を開けてくれなかったね」

紫式部は次の歌で返します。

ただならじとばかりたたく水鶏ゆえあけてはいかにくやしからまし

「戸を開けてしまったら、どんなに悔しい思いをしたでしょう」

こんなやり取りで男女関係を繋いだり切ったりする時代です。多分、皆、暇だったのでしょうね。とにかく、紫式部は道長の(この段階では)愛人ではなかった。でも、もしや……

身分の高い男を拒否することはできない。紫式部は嫌々ながら、道長と関係を持っていたのかも知れない、とも思うのです。「好き、嫌い」ではなく、職務として上司の誘いは絶対断れない。だからせめて歌の上では、拒否していたのかも知れません。
つまり、今で思う男女関係、恋愛関係ではなく、ただのパワハラ。それを拒否できない立場が、紫式部をとても不幸感の強い人にしていたのでしょうか。
宮仕えはつまらない、つまらない、心のうちは荒れ果てている、と書いているのですから。
文学は不幸感から生まれると私は思います。今が幸せで何もつらいことがない人は小説なんか書かない。「貞女の鑑」は小説など書かない。
今の状況を理不尽に思い、つらくてたまらないと感じることが「物書き」の源泉だと、私は思うのです。




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