ほんとうは怖~い源氏物語(9)

高麗の相人は若宮を見て驚きました

☆国の親となりて、帝王の上(かみ)なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。

帝王という地位に上るはずの人相であるが、もしそうなったら世が乱れる。だが、臣下として国を支える相ではない……

臣下の子として連れて来られた子供が帝王の相を持っていることに驚いたのです。この「人相見」の箇所は『聖徳太子伝暦』に酷似しています。紫式部はこの記録を読んでいたのでしょう。

帝はいろいろ考えた末,臣籍降下させ源氏の姓を名乗らせることにしました。源氏姓を名乗った者は決して東宮にも天皇にもなれない。これで右大臣一派は安心し、国が落ち着くだろうと思ったのです。

しかし帝は更衣恋しさが募り毎日涙、涙。政務もほったらかし。周囲があれこれと手を回し、先代の帝の四女に当たる姫が亡き更衣さんにそっくりだと聞きつけて、キサキにしようと画策。姫の母親は泣いて反対した。

更衣みたいな目には遭わせたくないと……。

その母も亡くなり、兄弟たちが姫を入内させた。ここに、更衣の母の悲しみがまた繰り返されるのです。家の興隆にオンナを利用するオトコたち、娘を案じ死ぬほど悲しむ母の姿……

紫式部はこの当時のキサキたちの現実を冷徹に見ている。

『桐壷の巻』は紫式部が宮中で働くようになってから書いたという説の根拠がここにあります。源氏物語は『若紫』から書き始められ、彰子に仕えるるようになってから桐壷が書き加えられたという説、なるほどと思います。

宮中で働いたからこそこのリアルなキサキたちの実態が書けた……。

物語中の姫君は藤壷という御殿を部屋として与えられ、藤壷と呼ばれます。実は紫式部の仕える彰子はこのころ、藤壷に住んでいたのです。十二歳ぐらいでした!

ちなみに彰子の部屋の坪庭には藤が植えられていました。そして藤の花は道長の象徴でもありました~

道長が我が娘を亡き定子に敗けないキサキに仕立てるべく、いやがる紫式部を強引に宮中に引っ張りこんだ、と言われていますが、紫式部は、チャンス到来、と目を輝かせて宮仕えに出たのではないか、とわたしは思います。

作家ともあろう者が、こんなチャンスを逃すはずがない。最強のスポンサーを得て、宮中を自由に動き回れる。天皇にも会える。すべてが書く素材になる。素材にしてみせる。彼女ほどの書き手が、そう思わないはずがない!

明治時代の学者からは紫式部は良妻賢母の鑑と称されましたが、それはありえない。良妻賢母という考え方自体、明治時代の小役人によって作られた言葉。それはどうでもいいですが、良妻賢母の鑑は絶対に小説など書かない!

紫式部はスポンサーかつ雇用主である道長への礼儀として藤壷を登場させた。道長は大喜び。これで死んでからまで目障りな定子を彰子が追い越せるわい。

清少納言、分かったか。藤壷の彰子ちゃんの方が定子より上じゃ~~

藤壷と若宮が二人並ぶとそれはそれは美しい。(藤壷の夫である帝は完全に場外)。世の人は若宮を「光る君」、帝の新たなキサキ藤壷を「かがやく日の宮」と呼びました、とさ。

藤壷は更衣と違って皇女。身分がものすごい。だれも苛めない。これが人の性(さが)、弱い者を人は苛める。身分がすべて。紫式部は現実を目にし、自分の娘には絶対に安定した地位と身分を与えようと決心しました。そして、それは実現したのです(紫式部の娘は天皇付の乳母となり、歌人としては母より高い名声を得た)。

源氏姓となり、絶対に天皇にはなれない光がどうやって天皇になるか。いや、ありえない。当時の読者はかたずを吞んだでしょう。

やがて、奇想天外、あり得ないような事件が起こる!

光源氏は藤壷と密通し子をなした。そしてその子が帝の子として天皇に!

こんな怖~い話、あります?

さて、このシリーズは12回で終わる予定です。ほんとうにつまみ食いでしたが、最期に面白い雑談知識を紹介する予定です。どうぞ最後までお楽しみ下さい、と紫式部さまからも言付かっております~


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