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リバー・ランズ・スルー・イット 2

A River Runs Through It by Norman Maclen

ln our family, there was no clear line between religion and fly fishing. We lived at the junction of great trout rivers in western Montana, and our father was a Pres-byterian minister and a fly fisherman who tied his own flies and taught others. He told us about Christ's disciples being fishermen. and we were left to assume, as my brother and l did, that all first-class fishermen on the Sea of Galilee were fly fishermen and that John, the favorite, was a dry-fly fisherman.
 It is true that one day a week was given over wholly to religion. On Sunday mornings my brother, Paul, and l went to Sunday school and then to "morning services" to hear our father preach and in the
evenings to Christian Endeavor and afterwards to "evening services” to hear our father preach again.
 
私たちの家族には、宗教とフライフィッシングの間に明確な境界線はありませんでした。私たちは西モンタナの大きなマス釣りの川の交差点に住んでおり、父は長老派の牧師であり、自分でフライを巻くフライフィッシャーでもありました。また、他の人にも釣りを教えていました。父は、キリストの弟子たちが漁師だったことを話してくれました。そして、兄と私は、ガリラヤ湖の一流の漁師は全員フライフィッシャーであり、特にお気に入りのヨハネがドライフライフィッシャーだったのだと想像することになりました。
確かに、週に一日は完全に宗教に捧げられていました。日曜日の朝、兄ポールと私は日曜学校に行き、その後「朝の礼拝」に出席して父の説教を聞き、夕方にはクリスチャンエンデバーに出席し、その後「夕方の礼拝」で再び父の説教を聞くのでした。
(ChatGPT ですます調の翻訳)

私たちの家族では、宗教とフライフィッシングの間には明確な境界が存在しなかった。私たちはモンタナ州西部の偉大な鱒の川の合流点に住んでおり、父は長老派の牧師であり、フライフィッシャーマンで、自分でフライを巻き、他の人々にそれを教えていた。彼はキリストの弟子たちが漁師であったことを私たちに語り、兄と私は、ガリラヤ湖の一流の漁師たちは皆フライフィッシャーマンであり、特にお気に入りのヨハネはドライフライの釣り師であったのだと想像するようになった。
確かに、週に一日は完全に宗教に捧げられていた。日曜日の朝、兄のポールと私は日曜学校に行き、その後「朝の礼拝」で父の説教を聞き、夕方にはクリスチャン・エンデバーに参加し、その後「夕の礼拝」で再び父の説教を聞いたのであった。
(ChatGPT である調の翻訳)

わたしたちの家族では、宗教とフライ・フィッシング(毛鉤り)のあいだに、はっきりとした境界線はなかった。わたしたちは、そのころ、モンタナ州西部の、マスが棲む雄大な渓流が落ち合う合流点に住んでいた。長老教会派の牧師だったおやじは、フライ・フィッシャーマンとしても名が通っており、自分の手でフライを作り、まわりの人たちにも作り方を教えていた。おやじが話してくれたところによると、キリストの弟子たちはみなフライ・フィッシャーマンであり、ガリラヤ湖の第一級のフィッシャーマンはいずれも毛鉤を使ったフライ・フィッシャーマンで、なかでも、わたしたちがひいきにしていたヨハネは、ドライ・フライによるフィッシャーマンだと、わたしたち、つまり、弟とわたしは。勝手に思い込んでいた。
 そうは言うものの、一週間のうち一日だけは、朝から晩まで、完全に宗教のために捧げることになっていた。日曜日の午前中、弟のポールとわたしはまず日曜学校に出かけ、そのあと。朝の礼拝に出席しておやじの説教を聞き、夕方になると。クリスチャン・エッデバーの集りに顔を出し、そのあともう一度、夕方の礼拝に出て、またおやじが説教するのを聞く。
(渡辺利雄訳)

In between on Sunday afternoons we had to study The Westminster Shorter Catechism for an hour and then recite before we could walk the hills with him while he unwound between services. But he never
asked us more than the first question in the catechism, "What is the chief end of man?” And we answered together so one of us could carry on if the other forgot, "Man’s chief end is to glorify God, and
to enjoy Him forever." This always seemed to satisfy him, as indeed such a beautiful answer should have, and besides he was anxious to be on the hills where he could restore his soul and be filled again to overflowing for the evening sermon. His chief way of recharging himself was to recite to us from the sermon that was coming, enriched here and there with selections from the most successful passages of his morning sermon.
 Even so, in a typical week of our childhood Paul and l probably received as many hours of instruction in fly fishing as we did in all other spiritual matters.
 
日曜日の午後には、私たちは『ウェストミンスター小教理問答』を1時間勉強し、その後暗唱する必要がありました。それから、父と一緒に丘を歩きながら、彼が礼拝の合間にリラックスするのを手伝うことができました。しかし、父は教理問答の最初の質問「人の最高の目的は何か?」以上のことを私たちに尋ねることはありませんでした。そして、私たちは一緒に答えました—もし一人が忘れてももう一人が続けられるように、「人の最高の目的は神を栄光を帰し、永遠に神を楽しむことです。」これにはいつも満足しているようでした。それもそのはず、この美しい答えが彼を満足させたのでしょう。さらに、彼は丘に行って自分の魂を回復させ、夕方の説教に向けて再び満ち溢れるほどのエネルギーを補充したいと切望していました。彼が自分を充電する主な方法は、これからの説教を私たちに暗唱することでした。時折、彼の朝の説教で最も成功した部分からの選択が加えられていました。
それでも、私たちの子供時代の典型的な1週間の中で、ポールと私はフライフィッシングについての指導を受ける時間が、他のすべての精神的な事柄と同じくらい多かったかもしれません。
(ChatGPT  ですます調の翻訳)

日曜日の午後には、礼拝の合間に1時間ウェストミンスター小教理問答を学び、父と一緒に丘を歩く前にそれを暗唱しなければならなかった。しかし、彼が私たちに問うたのは教理問答の最初の質問だけであった。「人間の最高の目的は何か?」と。そして、もし片方が忘れてももう一方が続けられるように、私たちは一緒に答えた。「人間の最高の目的は、神を崇め、永遠に神を楽しむことである。」この答えは、まさにその美しさから、彼を満足させたようであり、さらに彼は夕方の説教のために魂を回復させ、満たされるために丘に行くことを急いでいたのである。彼が自分をリフレッシュさせる主な方法は、来たるべき説教を私たちに朗読することであり、そこには、午前中の説教の最も成功した部分からの抜粋が所々にちりばめられていた。
それでもなお、私たちの子供時代の典型的な一週間において、ポールと私は他のすべての霊的な事柄と同じくらい多くの時間をフライフィッシングの指導を受けていたのである。
(ChatGPT   である調の翻訳)

午後は一時間ほど、ウェストミンスター小教理問答を勉強し、おやじにそれを暗誦して聞かせるようにいわれた。暗誦が終ると、おやじといっしょに近くの丘まで歩いていった。おやじは、この丘で、朝と夕方の礼拝のあいだ一息入れることにしていたのだ。暗誦するといっても、おやじが要求したのは、「人間のおもな目的はなにですか」という教理問題の最初の質問だけで、わたしと弟は、「人間のおもな目的は、抻の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」という答えを、一人が忘れていても、もう一人が続けて言えるよう、二人いっしょに答えることにしていた。これでおやじはいつも満足していた。いや、実際のところ、これほどすばらしい答えをしたのだから、おやじとしても満足するほかなかったろう。そのうえ、おやじはこの丘に来て、そこで自分の魂の生気を取り戻し、夕方の説教に備えて、自らの気持ちを溢れんばかりに充実させるのだった。おやじにとっての充電の方法というのは、朝の説教でもっとも強くアピールした文章をいくつか選んで、夕方行なう説教にちりばめ、より魅力的になったその一部を前もってわたしたちに聞かせることだった。
このように過ごす日もあったものの、わたしたちの少年時代の典型的な一週間は、いま思い出すと、人間の魂の問題に関しておやじから教育されると同じだけの時間、フライ・フィッシングの訓練に費やしていた。
(渡辺利雄訳)

 After my brother and l became good fishermen, we realized that our father was not a great fly caster, but he was accurate and stylish and wore a glove on his casting hand. As he buttoned his glove in preparation to giving us a lesson, he would say, “lt is an art that is performed on a four-count rhythm between ten and two o'clock."
 As a Scot and a Presbyterian, my father believed that man by nature was a mess and had fallen from an original state of grace. Somehow, I early developed the notion that he had done this by falling froma tree. As for my father, l never knew whether he believed God was a mathematician but he certainly believed God could count and that only by picking up God's rhythms were we able to regain power and beauty. Unlike many Presbyterians, he often used the word "beautiful.”
 After he buttoned his glove, he would hold his rod straight out in front of him, where it trembled with the beating of his heart. Although it was eight and a half feet long, it weighed only four and a half ounces. It was made of split bamboo cane from the far-off Bay of Tonkin. It was wrapped with red and blue silk thread, and the wrappings were carefully spaced to make the delicate rod powerful but not so stiff it could not tremble。
 
私の兄と私が良い釣り人になった後、私たちは父が偉大なフライキャスターではないことに気付きましたが、彼は正確でスタイリッシュで、キャスティングの手には手袋を着けていました。彼は私たちにレッスンをする準備をしながら手袋のボタンを留めると、「これは4拍子のリズムで、10時から2時までの間に行う芸術だ」と言っていました。
スコットランド人で長老派の信者である父は、人間は本質的に混乱しており、元々の恩恵の状態から堕落したと信じていました。私は早くから、彼がこれを木から落ちることでやったという考えを持っていました。父が神が数学者だと信じていたかどうかはわかりませんが、彼は確かに神が数えることができると信じており、神のリズムをつかむことでのみ力と美しさを取り戻すことができると考えていました。多くの長老派信者とは異なり、彼は「美しい」という言葉を頻繁に使いました。
手袋のボタンを留めた後、彼はロッドを真っ直ぐ前に持ち、心臓の鼓動で震えていました。それは8フィート半の長さで、重さはわずか4.5オンスでした。遠くトンキン湾からの割竹で作られ、赤と青のシルクの糸で巻かれており、その巻き方は慎重に間隔を開けて行われていて、繊細なロッドを強力にしながらも、震えないほど硬くはありませんでした。
 ( ChatGPT   ですます調の翻訳)

兄と私が優れた釣り師になった後、私たちは父が卓越したフライキャスターではないことに気づいたが、彼は正確でスタイリッシュであり、キャスティングする手にはグローブを着用していた。彼が私たちにレッスンをする準備としてグローブのボタンを留めながら、彼は「これは10時から2時の間に4拍子のリズムで行う芸術である」と言っていたのである。
スコットランド人であり長老派の信徒である父は、人間は本来混乱した存在であり、元々の恩寵の状態から堕落したと信じていた。私としては、彼が木から落ちることでそうなったのだと早い段階で考えたものである。父が神を数学者と信じていたかどうかは知らないが、彼が神が数を数えられると信じていたことは確かであり(私たちが神のリズムを取り戻すことによってのみ、力と美を再獲得できると考えていた。多くの長老派信徒とは異なり、彼は「美しい」という言葉をよく使っていたのである。
グローブのボタンを留めた後、彼はロッドをまっすぐ前に持ち出し、心臓の鼓動でそれが震えるのを見せた。それは8フィート半の長さでありながら、重さはわずか4オンス半であった。それは遠くのトンキン湾から取り寄せられた割り竹で作られており、赤と青の絹糸で巻かれていた。その巻き方は、繊細なロッドを強力にするが、震えることができないほど硬くはならないように慎重に配置されていたのである。
( ChatGPT である調の翻訳) 

フィッシャーマンとして一人立ちしたあと、わたしたちが気づいたところによると、おやじはフライ・キャスティングでそれほどすぐれていたわけではなかったようだが、それでも、おやじのキャスティングは正確だったし、キャストする右手には手袋をはめており、なかなかかっこよく見えたものだった。わたしたちに教えるときも、まずその手袋をはめてから、「技なんだ、すべてが。時計の文字盤で言えば、10時と2時のあいだの角度で、四つ数えながら投げ出す、あのリズムでやるんだ」と、言うのだった。
 スコットランド系の血を引き、長老教会派に属していたおやじによると、人間ってやつは救いようのないがたがたの存在なんで、神の聖寵をうけた人間本来の状態からはすでに転落しているというのだ。そのため、幼いころからわたしは、どうも人間は木かなにかからすべり落ちて、そうなったんだろうと思っていた。おやじに関していえば、神が数学者であると信じていたかどうかはっきりしないが、神は数を数えることができ、その数えるときのリズムを身につけないかぎり、人間は失ったかつてのパワーと美を取り戻せないと信じていたことは疑いなかった。長老教会派に属する信者としてはめずらしく、おやじはしばしば、”すばらしい″という言葉を使った。
 手袋をつけると、おやじは手に持ったフライーロッドを前にまっすぐ突き出し、構えてみせたが、そうすると、そのロッドはおやじの心臓の鼓動に合せてかすかに震えた。長さは八フィート半もあったが、重さはわずか四オンス半しかなく、遥々トンキン湾から取り寄せた竹を割って、それを貼り合せて作ってあった。赤と青の絹糸が注意深く間隔をとって巻きつけてあったが、その絹糸によって、彼の繊細なロットは、パワーを保ちながら、しなやかさを失うこともなく、先がたえずかすかに震えるようになっていた。
(渡辺利雄訳) 

岩の下には言葉が潜んでいる  渡辺利雄

「マクリーツの川」は、原文で百ページほどの中編で、そこにはドラ了アイックな事件らしい事件があるわけではなく、ある意味では、原初的な汚れなき大自然のなかで生きる喜びを詩人の繊細な感覚をとおして綴った、アメリカ文学で一つの伝統を形づくる自然文学の典型といってよい作品である。しかし、そうした自然描写にもかかわらず、この小説は、マクリーン家の親子四人と、その周辺の人びとのさまざまな人問関係を描いた、まことに人間臭い物語でもある。中心は、言うまでもなく、語り手のノーマンと弟ポールとの関係である。兄のほうはやや不器用なところがあり(従って、鱒釣りでは弟にはかなわない)、女性にももてないが、思いやりがあり、人間をみる目も確かで、堅実な判断を示す。

"The River Runs Through It" is a novella of about a hundred pages in its original form. While it does not feature any particularly dramatic events, it beautifully captures the joy of living in pristine nature through the poet’s delicate sensibility, making it a classic example of nature writing in American literature. Despite its vivid descriptions of nature, this novel is also a deeply human story, depicting the various relationships among the four members of the Maclean family and the people around them. At its core is the relationship between the narrator, Norman, and his younger brother, Paul. Norman, the elder brother, is somewhat awkward—he cannot match his brother's skill in trout fishing and is not particularly popular with women. However, he is compassionate, perceptive, and demonstrates sound judgment.
 
"The River Runs Through It" is a novella of about a hundred pages. It doesn't have any dramatic events, but it beautifully describes the joy of living in untouched nature through the poet’s sensitive perspective, making it a great example of nature writing in American literature. Despite the focus on nature, this story is also very much about human relationships. It follows the four members of the Maclean family and the people around them. At the heart of the story is the relationship between the narrator, Norman, and his younger brother, Paul. Norman is the older brother, a bit awkward—he isn’t as good at trout fishing as his brother and isn’t very popular with women—but he is kind, perceptive, and shows good judgment.
 
  それに対して、弟のポールは、たぶん兄以上の才能に恵まれていながら、生まれもったかたくなな性格と、文化的に僻地というべき環境ゆえに、その才能を十分発揮する場を見出せず、白分自身をもてあまし、早くから賭けごとに熱中し、酒におぼれ、女性関係もだらしなく、最後は身を滅す。そうした弟を見て、兄は援助の手をさしのべようとするが、相手の屈折した気持ちが痛いほど分かるだけに、手の出しようがない。弟も、兄からの援助を望みながらも、意地とプライドがあり、兄からの援助だけはどうしても受けたくないという気持ちがある。その結果、おそらく、借金をめぐるトラブルから悲惨な最期を遂げ、残された兄は、そのことにこだわりながら残りの人生を生きることになる。

Paul, the younger brother, is perhaps more talented than Norman, but due to his stubborn nature and the isolation of the rural environment they live in, he struggles to find a way to fully express his talents. As a result, he becomes frustrated with himself, turns to gambling at an early age, gets lost in alcohol, and engages in reckless relationships with women, eventually leading to his downfall. Seeing his brother's plight, Norman tries to offer help, but he understands Paul's conflicted feelings too well and finds himself unable to reach out effectively. Paul, on the other hand, desires his brother’s help but is too proud and stubborn to accept it. In the end, Paul meets a tragic death, likely due to problems related to debt, and Norman is left to carry the weight of this loss for the rest of his life.
 
Paul, the younger brother, is probably more talented than Norman, but because of his stubborn personality and the isolated environment they live in, he can’t find a way to fully use his talents. This makes him frustrated, and he turns to gambling, drinking too much, and getting involved in troubled relationships with women, which eventually leads to his downfall. Norman tries to help his brother, but he understands Paul's inner struggles too well and doesn’t know how to reach out. Paul wants his brother’s help, but his pride and stubbornness won’t let him accept it. In the end, Paul likely dies because of trouble with debts, and Norman is left to live the rest of his life burdened by this loss.
 
「マクリーンの川」は、明らかに自伝的な小説であるが、それを大学教授として定年を迎えた七〇代になって書き出したのは、たんに時間的な余裕ができたからというのではないだろう。弟との関係に自分なりに折り合いをつける、真の意味で弟を理解し、その理解に基づいて弟と和解するのにそれだけの歳月が必要だったということなのだ。『マクリーンの川』は、その意味で、書かれるべくして書かれた小説であるが、そのためには、ある程度距離を置いて、自らの過去を眺め、その意味を明らかにする心のゆとりが必要なのである。

"The River Runs Through It" is clearly an autobiographical novel, but the reason it was written in the author's seventies, after retiring as a university professor, was not simply because he had more time. It took him that many years to come to terms with his relationship with his brother, to truly understand him, and to reconcile with him based on that understanding. In that sense, "The River Runs Through It" is a novel that was written because it had to be written. However, to do so, the author needed to maintain a certain distance from his past, allowing himself the emotional space to look back and clarify its meaning.
 
"The River Runs Through It" is obviously an autobiographical novel, but the author didn’t start writing it in his seventies, after retiring as a university professor, just because he had more free time. It took him that long to come to terms with his relationship with his brother, to truly understand him, and to find peace with that understanding. In this sense, the novel was something he had to write, but he needed to step back from his past and have the emotional space to look at it clearly before he could do so.
 
この小説のとくにすぐれている点は、このように若い頃の体験が具体的に、また鮮明に、再現されていると同時に、それを再現する時間的な距離がつねに保たれ、瞬時たりとも、作者の抑制力に乱れがないというところにある。青春時代の思い出の文学というと、とかく感傷的になりがちであるが、『マクリーンの川』には、作者がそうした感傷に溺れ、自らを甘やかしたり、自己正当化したりすることはまったくないし、また逆に、自虐的になったりすることもない。

This novel is particularly outstanding in how it vividly and concretely recreates the experiences of the author’s youth while always maintaining a certain distance from them. Not once does the author lose control of his restraint. When writing about memories from one's youth, it’s easy to become sentimental, but in "The River Runs Through It," the author never indulges in such sentimentality, nor does he pamper himself or try to justify his actions. At the same time, he avoids falling into self-pity or self-criticism.
 
This novel is especially impressive because it brings the author’s youthful experiences to life in a clear and vivid way, while also keeping a steady distance from those memories. The author never loses control of his emotions. When writing about memories from youth, it’s easy to get overly sentimental, but in "The River Runs Through It," the author never gives in to that. He doesn’t indulge in self-pity, make excuses for himself, or become overly critical.
 (翻訳 ChatGPT)
 

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