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森の生活・ウォールデン  真崎義博

 もう十年もまえ、いわゆるヒッピーズの動きがとても活発だったころ、サンフランシスコに集る都会派の若者とは別に、都会と離れて山のなかにコミューンをつくる人々があった。その両方に興味をもっていたぼくは、都会派のシンボルとしてジェファーソン・エアプレインを聴き、山中コミューン派のシンボルとしてソローの『森の生活』を読んだ。

 当時ボブ・ディランに心酔して彼のうたを日本語でうたい、ボロ・ディランなるニックネームをもらっていたぼくは、ヒッピーズのロック・ミュージックを共感をもって聴くことができた。それからの数年、ぼくはロックに浸り、同時に醒めた目で見つめ、やがて、都会派ヒッピーズとその音楽であるロックに計り知れないほどの失望感を味わされることになった(このことについては、いまここでは深く入り込むことはやめておこう)。

 一方、山中コミューン派のシンボルとして読んだ『森の生活』は、派手なパンチではなかったけれど、地味なボディ・ブロウを打たれたようにじわじわと効いていた。ぼくが読んだのは岩波文庫で出ている神吉三郎訳のものだった。当時の感想をひとことで言うと、内容はともかく、いまの若者の言語感覚は、神吉氏が訳された昭和二六年当時の言語感覚とはだいぶ違うのではないかということだった。

 小泉徹氏もそういう感じ方をしているひとりだった。数年前、当時月刊「宝島」の編集長をしていた彼から、『森の生活』を翻訳しなおさないかとさそいを受けた。「宝島」に連載したいというのだ。ぼくはアメリカ文学者でもなければ、ましてやソローの研究家でもないのでかなり不安は感じたけれど、岩波の『森の生活』から受けたボディ・ブロウのせいでやってみようと決心したのだった。その結果が、この『新訳・森の生活』というわけだ。

 この本を翻訳する、つまりこの本を読むぼくの読み方についていうと、『森の生活』がアメリカ文学史のなかでしめる位置とか重要性といったことに対する意識は、皆無にちかかった。アメリカ文学の古典という意識などとてももてなかったからだ。むろん、貨幣価値の点でも、科学的発見・発明といった点でも、この作品がほぼ百三十年前に書かれたものだということは明らかなのだけれど、それ以上に、ソローがぼくの同時代人であるかのような気がしてならなかったのだ。

 たとえばソローがウォールデン湖に住んだのは二八歳のときだ。今のぼくより若い。そういうこともあって一人称には《私》でなく、《ぼく》を使った。《ぼく》を使うことで、ソローという人間をできるかぎり身ぢかにひきつけたかったからだ。この本にかぎっていえば、ソローを身ぢかにひきつけて読むことはとても大事なことに思える。もし、知性と教養を身につけるために古典を読むという読み方があるとしたら、この『森の生活』を古典というカテゴリーに入れたくはない。

 いま、このあとがきを書きながら、なにげなく本棚からローレンス・リプトンの「ホリー・バーバリアンズ」という、ビート・ジェネレイションのことを書いたペイパーバックを引っぱり出してきて、ぺらぺらとページを繰っている。他の版ではどうか知らないけれど、このグローヴ・プレス版にはグロッサリーがついていて、いまでは誰も知っているような言葉に注釈がなされている。五○年代の終わりころにはこんなことばも新しかったのかな、などと思いながら見てゆくとHlPという項が目にとまった。そこには、こういう注釈がある。
 
To know, in the sense of having experienced something. A hip cat has experiential knowledge. A hip square has merely heard or read about it.

(ヒップ──体験的にものごとを知っているということ。ヒップな自由人は体験的な知識をもっている。ヒップな俗物は、耳学問や読書をとおして知っているにすぎない)

 乱暴なことを十分承知のうえであえて言えば、いまここを読んだぼくは、ソローというのはヒップな自由人だったのだな、と感じないではいられない。神吉三郎氏の訳者のことばのなかに、「戦争(南北戦争)と奴隷を支持する政府のために税金を出すことをこばんだ」という話が書かれているけれど、そういう態度を実践したことを読むと、いよいよその思いが深くなる。この本の本文の中にも、その思いを裏打ちしてくれる文章は山ほど詰まっているはずだ。ソローに感銘を与えたといわれる人物のひとり『草の葉』を書いたウォルト・ホイットマンにしても、アメリカのヒップな自由人というのは、たとえいつの時代の人であろうと、ぼくにとってはぼくの同時代人なのだ。
 
 ソローのものの見方、ものの考え方のなかには、ぼくにとって首をたてに振ることのできない部分もある。たとえば、セックスの問題などはとても大きなギャップを感じてしまう。けれど、そうした個々の問題についてぼくの考え方を書くことは「あとがき」の範疇を超えてしまうので、そうした問題も含んでいると言うにとどめておこう。いまは、むしろ、ソローという人間のとてつもなく鋭い眼、鋭い感性を、こちら側のアンテナの感度を最大限に高めて受信したい。

 最後に「森の生活」を訳しなおすにあたって、神吉三郎氏の訳を参考にさせていただいた。本文中に出でくる人名等については、ウェブスターの人名辞典などを調べて訳註をつけたが、ラスト・ネームしか書かれていない場合は、その人物を特定することがむずかしく、註はつけられなかった。

──そこにどんな植物が生え、どんな動物が棲んでいるか、そうしたことを熟知した土地だけが、ぼくにとってぼくのテリトリーだと断言できる土地なのだ。─ケイリー・スナイダー

ヘンリー・D・ソロー特集
森の生活 神原栄一訳  荒竹出版 1983年刊
市民の反抗  飯田実訳  岩波文庫1997年刊
ザ・リバー 真崎義博訳  宝島社 1993年刊
コッド岬  飯田実訳 工作舎 1993年刊
市民としての反抗  富田彬訳 岩波文庫 1949年刊
メインの森──真の野生に向う旅   小野和人訳 講談社学術文 1994年刊
ウォールデン・森の生活 今泉吉晴訳 小学館 2004年刊
市民の反抗 飯田実訳 岩波文庫 1997年刊
森の生活・ウォールデン 神吉三郎訳 岩波文庫 1979年刊
ウォールデン 酒本雅之訳 ちくま学芸文庫 2000年刊
森の生活・ウォールデン 真崎義博訳 宝島社 1980年刊
森の生活・ウォールデン 佐渡谷重信訳 講談社学術文庫 1991年刊


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