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承久記  2

公繼公意見の事 06


 

大将公経父子死罪に行はるべきよし仰せければ、諸卿口を閉づる所に、徳大寺の右大臣公継の申されけるは、「勅命の上は左右に及ばず候へども、後白河法皇の御時、友康と申す前後を知らざる不徳人の者の讒奏に付かせ給ひつつ、義仲を追討せんとせられしが、木曾憤りを含み法住寺殿へ向うて攻め奉る。味方の軍(いくさ)、一時の内に破れて君も臣も亡び給ひき。今また胤義・広綱が讒により、義時を攻めらるべきか。敵を亡ぼさんにつきても、味方の亡びんにつきても、大臣以下納言以上の人、父子死罪を行はれんこと、能々叡慮をめぐらさせ給ふべきか」と、憚る所もなく申されけり。一院「げにも」とや思召しけん、死罪を免(なだ)めらる。さてこそ鎌倉にも伝へ聞えて、近衛入道殿・徳大寺の右大臣殿両所をば忝きことに申されけれ。


 
方々へ宣旨を下さるゝ事 07



 光季追討の後は、「急ぎ四方へ宣旨を下すべし」と人々申されければ、中納言光親承りて宣旨を書く。その状に曰く、

左弁官下
  五畿内諸国早く応さに陸奥の守平義時を追討し、身を院庁に参らせ、裁断を蒙ら令(し)むべし。諸国庄園守護・地頭等の事、右内大臣(=久我通光)宣す。勅を奉るに、近曾関東の成敗と称し、天下の政務を乱る。纔に将軍の名を帯すと雖も、偏に其詞を仮り、命に於いて恣に裁断を都鄙に致す。剰つさへ威を耀かし皇憲を忘るゝが如し。この政道を論ずるに謀叛と謂ふ可し。早く五畿・七道諸国に下知し、彼の義時を追討せ令めよ。兼て又諸国庄園守護人・地頭等、言上令む可き旨有る者、各院庁に参り、宜しく上奏を経べし。状に随ひて聴断すべし。抑も国宰并領家等、事を綸債(責は素)に寄せて、更に濫行の綺を致す勿かれ。是厳密にして曾て違越せざる者、諸国承知し、宣に依り之を行ふ可し。
  承久三年五月十五日         大史小槻宿禰謹言

 とぞ書きたる。東国の御使には、御厩の舎人押松丸を下さる。これにつけて人々の内消息多く下しけり。平九郎判官胤義は、私の使を立てゝ内消息を下しけり。十六日の卯の刻に、東西南北五畿七道に綸旨を分けて下され、同き日、南都山門を始めとして、諸寺・諸山の一の悪僧どもを召す。悉く参るべきよし領掌申す。その外、君に志を運ぶ輩、諸国七道より馳せ参ず。美濃の国より西は大略馳せ参じけり。

 東国の宣旨の御使・胤義が私の使、前後を論じて下りけるが、十九日の未の刻に、判官の使、片瀬河より先に立て鎌倉に入りにけり。駿河の守義村が許に行きて、文を差上げたり。急ぎ取りて見るに、「十五日午の刻に伊賀の判官光季討たれぬ。去ぬる十六日卯の刻に、四方へ宣旨を下され候。また東国へ御使下り候なり」とて、日比の本意をぞ書き尽したる。

 義村打ち頷き、「御使下るなるは何処(いづく)にぞ。片瀬河より先にたちて候ひつれば、今は鎌倉にぞ入り候はん」と申す。「返事をせんと思へども、今は鎌倉より関々も固めらるらん。義村が状とて披見せられんこと難儀治定なり。申されたることはさ心得たりと申すべし」とて、使者を急ぎ返し上せ、時を移さず、使門を出でければ、義村勅命にも従はず、胤義が語らひにも付かず案じすまして、文を持て権大夫殿(=義時)の許に行向ふ。

 折節侍の見参にて隙間もなき中を分けて差寄りて、「去ぬる十五日御所より討手向うて、伊賀の判官(=光季)討たれ、十六日卯の刻に宣旨四方へ下さる。東国への御使も唯今鎌倉へ入り候なり。胤義が内消息にて候」とて、引き広げて置きたれば、義時見て、「今まで事なかりつるこそ不思議なれ。宣旨にも東国の者ども一味同心に、義時を討つて参らせよと候らん。人手に懸けずして、御辺(=あなた)の手にかけて、君の見参に入れさせ給へ。近くな寄り給ひそ」とて、かいつくろひ給ひければ、

 「義村、口惜しくも隔てられ奉る物かな。御命に代り奉ること度々なり。元久に畠山を亡ぼさせ給ひし時も、義村身を捨てゝ六郎(=重忠の嫡子)に組付き、建保に一門(=三浦)を捨てゝ味方に参り候ひき。忠賞一にあらず。幾度も三代将軍の御形見にて渡らせ給ひ候へば、いかでか捨て奉り候べき。全く宣旨にもかたより候まじ。胤義が語らひにも付くまじく候。義村二心を存せば、日本国中大小の神祇、別して三浦十二天神の神罰を蒙りて、月日の光に当らぬ身と罷りなるべし」と、誓請を立てられければ、「今こそ心やすく思ひ奉れ。されば三代将軍蘇生りて渡らせ給ふとこそ見奉れ」とぞ宣ひける。

二位殿口説き事並引出物の事 08



 押松丸尋ね出ださる。笠井が谷より引つ提げて出来たる。所持の宣旨七通あり。足利・武田・小笠原・笠井・三浦・宇都宮・筑後入道、以上七人にあてらる。この宣旨について人々の消息多かりけり。

 権大夫、駿河の守を相具して二位殿に参ず。大名小名参りこみたり。庭にも隙なくぞ見えし。二位殿、妻戸の簾押上げ給ひて、先づ宇都宮を召されて、その後千葉の介・足利殿をぞ召されける。二位殿、秋田の城の介景盛を以て仰せられけるは、

「一院こそ長厳・尊長・秀康・胤義等が讒言に付かせ給ひて、義時を討たんとて、先づ光季討たれて候なり。君をも世をも怨むべきにあらず。ただ我身の果報の拙きなり。女のめでたき例には、我身を世には引くなれども、我れ程物を嘆き心を砕くものあらじ。故殿に逢ひ始め奉りしより、父の誡・誠ならぬ母の嫉み・男の行方・子の有様とり集めて苦しかりしに、打続きて国を取り人を従へ給ひしより、御身を仏神に任せ奉りし事、昼夜怠らず。

「世を取治め給ひし後は、心安かるべしと思ひしに、大姫御前をば故殿取分きてもてなし労りて、后にすゑんと有りしに、世を早くせしかば同じ道にと慕ひしかども、故殿に諫められ奉りて、思ひを止めて過しゝに、小姫御前にも後れて思ひ沈みしに、子の為罪深しと諫められ奉り、それも理と思ひなぐさめてありしに、故殿に後れ奉り、月日の影を失ふ心地して、子供の嘆きをもこの人にこそ慰めしに、この度ぞ思ひの限りなると思ひ弱りしに、二人の公達未だ幼くて、世の政にも不堪(ふかん)にして、二人の公達を育みしに、

「左衛門の督の殿(=頼家)に後れて後は、世の中に恨めしからぬ物もなく、心よりしに偏に死なんとこそ思ひしに、右大臣殿(=実朝)『誰かは子ならぬ。実朝がただ一人になりたるを捨てゝ、死なんと仰せ候こそ口惜しう候へ』と恨みしかば、『げにも死したる子を思ひて生きたる子に別れん事、親子の慈悲にもはづれたり』と、思ひ返して過ぎし程に、右大臣殿夢の様にて失せ給ひしかば、今は誰に引かれて、命も惜しかるべきなれば、水の底にも入りなばやと思ひ定めたりしを、

「義時がこれを見て、『故殿の御名残とては、御方をこそ仰ぎ参らせ候へ。義時が人に所置かれ候も、全く高名にあらず。然しながら御事(=そなた)故にてこそ候へ。誠に思し召しきられ候はゞ、義時先づ自害仕り候て見せ奉り候べし。方々の御菩提と申し、鎌倉の有様と申し、空しくなり給はん御事こそ、心うく覚え候へ』と、泣く泣く申しゝかば、

「げにも故殿の御末絶えん事も悲しくて、思ひにしなぬ身となりて、せめての所縁(ゆかり)を尋ねて、将軍を据ゑ奉りて、この二三年は過ぎ候き。縦ひ我身なくとも鎌倉の安からん事をこそ、草の蔭にても見んと思ひつるに、忽ち牛馬の牧とならんずらんこそ口惜しけれ。三代将軍の御墓の跡形なく失せん事こそ哀れなれ。

「人々見給はずや。昔東国の殿原は、平家の宮仕へせしには徒歩(かち)跣にて上り下りしぞかし。故殿鎌倉を建てさせ給ひて、京都の宮仕へも止みぬ。恩賞打ち続き楽しみ栄えてあるぞかし。故殿の御恩をば、いつの世にか報じ尽し奉るべき。身の為恩の為、三代将軍の御墓をば、いかでか京家の馬の蹄にかくべき。ただ今各々申し切るべし。宣旨に従はんと思はれば、先づ尼を殺して鎌倉中を焼き払ひて後、京へ参り給へ」

と泣き泣き宣ひければ、大名ども伏目になりて居たる所に、赤地の錦の袋に入たる金作(こがねづくり)の太刀二振、手づから取出だして、「これこそ故殿の身を離し給はぬ御佩刀(はかせ)とて、形見に持ちたれども、これが鎌倉のあるかどでなれば」とて、足利殿に参らせらる。畏まつて給はられけり。

 宇都宮には御局と云ふ名馬に鞍置かせて、萌黄糸縅の鎧をひかせ給ふ。千葉の介には紫糸縅の鎧に長覆輪の太刀一腰、いづれも畏まつて賜はりけり。その後陸奥の六郎有時・城の入道・佐々木の四郎左衛門・武田・小笠原板東八ケ国の宗徒の大名廿三人、代る代る召されて、色々の物を賜はる。

 因幡の守広元入道御酌を取りて御酒を賜はる。各々申しけるは、「いかでか三代将軍の御恩をば思ひ忘れ奉るべき。その上源氏は七代相伝の主君なり。子々孫々までもその御誼を忘れ奉るべきにあらず。やがて明日打立ちて命を君に参らせて、首を西に向けてかゝれ候はんずる」と申して、各々落涙して一同に立ちにけり。


関東合戦評定の事 09



 その後入相(=夕方)程に、義時の宿所に会合して、宣旨の御返事・合戦の次第評定あり。駿河の守義村申しけるは、「足柄・箱根を打ちふさぎ支へむとぞ申しける。権大夫殿、この議悪しかりなむ。然らば日本国三分の二は京方になりなんず。ただ明日軈(やが)て馳上り、敵の逢はん処を限りにて、勝負を決すべし」とありければ、この御計らひ左右に及ばずとて、一味同心に打立ちけり。

 一陣は相模の守時房、二陣は武蔵の守泰時、三陣は足利の武蔵の前司義氏、四陣は駿河の守義村、五陣は千葉の介胤綱、これは海道(=東海道)の大将たるべし。山道には、一陣小笠原の次郎長清、二陣武田の五郎信光、三陣遠山の左衛門長村、四番生野右馬の入道。北陸道には、式部の大夫朝時を大将にて上るべしと定めらる。

 各々申しけるは、「明日は余りに取敢へず候。今一日延べられて、田舎若党・馬・物具を召寄せて、上り候はゞや」と申されければ、義時大きに怒りて、「謂れなし。いま一日も延ぶるならば、三浦の平九郎判官を先として打手向ひなんず。国々を打取られんこと悪しかりなん。明日は悪日なれば、由比浜に藤沢の左衛門清親が許に門出して、明後日廿一日に発行すべし」と仰せける。

 去る程に、明る日の卯の刻に既に発行す。海道の大将軍には時房・泰時・義氏・義村・胤綱。従ふ兵士には、陸奥の六郎・庄の判官代・里見の判官代義直・城の介入道・森の蔵人の入道・狩野の介入道・宇都宮の四郎頼仲・大和の入道信房・子息太郎左衛門・同じく次郎左衛門・弟の三郎兵衛・孫やくその冠者・駿河の次郎泰村(=三浦)・同じく三郎光村・佐原の次郎兵衛・甥又太郎・天野の三郎左衛門政景・小山の新左衛門朝直・長沼の五郎宗政・土肥の兵衛の丞・結城の七郎左衛門朝光・後藤の左衛門朝綱・佐々木の四郎信綱・長井の兵太郎秀胤・筑後の六郎左衛門友重・小笠原の五郎兵衛・相馬の次郎・豊島の平太郎・国府の次郎・大須賀の兵衛・藤の兵衛の尉武の次郎・同じく平次・澄定の太郎・同じく次郎・佐野の太郎三郎・同じく小太郎・同じく四郎・同じく太郎入道・同じく五郎入道・同じく七郎入道・園の左衛門の入道・若狭の兵衛の入道・小野寺の太郎・同じく中書・下川辺の四郎・久家の兵衛の尉・讃岐の兵衛の太郎・同じく五郎入道・同じく六郎・同じく七郎・同じく八郎・同じく九郎・同じく十郎・江戸の七郎太郎・同じく八郎太郎・北見の次郎・品川の太郎・志村の弥三郎・寺島の太郎・下の次郎・門井の次郎・渡の左近・足立の太郎・同じく三郎・石田の太郎・同じく六郎・安保の刑部・塩屋の民部・加地の小次郎・同じく丹内・同じく源五郎・荒木の兵衛・目黒の太郎・木村の七郎・同じく五郎・笹目の三郎・美加尻の小次郎・厩の次郎・萱原の三郎・熊谷の小次郎兵衛の直家・弟の平左衛門直国・春日の刑部・強瀬(しせ)の左近・田の五郎兵衛・引田の小次郎・田の三郎・武の次郎泰宗・同じく三郎重義・伊賀の左近の太郎・本間の太郎兵衛・同じく次郎・同じく三郎・笹目の太郎・岡部の郷左衛門・善右衛門の太郎・山田の兵衛の入道・同じく六郎・飯田の右近の丞・宮城野の四郎・子息小次郎・松田・河村・曾我・中村・早川の人々・波多野の五郎信政・金子の十郎・敕使河原の小四郎・新関の兵衛・同じく弥五郎・伊東の左衛門・同じく六郎・宇佐見の五郎兵衛・吉川の弥太郎・天津屋の小次郎・高橋の大九郎・龍瀬の左馬の丞・指間の太郎・渋河の中務・安東の兵衛忠光を先として、その勢十万余騎を差し上す。東山道の大将軍には武田の五郎父子八人・小笠原の次郎父子七人・遠山の左衛門の尉・諏訪の小太郎・伊具右馬の允入道、軍の検見にさしそへられたり。その後五万余騎、北陸道の大将軍には武部大夫朝時、四万余騎相具す。三つの道より十九万余騎ぞ上せられける。


義時宣旨御返事の事 10


 同じく廿七日仙洞の宣旨の御請文に、詞を以て義時申されけるは、「将軍の御後見として罷り過ぎ候に、王位を軽くし奉る事無し。自ら勅命を承る事、是非皆道理のおす処、衆中の評定なり。然るを尊長・胤義らが讒言に付かせましまして、卒爾に宣旨を下され、既に誤り無きに朝敵に罷りなり候条、尤も不便の至りなり。

「但し合戦を御好み武勇を御嗜み候間、海道の大将に舎弟時房・嫡子泰時、副将軍に義氏・義村・胤綱等を始めとして、十九万八百余騎を差し進ず。仙道より五万余騎、北陸道より次男朝時、四万余騎にて参り候。この方の兵どもに召し向はせて、合戦させて御覧ぜらる可く候。もしこの勢しらみ候はゞ、義時が三男重時に先陣打たせ、義時大将として馳せ参る可く候。その為古入道どもは、少々鎌倉に残し留め候うて、楚忽に馳せ参り候間、今は板東三分一の勢を先とし、余三分二は今日・明日こそ馳せ来たり候らめ」と奏し申すべしとて、旅粮あくまでとらせて追ひ出ださる。

 押松、夢の心地し上りけるが、同じく六月一日酉の刻ばかりに高陽院殿に走り参りて、御壺の内に打伏しけり。君も臣も、「如何に押松物をば申さぬぞ。労れたるか。義時が頸をば、何者がうつて参るぞ。鎌倉には軍するか。また両方支へたるか」と、口々に問ひ給ふ。「余りに苦しく候うて息つき候」とて、暫しあつて申しけるは、

「五月十九日平九郎判官の御使、片瀬河より先立ちて鎌倉に入り、義村に内の消息告げて候へば、承け引きたる顔にて使者をば返し上せ、件の状を義時に見せられて候ひける間、押松搦め出だされて縄を付けられ候ひき。海道・仙道・北陸道大勢上せて後、廿七日の暁追ひ出だされ候。義時かくこそ申され候しが、大勢は廿一日に鎌倉を立ち候ひしかども、遅ればせの勢を待ちて打ちて上り候。余りに大勢にて道も去りあへず。道にまた合戦して上り候間、五日おくれて鎌倉を立つて候へども、かゝる御大事にて候ひし程に、夜も走り候間、大勢より先に参りて候。今ははや近江国へ入り候ひつらん。海道は一町と馬の足の切れたる処候はず。百万騎も候らん」とて、また伏しにけり。これを聞きて皆色を失ひ魂を消す。


京都方々手分の事 11


 院は、「押松が申し条さこそあるらん。臆す可からず。縦ひまた、味方に志あらん者も、鎌倉出をば義時方とこそ名乗らめ。日月は未だ地に堕ち給はず。早く身方よりも討手をも向べし。北陸道には仁科の次郎盛遠・宮崎の左衛門尉定盛・糟屋の右衛門尉有久、都合一千余騎を下し遣はしゝかば、重ねて差下すに及ばず。海道・仙道二の道に討手を下すべし」とぞ仰せける。

 胤義・広親以下の兵ども、各々存知の旨を申すべきよし仰下されけり。中にも山田次郎重忠進み出でて申しけるは、「敵の近付かぬ先に、味方より院々・宮々を大将として、敵の会はん処まで御下し候はゞ、その内の国々は身方に参り候べし。この義悪しく候はゞ、宇治・勢多を固められて、人馬の足を労(つか)らかして、静かに都にて御合戦有つて、若し王法尽きさせ給はゞ、各々陣頭にて腹を切り名をとめ、骸を埋むべし」と、詞を放ちてぞ申しける。

 院聞こし召され、「この両条に過ぐべからず。但し今は敵近江の国に入りぬらん。討手を差向くとも、幾程の国を従へん。宇治・勢多を固めて、都にての合戦も心せはし。只々敵の合はん処まで発行すべきよし」仰下さる。胤義、「この御計ひ然るべし」とぞ申しける。重忠ばかりは領掌申さず呟きける。

 秀康合戦の総奉行にて、胤義・盛綱・重忠以下、六月三日卯の刻に都を立つて、同じき四日尾張河に着きて手々を別つ。大炊渡は仙道の手なり。この手に修理大夫惟義・その子駿河の大夫の判官維信・筑後の六郎左衛門・糟屋の四郎左衛門尉久季・西面の者少々、その勢二千余騎。宇留間の渡には美濃の目代帯刀左衛門尉・神地(かんち)の蔵人入道二千余騎。池瀬(いきがせ)には朝日の判官代頼清・関の左衛門尉政安一千余騎。板橋には土岐の次郎判官代光行・海泉(=原文かいてん)の太郎重国一千余騎。大豆戸(まめど)は大手とて、能登の守秀康・三浦の平九郎判官胤義・山城の守広綱・佐々木の下総前司頼綱・同じく弥太郎判官高重・安芸の宗内左衛門・加賀美の右衛門尉久綱・弥二郎左衛門盛時・足助の次郎重成、西面輩少々相具し一万余騎。薭島(ひえじま)には長瀬判官代・重太郎左衛門入道五百余騎。志岐の渡には、安芸の太郎入道・臼井の太郎入道・山田の左衛門尉五百余騎。墨俣には河内の判官秀澄・山田の次郎重忠・後藤の判官基清・錦織の判官代義嗣、西面少々相具してその勢三千余騎。市川崎には加藤の伊勢前司光定、伊勢国の住人相具してその勢一千余騎、都合味方の御勢、東国へさし下さるゝ分二万一千余騎に過ぎざりけり。

 東国より攻上る処の一方の勢の半分にだにも及ばず。勅命の忝き、弓矢の名惜しくて思ひ切てぞ下りける。院の御旗、赤地の錦にひしと金剛鈴を結ひ付けて、中には不動明王・四天王を表し奉りたる旗十流を、十人に賜はりけり。私の家々の紋の旗さしにそへたり。夥しくぞ見えたりける。


高重討死の事 12



 五月晦日に、東国よりの大将相模の守(=時房)・武蔵の守(=泰時)、遠江の国橋本に着きたる日、京方下総前司の郎等筑井四郎太郎高重と云ふ者、その時分東国へ下りけるが、この事を聞きて馳上るに、大勢に道は取られぬ。逃れ行くべき様なくて、先陣の勢に紛れて橋本に着きにけり。今は遁ればやと思ひて立上がり、馬の腹帯強くしめ、高師の山に打上げ歩ませ行く。その勢十九騎なり。

 相模の守これを見給ひて、「この勢の内に時房に案内を経ずして馳行くこそ怪しけれ。止めよ」と宣へば、遠江の国の住人内田四郎申しけるは、「駿河の前司(=義村)の申され候ひし『御方の大勢の中に、京方定めてあるらん。道々・宿々御用心あるべし。若気の御事、御心許なきぞ』と申され候ひつるものを」と云ひもあへず、鞭を挙げて追ひかくる。

 内田兄弟六旗、新次郎・弥太郎・新野右馬允六十騎にて追ひかくる。筑井これをば知らず打過ぎ打過ぎ行く程に、音羽河といふ河端に岡のありけるに下り居て、「今は何事か有る可き」とて、馬の足休ませて居たる所に、甲着たる者けはしげに来たる。「何様にも高重止めに来る者と覚えたり」とて、傍らに小屋のありけるに入つて物具する処に、内田おし寄せて、「この家に籠りつるは何処の住人。交名をば如何様の人にておはするぞ。大将の仰せを蒙りて、遠江の国の住人内田の四郎等参りたり」と言ひければ、筑井進み出で打ち笑ひて、「兼ねてはよも知り給はじ。佐々木の下総の前司盛綱の郎等に筑井の四郎太郎平の高重と申す者ぞ。彼の大勢を敵にして、京方に参らんとするより、かゝること案の内なり」とて、内田六郎が胸板かけず本筈はぎの隠るゝまで射たりければ、少しもたまらず落ちにけり。

 これを見て六十余騎、少しもひるまず駈け入りけり。安房の国の住人郡司の太郎と言ふ者、小屋に入りければ、高重弓を打捨てゝ組み合ひけるが、刺し違へてぞ死にける。高重が郎等七人は共に討たれにけり。残る十二騎、逃ぐるかと見る処に、さは無くて大勢の内に入り、一騎も残らず討たれにけり。十九人が首一所に懸けてけり。その後、相模の守・武蔵の守通り給ひてこれを見て、主従共に大剛の健(けなげ)なる者哉とぞ感じ給ひける。


尾張の国にして官軍合戦の事 13


 六月五日辰の刻に、尾張の一の宮の鳥居の前に、関東の両将時房・泰時以下皆控へて、手々を分けてけり。「敵既に尾張・三河等に向ひたる。大炊渡をば仙道の手に当つべし。宇留間の渡は森の入道。池瀬(いきがせ)には足利の武蔵の前司義氏・足助の冠者、板橋には狩野介入道、大豆戸は大手なり」迚(とて)、武蔵の守泰時・駿河の前司義村・伊豆・駿河両国の勢馳せ懸りて、いよいよ雲霞の勢に成にけり。

 墨俣には相模の守時房・城介入道等、遠江国の勢十島・足立・江戸・河越の輩相具して向ひたり。手々に分けらるゝ時、「軍は仙道の手を待ちて、所々の矢合せたるべし」と、武蔵の守触れ候らはれけり。大塩の太郎・浦田の弥三郎・久世の左衛門次郎、渡々に寄せたりけれども、仙道の手を相待ちて控へたる所に、大豆戸の手、敵向に在りと見て、大将の許しなきに、左右なく河を馳せ渡し、軈て打ちがへけり。

 武蔵の守これを見て大きにしかりて、「軍(いくさ)をするも様にこそよれ。さしも押へよと合図をさしたる甲斐もなく、軍を始めて渡々を騒がさん事、前後相違してんず。返々(かへすがへす)慮外なり」と宣へければ鎮まりぬ。

 爰に京方より朝夷奈三郎平の義秀と名乗つて、矢一つ武蔵の守の陣の中へ射わたしたり。取りて見れば十四束二つ伏(ぶせ)(=長い矢)なり。泰時この矢を見て大きに笑ひて、「朝夷奈は弓は射ざりけり。矢束十二束(=長さ)に少しはづみたるばかりなり。これは身方臆させんとて、計(はかりごと)にしたるなり。誰か射返すべき」と宣へば、駿河の次郎泰村仕らんとぞ申されける。泰時「然る可からず。御辺達の遠矢は事極まりたらん時なり。河村の三郎、この矢射返す可き」と仰せければ射返しけり。

 また仙道の手に関の太郎と言ふ者「敵あり」と聞いて三手が一つになりて馳せ向ふ。小笠原の次郎長清父子八人・武田の五郎信光父子七人・奈古の太郎・河内の太郎・二の宮の太郎・平井の三郎・加々美の五郎・秋山の太郎兄弟三人・浅利の太郎・南部の太郎・轟木の次郎・逸見の入道・小山の左衛門の尉・伊具の右馬の入道・布施の中務・あその四郎兄弟三人・甕(もたひ)中三・志賀の三郎・塩川の三郎・矢原の太郎・小山田の太郎・弥五三郎・古美田の太郎・千野の太郎・黒田の刑部・片桐の三郎・長瀬六郎・百沢の左衛門・海野・望月、山にて馬ども馳せころし、つが野の大寺に敵向ふと聞いて、落したれども人も無し。

 一つ河原と言ふ所に陣を取りて、三つが一手に寄り合ひて軍の評定す。明日大炊渡をば渡らんとて各々休む所に、武田の五郎申しけるは、「翌日とは宣ひつれども、目に見たる敵を如何でか、一夜までは逃す可き。人は知らず信光(=自分)は、今日この川を渡らん」とて打ち立つて、武田の小五郎に心を合せて進みけり。

 「二陣の手が進みければ、先陣・後陣如何でか控ふべき」とて馳せ行きけり。河端に馳せて見れば、敵、河端より少し引き上げて陣を取り、河岸に舟を伏せて逆茂木を引きたり。たやすく渡るべき様なし。

 河上の左近・千野弥六・常葉の六郎・赤目の四郎・内藤の入道是常等渡りけるを見て、敵の方より武者一人おこして申しけるは、「一番に渡すは誰ぞ。かう申すは、信濃の国の住人諏訪党に、大妻の太郎兼澄なり」とぞ名乗りたる。

 「板東より取敢へず上りたり。東国の住人河上の左近・千野弥六」とぞ答へける。「さては一家なれば、千野弥六をば大明神に許し奉る。左近尉をば申請くる」とて河へざと打ちつけたり。千野面もふらず喚いて駈く。「主をこそ明神に許し奉れ。馬をば申し請けん」とて切付(きつつけ)の余り羽のかくるゝまで射たり。

 千野、逆茂木の上に下り立つて、太刀を抜く所を、かち立ち武者落合ひて首を取る。常葉の六郎続いて寄りけるを、五人落合ひて首を取る。赤目・内藤は、これも馬の腹射させて、徒武者にて河を渡り、向の岸に渡りつく。敵これをば知らずして射ざりける。

 武田の五郎渡らんとしけるに、相具して渡る輩、同じく六郎・千野の五郎太郎・屋島の次郎・轟木の次郎五郎を先として百騎ばかり、河浪白く蹴立てゝ渡らんとしけり。

 敵これを見て河岸に歩ませ、矢先を揃へて雨の降る如く射すくめられて、河中に控へたり。武田の五郎信光、鞭を挙げて河の東の岸に控へて鐙踏んばり、「如何に小五郎。日比の口にも似ず、敵に後を見せて東へ返すものならば、信光ここにて汝を討たんずるぞ。ただその河中にて死ねや死ねや、返すな」とぞ喚きたる。

 小五郎信政これ聞きて、「ただ死ねや死ねや者ども」とて一鞭あつ。百騎余り同じ頭にはせ渡す。舟も逆茂木も蹴散らして、銜をならべて向ひの岸へさと駆上がる。父これを見て、「小五郎討たすな」とて、一千余騎馳せ渡す。

 小笠原の次郎長清・小山の左衛門、これを見て鞭を挙げて馳せつく。これを始めとして仙道の手五百余騎、旗の頭を一にして一騎も残らず打ち渡す。駿河の大夫の判官維信・筑後の左衛門有長・糟屋の四郎左衛門久季を始めとして名を惜む輩ども、返合せ返合せ戦ひ戦ひ落ち行きける中にも、帯刀の左衛門返合せて、深入りして上野の太郎に討たれにけり。

 美濃の蜂屋の冠者、それも深入りして伊豆の次郎に討たれにけり。犬嶽の小太郎家光と言ふ者、思切りて返し合せ戦ひけるを、信濃の国の住人岩間の七郎と組んで落つる所に、岩間が子息二人落合ひて討つてけり。

 筑後・糟屋大将にて暫しこらへけれども、大勢になびかされて力なく落行きけり。大妻の太郎は始めより命惜むとも見えざりけり。大事の手負ひて落ちもやらず、長野の四郎と小嶋の三郎と三人連れたりけるが、小笠原の六郎それよりまはし討たんとするを見て、大妻言ひけるは、「兼澄(=自分)は敵の手にはかゝらずして、山へ馳せ入りて自害せん。わ殿(=あなた)原、これより大豆戸へ落行きて、合戦の様を能登の守殿以下の人々に語り申せ」とて、山へ馳せ入りけり。

 筑後の六郎は小笠原の七郎を弓手にならべて、聞ゆる御所造り菊銘の太刀にて、小笠原が胴中を切り落さんとしけるが、討ちはづして馬の頭を打ち落す。そのひまに退きにけり。

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