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承久記   3

秀康・胤義落行く事 14



 長野の四郎・小嶋の三郎、大豆戸へ馳せゆきて、合戦の次第を申しければ、能登の守秀康を始めとして、「口惜しき事かな。さりともとこそ思ひつるに」とて、あわて騒ぎ給ふ。

 胤義これを聞きて、「只今仙道の手破れぬれば、下手の手々は、これを聞きて萎れ落ちなん。いざさせ給へ。弥太郎判官仙道の手に向ひて支へて見ん」とて、常葉の七郎案内者として五百騎ばかり歩ませけり。

 その日夜に入りければ、能登の守・下総の前司以下寄り合ひて、「平判官(=胤義)は、たのもしげに言ひて向ひつれども、夜明けなば仙道の手あとへまはり、大手前より渡すならば、駆くとも引くとも叶ふまじ。夜に紛れてここを退きて都に参りて事のよしをも申し入れて、宇治・勢多を固めて、世間を暫し見ん」と言ひければ、「尤も然るべし」とて、落行きけり。胤義も「この事、我一人猛く思ふとも、勢の次第に過ぎもて行かば叶ふまじ」とて、ここを打具し落ちて行く。


阿曾沼の渡豆戸の事 15



 同じき六日の暁、大豆戸に向ひたる板東勢の内に、武蔵の国の住人阿曾沼の小次郎近綱と言ふ者あり。河に打臨んで申しけるは、「仙道の軍は明日と合図をさしたれども、早やはじまりて候ひけり。死したる馬流れたり。仙道の手の後陣に控へん事こそ口惜しけれ」と、言ひも敢へず打ち入る。二陣に武蔵の太郎時氏(=北条)打入り給ふ。これを見て、十万八百余騎一度に打ちわたしたしけり。時氏三十余騎にて、敵の館の内へ喚いて駈け入りけり。兵ども一人も見えず、雑人どもぞ十四五人ぞ逃げ散りける。


官軍敗北の事 16


 去る程に、夜も曙に武蔵の守泰時、小太郎兵衛を使として、「只今大豆戸を渡り候ふなり。同じくは御急ぎ候ふべし」と申されければ、足利即ち「使の見る所にて渡らん」とて、足曲の冠者相共に渡しけり。
 小太郎兵衛もこの手について渡しけり。ここに渋川の六郎と言ふ者の落ちけるを、「日頃の言葉にも似ず。返せ」と言はれて、大勢の中に駈入りけるが、また二度とも見えざりけり。
 池田左近とてしたたか者あり。これも返し合せけるが、義氏の手に太郎兵衛と組みて首を取らる。墨俣の手にも、これを聞きてぞ渡しけるに、又小太郎先駈けゝり。敵支へ矢ばかり射て落ちて行く。その外渡々を固めたる官軍を、六月六日午刻以前に皆追落しけり。京方一騎も残らず、西をさしてぞ落行きける。
 野・山・林・河をも嫌はず、田の中・溝の内とも言はず打入り打入り、山も谷も関東の勢にて埋めて行く。京方の者、筵田といふ所に少々控へて相待つ輩ありけり。
 三鹿尻(みかじり)の小太郎、京方一人が首を取る。善右衛門・田比の左近・扇兵衛、各々敵一人宛つ討取る。山田の兵衛の入道は敵二人が首を取る。京方に尾張国の住人下寺の太郎が手の者落ちけるを追懸けて、紀伊の五郎兵衛入道生捕りけり。
 
 

重忠支へ戦ふ事 17



 京方に尾張の源氏山田の次郎は、味方一人も残らず落行くを見て、「あな心憂や。重忠は矢一つ射てこそ落ちんずれ」とて、杭瀬河の西の端(はた)に、九十余騎にて控へたり。
 関東方より小鹿嶋(こかしま)の橘左衛門公成、五十余騎にて馬ばやに真先かけて、河端に打臨みたるが、山田の次郎が旗を見て如何思ひけん、村雲立つてぞ控へたる。
 後の陣に歩ませたる相良の三郎・波多野の五郎義重・加地の丹内・同じく六郎中務・高枝の次郎・矢部の平次郎・伊佐の三郎行政、三十騎ばかりにて馳せ来たるを見て、公成、河に打ちひたす。
 西の端に打上げて詞をかく。「山田の次郎重忠」と名乗つて射合ひけり。山田が郎等の藤兵衛父子・山口の兵衛・荒畑の左近・小幡の右馬允、河へ駈け落されて、陸へ上がりて駈けめぐる。敵引きて西の方へ馳せ行く。
 相良三郎、額を射ぬかれて若党の肩にかゝりて歩く。路に憩みて矢を抜くに、柄(から)ばかり抜けて根は止まる。僅かに五分ばかり尻の見えたるを、石にて打ゆがめて、くはへて引きけれども抜けず。金ばしにて引けども抜けず。相良、「如何にもして早く抜け」とて喚きけり。弓の弦を曲目に結付けて、木の枝にかけて、はね木をもてはねたれば抜けたり。抜けはつれば死ににけり。
 しばらくありて息吹きいだす。「この上は国へ還すべし。但し大将の御目にかくべし」とて、舁いて帰るを聞き、相良眼を見上げて、「口惜しき事をする奴原かな。西へかくべし。死なば宇治川へ投入れよ」と言ひければ、力なくまた舁き上る。

 加地の中務・波多野の五郎・矢部の五郎射られて河原に止りけり。残りは敵を追ひける大将と見えて、兵士ども馳せ行くに眼をかけて落行くを、伊佐の三郎おし並べて組む所に、古き堀のありけるを、敵越えけるとて馬まろびけるに、伊佐が馬も続てまろびけり。山田起きなほつて、「汝は何者ぞ。我は源の重忠なり」。伊佐は「信濃の国の住人伊佐の三郎行政なり」とぞ答へける。「さては恥ある者にこそ」とて、太刀を抜きけるを見て、山田が郎等に藤の兵衛といふ者馬より下り、伊佐の三郎を斬る。三郎尻居にうちすゑられて居ながら、太刀をもて合せけり。

 伊佐が乗替(=家来)の郎等二人守り居たりけるが、主の既に討たるゝを見て、二人走りよりけるが、敵、太刀を取りなほして討たんとすれば逃げにけり。また主を討たんと寄せければ二人走り寄る。かくの如くすること三四度なり。その後、後より大勢馳せ来たりにけり。山田をば藤の新兵衛馬にかき乗せて落ちて行く。


相模の守戦の僉議方々手分の事 18



 同じき七日、相模の守・武蔵の守、野上の垂井に中一日留まりて、山道・海道二の手を一所に寄せ合せ、路次の兵士ども馳せ集めて、都合二十八万騎になりにけり。関ヶ原といふ処にて合戦の詮議所々の手分けあり。

 武蔵の守申されけるは、「今日は宇治・勢多の合戦こそ終りにてある可く候。寄々軍の僉議も手分け大事たる可く候。駿河の前司殿の御計らひに付き奉る可く候。はゞからず計り給へ」と申されければ、義村申しけるは、「大将の御命により候へば方々免し給へ。北陸道の手は未だ見えず候。勢多の大手には相模の守殿・城の介入道。供御の瀬には武田の五郎一家の人々ども甲斐・信濃の軍勢。宇治へは武蔵の守殿向はせ給ひ候かし。芋洗へは森の蔵人入道殿向はれ候べし。淀の手には義村罷り向ふ可く候」と定め申しけるに、

 相模の守の手に本間の兵衛忠家といふ者進み出でて、「駿河守殿の御計ひ左右に及ばす候へども、相模の守殿の若党、軍なせそとの御事と覚え候。武蔵の守殿を勢多へ向はせ参らせられて、宇治へ相模の守殿を向け参らせらる可くや候らん」とぞさゝへける。「いしくも申すものかな」とぞ聞えける。

 駿河の前司義村申されけるは、「御申しは然る事にて候へども、軍の有無は処にはより候はず、兵の心にはより候へ。また相模の守殿をおき参らせ候て、如何でか武蔵の守殿は勢多へは向かせ給ふべき。且つは私の新議に非ず。平家兵乱の手合せに、木曾を追討せられし時も、兄の蒲の御曹司は大手勢多へ、御弟の九郎御曹司は宇治へ向はせ給ひて候ひき。かの先規、亀鏡(ききやう)にして今まで関東めでたく候へば、義村が私の計らひに非ず」とぞ申されける。

 武蔵の守殿、「今に始めぬ事ながら、この儀に過ぐ可からず」とて、西路へ小笠原の次郎・筑後の太郎左衛門・上田の太郎を始めとして、甲斐の源氏・信濃の国の住人等をさしそへらる。

 小笠原の次郎進み出でて申しけるは、「身を惜むには候はず。関山(ひがしやま)にて馬ども多く馳せころし、また大炊渡にて手のきはの合戦仕りて、馬も人も攻め伏せて候。事にも逢はぬ人どもを置かれながら、長清(=自分)を向けられ候事、別の御計ひとも覚え候はず」と申されければ、

 武蔵の守殿宣ひけるは、「傷み申さるゝ処、尤もその謂れ候へども、心やすく思ひ奉りてこそ大事の手には向け奉れ」と宣ひければ、力及ばず、「重ねて辞し申すに及ばず」とて向はれけり。その勢一万五千余騎なり。


朝時北陸道より上洛の事 19



 去る程に、式部の丞朝時は五月晦日、越後の国府に着きて打立ちけり。北国の輩悉く相従ひ、五万余騎におよべり。京方に仁科の次郎・宮崎の左衛門・糟屋左衛門先駈けて下りけれども、おめずに、加賀の国、林がもとに休みゐて、国々の兵共を召すに、井出の左衛門・石見の前司・保原の左衛門・石黒の三郎・近藤の四郎・同じく五郎、これ等を召しけり。

 参らざりけるもの故に、日数を送る処に、宮崎といふ処をも支へず、田の脇といふ処に逆茂木を引きけれども、関東の兵士乱れくひのはづれ、海を游がせて通りにけり。

 同じき八日に越中の砺波山(となみやま)を越えくる処に、京方三千余騎を三手にわけて支へんとしけれども、大手、山のあなたに陣を取りて、夜をこめて五十嵐党を先として山を越しける上は、仁科・宮崎、一軍もせずして落ちにけり。糟屋ばかりぞ討死しける。林の次郎・石黒の三郎・近藤の四郎・同じく五郎、弓をはづして関東方へ参る。北陸道の在々所々の京方一堪(こら)へもせず、皆落ちにけり。少々相戦ふ輩、首ども道々に斬りかけて上りけり。何れ面(おもて)を向べき様ぞなき。





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