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廣瀬嗣順さんへの手紙

 私は十年ぶりに安曇野を訪れたのだが、そこで私は一つの衝撃を受けるのだ。安曇野絵本館が消えていた。安曇野の森に、廣瀬さんが夫人とともに何千個、何万個という石を積み上げて、その砦の上に夫婦で組み立てていった絵本館だった。そのあたりのことを、廣瀬さんは自らの手で刊行したスタシスの絵本「MASK」のあとがきでこう記していてる。
 
 東京で生まれ育った私が、今、安曇野という地で生活をしています。それも絵本を生活の糧にして、家族共々、この地で生きています。
 とにかく、素直に気持ちよく生きていたいという想いが絵本にあり、安曇野の地を選ばせたのです。そして今、素直な気持ちで、全くの等身大で生きていられます。そうしたなか、様々な人々との出会いがあって、安曇野の地、自然、そして絵本、その中で巡り逢った人々はみな優しい気持ちを私たちの中に残してくれました。
 無論、様々な絵本との出逢いも私たちを幸せにしてくれます。絵本の世界を「子供のためのもの」とか、女性の乙女心をくすぐる「メルヘンの世界」という概念に縛られて、奇妙な照れと戸惑いが、私の中に正直いってありました。
 そんな時、スタシスの絵本と出逢いました。その瞬間、私の体は熱くなり、頭の中が震えはじめたのでした。スタシスの描く幻想的でシュールな絵柄は、すぐに私を虜にしたのです。
 彼の描く人の眼がジーッと私を見据えます。静かで、暗く、重く、内向的なのに‥‥。眼が素直に優しく私を見つめるのです。その眼はいつかどこかで出逢った優しく無垢な眼なのです。たぶんそれは汚れを知らない赤子のものであるし、動物のそれと酷似しているのです。
 寂しく、憂うつな色調の中に妙に救われる誠実な想いがそこにありました。どの絵を観ても無表情で暗い。しかし、眼だけは優しく慈愛に満ちて語りかけてくれるのです。
 彼の絵は、私の中で絵本に対する照れや戸惑いを見事に払拭させてくれました。大人の絵本館として、絵に込められた作家の熱い想い、メッセージを一枚の絵の中に感じ取っていただこうと、その時開館の意を決したのでした。
 開館間もなく、友人から「スタシスの新作MASKのシリーズがあるのだが観てみないか」との情報が入りました。「是非!」と即答したものの、あのスタシスの原画が、それも未発表のものが、私個人に所へ送られてくるなんて思いもよらぬ驚きでした。送られてきた包みをはやる気持ちを抑えながら開くと、まぎれもなくスタシスの描いた「MASK」がそこにありました。
一枚一枚静かに観ていくと、やはりそこにあの優しい眼がありました。そして、相変らず私の体は熱くなり、身震いがするのでした。
 遠く離れたポーランドで活躍しているスタシスの原画との出逢いが、絵本館を生活の場としたおかげで、それまで思ってもみなかった出版に実現させてくれたのです。
 これからもここを訪れてくれる様々な人々とのであい、絵本作家たちの出逢いをますます大切にしてゆき、この安曇野絵本館を内外問わず各国の作家の個展の場にと、そして共鳴、共有してくれる訪問者の憩いの場にしていただけたらと思っています。そうした出逢いの中で、今回のスタシスの「MASK」のような本づくりもできる限り実現させてゆきたいと思っています。
 
 何事にも妥協しない広瀬さんの高度なセンスで刊行されたこの大型絵本は、いまでは古本市場では十万円の値がつくだろう。広瀬さんがこの地上に残した足跡の一つだ。広瀬さんはもう一年間前に亡くなっていたのだ。夫婦で作り上げてきた絵本館の建物はそっくりそのまま残っている。しかしその建物はシューズショップになっていた。私たちの世代の意志が、希望が、理想が、戦いの砦がここでも潰えていた。こうして私たちの世代は歴史の底に消えていくのだろうか。人生というものはこういうものなのか。
 廣瀬さんは「草の葉」に五回ほど寄稿してくれた。石清水のようにこぼれ落ちてくる言葉の精で紡がれた文章は一級のエッセイだ。「草の葉」はもっと存続すべきだった。もっともっと彼に寄稿してもらうべきだった。


 
 魔法の瞬間(トキ)            
 
 夕暮れ時、太陽が沈んでしまった後、残照でまだかすかに明るい時、その美しさに見とれていると、みるみるうちに光りが消え入ってしまう。光ある日中の映像が頭から静かにはがれ落ちてゆく。心地よいが妙に不安な感覚と匂いが心の中を満たす。
 絵本館での仕事を終え、外に飛び出すと、北アルプスの稜線にすでに陽が沈んだ後の得も知れぬ一瞬の美しさに出逢うことがある。呆然とそれに見とれていると、あっという間に闇に打ち消されてしまう。この闇に打ち消される直前の残照を、『魔法の瞬間』というらしい。
 安曇野での生活は、私の心から忘れ去った遠い記憶を時折々に想い起こしてくれる。ふうっとした風とか、夏の強い陽射しとか、雲とか、遭遇した一瞬の場面が引き金となって忘れていた心の片隅を堀り返してくれる。
 何故かこうした時、決って心地よい倖せな記憶でなく、心淋しい不安にかられた気持ちが湧き出してくる。アルプスの稜線に沈んでしまった残照を見る度に、得も知れぬ所在なさげな気持ちになる。多分、誰もが子供時代に経験するだろう自分の居場所がふうっとなくなるような底知れぬ不安感によく似ている。
「ただいま!」
 と云うやいなやランドセルを放り出し、数多く残っていた空地でメンコやビー玉といった遊びに夢中になって、時の経つのも忘れ、あたりが光より闇の比率が多くなってくるのにハッと気付く。「おい腹へったな」まわりの家いえに灯がともりはじめ、夕げの支度に美味しい香りが大気一面に漂い始める。「帰ろうか」「うん」「じゃあね」と云ってクモの子を散らすかのように、それぞれの家路に着く。
 あれ程、明るかった世界がにわかに闍の世界へと包まれてゆく。その路すがら自分の所在なさに心細くなって妙な不安感が心を支配しはじめる。やがて歩く足も足早になって、はやく暖かさに逢いたくなる。小津安二郎が描く昭和二干三年代の風景と折り重なって、台所に立つ母の着物と割烹着姿、そして鍋から吹き出している湯気、家に辿り着くと表現できないような安堵感で体中暖かくなってゆくのが感じられた。
 不安と侘しい心が、灯のともった家と母の姿で氷解してゆく。あの得も知れない暖かさが今は懐かしい。失った原風景が、ある時ある場所に出会うとよみがえる。心の意識のタイムスリップとなる。その瞬時、大人である自分でなく十歳前後の等身大の自分に出会うことになる。
こうした風景に出会うと子供の頃の原体験が心の隅まで棲みついていたことがわかる。日常では心に張り付いてなかなか顔を見せないでいるのだが、ひとたびある風景に出会うとはがれ落ちて予期しない映像とみせてくれる。
 こんな時こそ、子供時代、遊びを通して色々なものが感じられたことに気が付きもする。一緒に遊んだ子供たちの顔々、身なり、会話、大気の香りさえもよみがえってくる。でもやはり楽しかったことではなく自分の存在の稀薄になった不安、生と死、光と影といった相反する恐怖のイメージが「魔法の瞬間」を境に心を支配することになる。
 果たしてこうした所在なさは子供時代だけのものだろうか。静かに目を閉じて、想い起してみると、今までいつも自分の居場所を探し歩いている気がする。大袈裟な言い方かもしれないが、人生のテーマがあの子供時代に感じた見知らぬ場所を彷徨う時の、あの不安や違和感の穴埋めであるような気がしてならない。
 ここでの生活は、私の心の中で様々な映像を写し出してくれる。たぶん心のゆとりがなせる魔法であるかもしれない。経済の流れや時が目まぐるしく過ぎ去ってゆく社会の中で、ふっと立ち止まることを忘れてしまう。それが「大人になったこと」と呟いてしまうこともある。
 心が解放され、穏やかな時の流れに身をゆだねていると、生活の身近な周辺にも心を満たしてくれる事柄が一杯あることに気付く。東京で生れ育った私が今、こうして安曇野という地で、絵本を素材に生きているのもあの子供時代に感じた自分の居場所探しの延長であるかもしれない。
 そして今、私の子供たちがどんな想いで学校から、あるいは遊びから家に帰ってくるのだろうか。片道四、五キロの帰路を同じ「魔法の瞬間」を見ながら、同じような足取りで家路を急いでいるに違いない。心に一杯の不安を抱きながら……。母の姿を発見した時、「ただいま!」と云うと同時にホッとした安心感が心を満たす。そして、私とおなじように原体験をいっぱい心に張り付かせながら、自分の居場所を探し続けるだろう。

                     
  脚の感触
 
 絵本館から北西に、信濃富士と呼ばれている有明山が鎮座している。その南西に中房温泉がある。北アルプスから流れ出ずる穂高川に沿って五、六分車を走らせると、霊験豊かな山岳信仰の有明山に登る裏参道を見つけることになる。人ひとりやっと通れる程の小径であるが年々、落葉が積み重なって、次第に径の形相が変ってしまう。
 たぶん夏には、人が入り込むのだろうが、秋には、未踏の径となってしまう。絵本館周辺は針葉樹の赤マツが主なのだが、この参道周辺は、見事な太い広葉樹の森である。妻と子供たちとで手弁当を持って、秋の紅葉時に毎年入り込むのだが、林でなく森の持つ特有の威厳を感じる。
 この聖域に、突然、人間が入り込むと、猿の大群に出会う。距離はあるのだが、「バウッバウッ」と犬が吠えるように群れの主が、私たちを威嚇する。「ここは我々の棲家だ、他者は来るな。邪魔するな」とでも云っているように聞こえる。「決して侵略しません。ただ森の空気を吸わせて下さい。森の生けるものすべてを私たちに見せて下さい」と謙虚に心の中で呟く。
 確かに、この森の大地に、貝の死骸のように無数の栃の実がころがり落ちている。どれひとつ正形を残しているものがない。すべて動物たちが食べ残したものなのだ。その数は尋常ではない。キウイの原種といわれているサルナシも夥しく、食べ散らかっている。
 この参道沿いに小さな渓流が流れている。
 周辺には、有明モミジと呼ばれている十一葉からなるモミジが群生し、見事な朱の世界を繰り広げているのも、この森の特色である。余談ではあるが、この参道の奥深くに、UFOの基地があると噂聞く。
 有明山の附近で、UFOを目撃した人が多く、度々、私の友人間で、UFO目撃の話題となる。実はこの私も夏の夕暮れ時に、一度目にしたことがある。未確認飛行物体としか云いようのない、光の動きであった。基地に関しては、私自身、目にしたことがないのだが、見た人によれば、「あれはUFOの基地以外の何物でもない」ということになる。
 私はこの径を歩くことが好きだ。
 凛とした森の静寂の大気と香りを胸深く吸い込むと、人間は曽って森の住人であった、遥か太占の記憶が甦える。懐かしい気分になる。そしてもっとも好きなのは、足から伝わる土の柔らかさだ。青々と繁っていた広葉樹の葉が、この時期になると小径にずっしりと溜っている。
 何年も積み重った落葉の小径を歩いていると、足の裏側から子供時代の土の感触がよみがえってくる。知らず知らずのうちにコンクリートーアスファルトといった街道に慣らされていたことに気付く。足の裏が土の感触をちゃんと憶えていることにびっくりする。かつて東京に住んでいた子供時代の周辺には無数の空地があった。関東ローム層の土であったが、裸足同然で遊びまわってもケガひとつしなかった。その足がはっきりと土の感触を憶えているのだ。
 私たちの落葉を踏む足音と息を吐く音が響く。現代社会でなく、太古の世界に舞い戻ったような自然の息吹きだ。現代社会とは遠く掛け離れた、時間さえ止っているかのような世界なのだ。何ひとつ人工的な音がない。私たち以外に誰もいない。木の実を食べて生きている勦物たちさえ、この時、息を殺しているのではないかと思える程、静かな世界がここにはある。
 こうして森の中に身を置いていると、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚といった五感の記憶が何かを覚えているのに驚かされ、それにしても、東京での生活では、よくもまあこうした感覚が埋れていたものだと感心してしまう。文明と経済の流れが人間の感覚を去勢し、生物であることも忘れさせてしまうのかもしれない。
 最近、富に「アウト・ドア」いう言葉を耳にする。「アウト・ドア」という言葉はファション的で好きではないが。私もそうであるが、私の友人家族も暇があると自然の中に入り込んでいる。子供たちのためにという名目があるのだが、一番生き活きと自然と戯れるのは、決って私たち大人なのだ。内なる子供の目覚めというか、素直に自分が自分でいられる行為は、世俗的なものをすっかり忘れさせてくれる。
 焚火を囲み、燃えさかる炎を見つめていると、子供時代の体験とはちがう何か不思議な気分が湧き出してくる。ずっとここに居たい、帰りたくない、と心が叫ぶ。アウト・ドアの行為も、人それぞれの〈内なる子供〉、〈内なる自然〉への回帰願望であるかもしれない。
「私はかって海の住人ではなく、森の住人であったにちがいない」と感じるのもこうした時である。
 今、こうした環境の中での生活が愛しく思えるのは私自身、年老いてきた証拠なのだろうか。それとも人間の歴史の中で培った原始の記憶の呼び起しなのか分からない。
 しかし、内なる子供の外に、もっと昔、少しづつ継承してきた遺伝子の中に、太古の体験さえも組み入られていたとするならば、大いに納得させられるのだが……。

                   
  宝物
 
 東京に住んでいた頃、「どの季節が一番好き?」と訊かれたら、即座に、「秋!」と答えていた私だったが、秋が一番落ち着いて沈思で好きだった。
 安曇野での生活は、冬の季節が余りにも永いせいか、春の気配に非常に敏感になってしまった。大気が緩んでくると、無性に早く春に逢いたくなって、春を探しにでかけたくなる。ニュースでは、桜前線予報が南から徐々に北上してきていることを告げている。しかし、私たちが棲んでいる北アルプスの山麓では、その気配すらない。秋にスッカリ落葉してしまった裸樹のままだ。
 生命が絶えてしまったのじゃないかと思う程、物淋しげだ。しかし、同じ安曇野でも、ワサビ田附近には、しっかり春が訪れている。毎年決まって、妻と二人で、水の緩んだ万水川に向い、ワサビ田の対岸(黒沢明の「夢」のロケ現場であった)の小径を散策しながら春探しを始める。
 田の畔道には、名も知らぬ雑草が緑々と春が来ていることを告げている。ワサビ田を背に北アルプスを臨むと春霞で山岳がぼけてみえる。冬にはなかったことだ。北アルプスの稜線は真白でまだまだ冬以外の何ものでもない。しかし、まだ冷たい大気の中にも、ホッと春の暖かさを感じる。日に日に春めいて後一ヶ月もするとあらゆる草木が一斉に花を付けることになる。
 田にはまだ水は引かれていない。五月の初めには水も引かれ逆さアルプスが見られるだろう。春を感じながら臨む安曇野の風景が好きだ。曾って春になると蓮華が田一面に咲き誇ったにちがいない心象風景が浮かぶ。近代的な建物やクモの巣の如く張りめぐらされた電線、電柱も目に入らない。写真に切り取られた現実の風景と違って人の心の目で見る風景が変らず美しい。写真と絵画との違いのように今見ている風景は、私自身の心に焼き付いたかつての安曇野の風景にちがいない。百年、二百年前の人々と同じ風景を共有し合っている瞬間があることを感じる。
 そんな感慨に浸りながら小径を妻と歩いていると、そんな幻想を打ち破る事件が起きた。空から何と一尺もある紅鱒が私たちの目の前スレスレに降ってきたのだ。「空から魚が降って来た」。小説のタイトルにもなりそうなことが現実に起きたのだ。まだ生きている。血だらけになりながらもドクドク跳ねている。
 空を慌てて見上げると奪った獲物を落としてしまったトビがくるくると私たちの動向を窺っている。生きている魚を近くの清流に逃がしてやると、落し主のトビがすかさずその魚を又もしっかり捕えて悠然と飛び去ってしまった。春の珍事である。この近辺には、清流の水を利用して、養鱒場が多々ある。近辺の樹木には、それこそ無数のトビが虎視眈々と鱒を狙っているのだ。「おい、あまり大物を狙うなのよ」と鳥達に云ってみる。
 すべての生物が死に絶えてしまったかのように、動く物が何もなかった冬の時期が終って、春の気配を感じる頃になると、ジッーと土の上を観察しているとそれこそ多くの小さな虫たちが活動し始めている。日々にその種類が増え、「あ、生きていたんだなあ」と、ホッとさせる。五月、六月ともなると夥しい虫に辟易させられるのだが。
 この近辺には小鳥の森がある。まだ葉は付けていない。と、突然、妻が訊いてくる。
「ねえ、樹の緑には何種類位の色があるのかしらね?」
「そうね、六十四種類位の微妙な緑があるんじゃない」
「そのくらいあるかもね。ほんとうに沢山の緑。でも何故知っているの?」
「ハッパ六十四というじゃないか」
 などとくだらないことをいいながら、心は次第に弾んでくる。
 こうして三月の末に春を探し歩いていると、いろいろなことに気付いたり、遭遇したりする。日々の微かな時間に、歩くことによって本当に多くの物を目にすることができる。
 何もなかった処に、芽が出て、葉を付け、突然、花をつける。刻々と舞台が変わってゆく。小さな処に目をやれる。次々と新しい発見がある。植物や虫たちだけじゃない。静かだった森も、野鳥のさえずりで、日増しに騒しくなってゆく。野鳥の種類も増え、産卵の時期を迎えることになる。居ながらにして勦・植物の営みを観察できるのは、此処ならではだろう。
 心の中に取り入れる宝物があっちこっちに一杯ころかっている。たぶん、誰もの生活附近に、多数の宝物がちりばめられているにちがいない。それに気付さえすれば、心一杯の倖せを取り込むことができるのに、普段の生活では気付こうとしない。いや、気付けないでいる。心が閉じていると何も感じない。何も見ていないのと同じだ。
 絵本館にこられる人にも同じことがいえる。入館料を払って、折角入って来ても、何も見ようとしない人達がいる。世界にたった一枚しかない作家のメッセージが織り込まれた原画に気付かないで通り過ぎてしまう。
 立ち止まって、フッと見れば、心の中に何かが入り込む筈だ。人生の中で、小さな倖せを上手に取り込める人と、全く気付かずに通り過ぎてしまう人がいる。私は心の目を大きく見開いて、心の中にいろんなものを感じさせてあげたい。「こんなことで」と笑う人がいるかもしれない。が、結構だ。私は大きな倖せより、小さな倖せの積み重ねが、人生を生き活きさせてくれるにちがいないと思っているのだから。

  子供語録
 
「お父さん、最近、人生楽しんでいないね」と小六の息子がポツッとつぶやく。彼の眼から見て、今の私が生き生きしていないように見えるらしい。それはドキッとさせられる言葉だ。
 東京から移住してきて、七年という歳月が流れている。此地での生活がすべて新鮮で、大気、光さえも愛しく思える心持ちであった。すべてが心の中に沁み込んで、心を活性化させてくれたようだ。
 自分の意志で安曇野の地を選び、自分の好きな仕事で生計を立てようというのだから、これ以上の事はない。そして心に余裕が生まれることは、こんなにも色々な事に気付けるものだということも学んだ。しかし、あれ程、沁み入ってきた自然の営み、変容も、知らず知らずの内に、仕事優先の中で、見失いがちになってきている。あれ程あった新鮮な感覚も色褪せてきている。そんな心の推移がどこか過ごし方に出てきているのだろう。
 移り住んだ七年前のことだ。二人の息子がまだ保育園児であった頃、二人が私たちの前にチョコンと座り、「お父さん、お母さん、ありがとう」と突然、言い出した。多分二人の言葉を借りるとここでの生活は「メチヤ楽しい」のであって、ここに来て「スゲエよかった」ということになるらしい。この言葉を聞いた時、将来の不安は見事に払拭され、「この選択し間違っていなかったんだよなあ」と思ったものだった。先が見えないにしろ、好きなことを新しくゼロから出発できることは新鮮で、夢を大きく膨ませることになる。そうした生き活きした私たち夫婦の生活ぶりを小さな目で見つめていたにちがいない。
 当り前の事ではあるが、子供らの目から親が仲良く、生き活き人生を楽しんでいる姿は子供らにとって最大の関心事だと思う。そして親が思っている以上に、彼らは親の生活ぶりを観察しているのに驚かされる。
 或る日、「ねえ、お父さんとお母さんが結婚していなかったら、ボクたち生れてこなかったんでしょう?」と突飛な質問をしてきた。「お父さんが他の女性と結婚したり、お母さんが他の男性と結婚していたら、お前たちこの世に存在していなかったんだろうね」当り前のことなのに妙に納得してそう答えてしまった。「どうしてそんなことを急に訊くんだ」。「うん、生まれて来てすごくよかったと思っているから」とは上の息子。「うん、メチャ楽しいもんな」とは下の息子。「ふん、ふん、よかった」「よかった」とお互いの顔を見合わせて頷いていた。
 この会話は後になって深く考えさせられたのだ。当り前のことなのに、「生まれて来てよかった」と感謝して生きてきたかということ。そうした生き方を実践してきたかということなのだ。
 実際、彼らの生活ぶりを見ているとフルに楽しんだ活動をしている。朝六時四十分に家を出て、帰ってくるのは夕六時頃。ほぼ十二時間学校での生活、往き帰りの道草にと全霊を傾けている。彼らの顔を見ていると、かつて私もこうした子供の黄金時代を持っていたことがフッと想い起こさせる程だ。
 思わず、「うんと遊べ!」「思い切り遊べ!」といいたくなってしまう。実にいい顔をしている。子供くさいという表現がぴったりとくる。楽しかった一日の出来事を息を弾ませながら一気に語ってくる。親もこの一時を楽しみにしている。小さな倖せを感じる時でもある。親の子育てではなく、子の親育てがピタリとくる程、子供たちに教えられることが多々ある。大自然の圧倒的な静けさの中で、彼らの屈託のない笑顔がより一層、生きている実感を増幅させてくれる。
 上の息子と犬の散歩をしていた時のことだ。「お父さんの人生いいと思うよ」といわれた。お墨付きをもらった。親と子としてではなく、一人の人間としての見方を常日頃からしてもらいたいと思っていたものだから妙に心が踊り出してしまった。同性ということもあってか、子供の目に私がどう映し出されているかを時々意識することがある。それは親としてよりはむしろ生きている人間としてどう映るかなのだ。思えば、私自身の子供の頃、親の生き方に無関心ではなかったように思える。色々な質問をぶつけてみては、人間としての容量を推し測っていたように思える。生憎、父に関しては反面教師となってしまったのだが。それでもいいと思う。一番身近かな人間の生き方を通して、彼らが観察し、無意識の間に自分を形成してゆくものだから。
 彼らは知らず知らず様々な原体験を通して〈人生〉というものを修得していく。自主性も能動性も創造性もこうした体験の積み重ねの中で学んでいくことになるだろう。
 幼児期、少年期の過ごし方が大人になってから生き方の礎を形成していることは確かだ。「人間は遊んでいる時だけが、実は、完全な人間なのだ」とシラーがいっている通り、「メチャ楽しい」のであって、子供たちも大人になっても、同じ気持ちをもって生きていられたら素晴らしい人生になるだろうが、なかなかそうはいかない。しかし、子供時代の「メチャ楽しい」原体験が生きる力を養っていることも頷ける。そして、その根底には「生れてきてよかった」といえることが大事なのかもしれない。忘れていたことが子供の言葉によって再認識されるとは、その洞察力には恐れ入る。子供の言葉だから大意はないのかもしれないが、時には心にグサッと入り込んでくる。
「お父さんの人生、楽しそうだね」
 そんな生き方をしたいものだ。そして、親の知らぬ間に子供たちは子供なりの人生を歩んでいるのかもしれない。

                   
  
 
 四月の終りから六月の中頃は、新緑まばゆい季節となる。すべてが息吹いてくる。今まで存在すら忘れ去られている樹々、草々が一斉に自己主張を始める。
「私はここで生きているんだよ」とでも言いたげに美しい花を付け、咲き誇り、私たちの心に新鮮な印象を投げかける。
 緑も生まれてきたばかりの初々しさと生きる歓びに似た世界を演出してくれる。
 私にとって、一番心弾む季節となる。
 秋から冬にかけての世界を一変させる。
 特にこの季節には、妻とよく散策に出掛け草地にシートを敷いて、ピクニックとしゃれこむ。大きなアカシアの樹の下で、すぐ脇には、清流がピチピチと初夏の陽光を浴びて流れている。世俗世界とは遠く離れた感じがそこにある。木洩れ陽の葉を通して、青い空と白い雲をのぞきこむ。十九世紀末の印象派の世界がそのままタイムスリップしてきたような信じられないような美しい風景がある。シートに大の字に寝ころび、吸い込まれそうな空を見上げていると、遠い子供時代に自分がいるような錯覚に落ち入る至福の時だ。
 ボッーと空に描かれる雲の動向を眺めていると、小学校の低学年時に観たフランス映画でルネークレマン監督の「禁じられた遊び」の一シーンを思い出す。戦火に逃げまどう人間たちの暗澹たる形相と心に一杯に詰った悲しみ、怒り、苦しみと対称的に穏やかで何も起っていない平和な空にカメラがパンするシーンがある。子供心に「なぜ、空はあんなに穏やかで、何も地上で起っていないように平和なのだろう」とそんな想いが強烈に心に焼き付いてしまった。
 今年に入って、阪神大震災やオウムとどうしても暗い世紀末の形相を呈した話題ばかりが、私達の心の中にいやおうなしに黒い影を落している。季節が眩いばかりの光を新緑に注ぎ生と平和を演出している。大の字になって、草の上に寝てみる。紺碧の空と光に反射している雲が地上で様々な事件が起きていることがまるで嘘のように、不変的な美しさをたたえている。
 子供の頃はどうやら空の向こうに何があるのだろうと想像するような宇宙少年ではなかったようだ。晴れ渡った青空の恒久的で平和の象徴的なシーンに強く惹かれていったようだ。澄み切った青空のような心が欲しいと願った。そして、生きている実感を心の中に願う時、知らず知らずのうちに大地に寝ころんで空へ想いを届かせようとしている。この癖は今だに続いている。とにかく外気を感じて、自然の動向をボッーと見ていることが好きだ。そしてどこか必死でその美しさを心に定着させようとしているのが分る。
 小学校の頃はじめて人の死に触れた。
 それは、祖父の死であった。身近に居た人でなかったにもかかわらず、悲しく、泪がとめどなくあふれていた。ずっと泣いていた。
 その泪は、祖父に対する悼みではなぐ、この今、目に見える世界が突然、消滅してしまうという絶望に似た泪であったのかもしれない。葬式の帰り夜汽車の窓に、私の顔がおぼろげに映し出されている。その顔をじっと見つめながら、暗く、不明瞭にガラスに映って いる自分が次第に見えなくなっていく気がした。
 生きていることと見ることがそれ以来、同格になったように思える。生きている証と目に見える風景、事象、生物といったものを、目に焼き付ける行為が一体化してきている。
 それはまるで、映画の視覚効果に似て、日々の天候、あるいは季 節によって、光と影の加減によってと、その時の気持ちが左右されてしまう。だからこそ倖せの効果として、この季節が好きだ。新しい緑に注ぐ優しい生れてきたばかりの光、野鳥のさえずり、ピチピチと音を立てて流れる清流、大地のにおい。そういった事象が生の象徴として、体中に感じさせてくれる。光のぬくもりを感じながら自然の音を聴き、その営みを目にすることは、生きる、生きている躍動を感じ、それにまさるものはないと思わせてくれる。
 社会人となってから、こうして立ち止まって空を見上げる行為も知らぬ内になくなっていた。子供の頃、夏休みにはいつも昆虫採集をしていた。自然の中に入り込み、夢中になって蝶を追いかけ、フッと一息入れた時、そこにはどでかい空がいつも私の目に映っていた。
東京での社会人生活の中で、時に追い立てられ、知らぬ内に心が閉塞し、空を見上げることも忘れていた。今の生活は、子供の心を取り戻し、いろんな物が目に飛び込んできている。一息入れてフッと空を見上げている。とにかくよく眺めている。生を感じているシーンが多くなっている。気持ちが良い。
 こうして見ると、少年時代の体験が今の私を強く形成していることがよく分る。
 私の中で大切にしていること、大事にしていることは、多感な時期に強烈に心に焼き付いたものを、今、忠実に再生しているように思える。そしてたぶん、死の反対側に、生の象徴でもある光の世界、恒久的で平和な空への憧憬があるのだろう。
 生きている限り、あるいは、生きようとする限り、自然の事象、その最たる光の世界である空を見上げている私がいるだろう。

 さよなら 廣瀬さん 安曇野絵本館
 
 大人のための絵本を集めた「安曇野絵本館」。その絵本館が2015年に閉館し、2016年春に館長の廣瀬さんが逝かれたと昨日知り、心が波打った。
 〜〜 あなたには「人が惹かれるもの」「生涯をかけても良い」と判断したことを貫く姿を見せてもらった気がします。
 あなたは「終わることの寂しさ、別れることの寂しさ」をご自身が好きだった「映画」のストーリーのように演じきったように思えます。どうして最後までこんなにもステイリッシュなのですか、廣瀬さん。
 お互い1989年に自分の人生の旗印を掲げ、進んできましたね。「人生」は時代が作ることを受け入れつつも歩みを止めない。そんな生き方を廣瀬さんに教えてもらいました。
 いずれそちらでお会いしますが、そのとき積もる話ができるよう、わたしもこちらで歩んで行こうと思います。それまでしばらくお待ち下さい。〜〜 今夜は廣瀬さんが絵本館を作ること決めるきっかけとなった「スタシス」の画集「MASK」をゆっくりと鑑賞し、味わおうと思う。


 

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