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碌山の源流をたずねて 7 一志開平

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    日本での第一作 

 ある日碌山は良にロダンを学んだことや、これから先の彫刻への取り組み、そして日本での第一作をどうしたらよいかなどをたずねると、良はかって明治女学校の頃読んだ星野天知の「怪しの木像」の話をしてくれた。この小説の主人公文覚は遠藤盛遠と名のる武者であるが、実は盛遠は従妹の袈裟を恋し愛してしまい、また彼女は既に主人のある身であった。しかし盛遠はあきらめずに何度も主人と別れるようにせまり続け、何とか袈裟と一緒になるすべはないかと考えた末、それは袈裟の夫を刺し殺せばよいと考えるようになり、袈裟をせめあげた末、その手はずを整えて袈裟の家にしのびこみ、布団の中で寝ている夫を刺し殺すのである。

 ところが実はそれは主人ではなく袈裟自身であることに驚き狂わんばかりになるのであった。即ち袈裟は夫と盛遠のはざまにあって苦しみ遂に死を覚悟で殺されたのである。盛遠はその深い罪を悔い、発心して出家をするのである。熊野山、高野山、羽黒山などへの苦行が続き、そして京都に戻り神護寺再建のために御白河法皇に強引に奉加を要請し、そのことが原因で伊豆に流され、そこでは源頼朝に平家を滅ぼすようすすめるのである。

 頼朝は鎌倉暮府を創立後次第に盛遠を支援するようになり、幕府に重んじられて普院楽寺をあたえられている。盛遠はその寺で昔の苦しみを本に刻み込み、それが「怪しの木像」になるのである。ところが盛遠は頼朝の死後陰謀が発覚して佐渡へ流され、対馬に移されるという波乱万丈、奇怪な生涯を送った男である。その後木像は普陀楽寺の火災にも焼けずに残って成就院に移ったといわれている。

 星野天知はこの荒法師になった盛遠に共感をよせているのは袈裟への深い思慕である。彼はひきつづき「文覚上人の本領」の一文をしたためているが、この文覚の二著の根底には「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」という北村透谷のロマン的な恋愛観がそこにあったのである。碌山は良の話に感動し、この二文を借りて読み終ると、盛遠の苦悩と自分の苦悩と共通していることもあり、その「怪しの木像」を早く見たいと思い続けるのである。

 その後たまたま碌山は良とふたりで鎌倉に出かけることになり、成就院の内へ案内されて入ると本堂の一室の壇の上に高さ三十センチほどの裸の木像が大きな目で、口を一文字にむずび、腕を組んで天をみつめているのである。碌山はその本像を見るなり眼前に文覚がすわっているような感覚でその怪僧を見つめ続け、かってエジプト彫刻に見た生命力をここで感じとったのである。

 東京に戻った碌山は、制作意欲が湧き上がって帰朝第一作「文覚」にとりかかるのである。二週間ほどかけてどうにか形は出来上がったものの、それは意に反したものとなり、ついにぶち壊してしまい、その十日ほど後から「文覚」の胸像を作りはじめるのである。両腕を組んで天上をにらんでいるあの木像のポーズがいいとあちこち探していたモデルが見つかり、赤胴色の太い腕と大きな面だましいの男であって、碌山はすっかり気に入ったのである。碌山はそれから約四十日かけて九月の末まで頑張り抜いて「文覚」を仕上げている。その前に立って、眼光は輝き真一文字に結んだ口、肩と腕の力強さなどほぼ満足はしたものの完璧な出来栄えとはいえず、さりとて今更どうするわけにもいかず帰朝第一作となるのである。それから碌山は静養をかねて十月上旬穂高へ帰り、ちょうど秋の取り入れなどを手伝い、大自然のなかで心満たされた数日間を過ごしている。

 十月下旬上京した碌山は、上野の第二回文展に出品したフランスでの作「坑夫」「女の胴」が落選して「文覚」が三等賞に入選していることを知るのである。当時の日本彫刻界は古来の木彫と象牙彫の二つの系統があり、洋風の彫刻などはほとんど無視される状態であった。「坑夫」落選の理由をたずねるとその答えは未完成作品であるということであった。

 その頃日本の彫刻界は東京美術学校に彫刻科が創設された時にも、西洋彫刻の技法にのみ走って本質を忘れた感があった。したがってフランスのロダン風の新しい彫刻など審査員等に理解されないのは当然であったと思われる。それに比較して「文覚」の反響は大きいものがあり、その力強さ、迫力などは大変評判であったといわれている。碌山自身としては力はあるものの内部生命に欠けると反省しているが、いずれにしてもこの作品によってロダンの弟子である碌山の出現が、日本の近代彫刻の扉を開くことになるのである。

   デスペア

 日本へ帰ってからの碌山は、第一作「文覚」を仕上げ、いよいよ第二、第三作にとりかかるのであるが、その頃体調が必ずしもよくなく、顔や手足に吹き出ものができて、それを治すために薬湯に入ったり、丸薬を飲んだりするが、なかなかなはかどらず全身を包帯するという期間が長く続くのである。それでも中村屋での手伝いは続き、そこで良の次女とその弟がよく喧嘩をはじめ、次女はその時泣き叫び畳に顔をこすりつけて身もだえする場面を目撃するのだが、その姿を見て碌山は「よし、これだ」とひらめき「デスペア」に取りかかるのである。

 碌山は早速女のモデルを雇い、そのポーズをとらせるとロダンの「ダナイデ」によく似たすがたにみえて苦笑するのである。モデルは上半身を下に伏せたままの苦しい姿勢であるために、途中でしばらくは休み、また続けるという繰り返しですすめられるのであった。最初の作は不満であったのでぶち壊して、ほぼ等身大の「デスペア」はその後また作りなおされた。

 その年の終りの頃パリで親しかった斉藤与里が帰国すると、相次いで外国で親しかった友人が帰ってきた。明けて二月にはパリやロンドンで世話になった本田功も帰国したので、碌山は彼を新橋まで出迎え久しぶりに会話を交わすのである。次兄の本十はその本田をたずね、碌山が帰国する時に借りた旅費に礼をのべて全額を返金している。本田は碌山のアトリエにやってきて「文覚」をみながら「何だ、これはお前じゃないか」と外国で碌山から受けとった手紙の心境を思い出しながら問いかけ、また「デスペア」についても「何でこんな作品になったのか」とたずねながら会話を重ねるうちに、何か碌山の人間の悲しさや心の葛藤や苦悩を察するのであった。

 次兄の本十は弟のために経済的な援助を借しまないばかりか、碌山が何とか早く制作に打ち込むことが弟の進む本道だと考え、四月同業の帽子商工会の会長に就任した北条虎吉の胸像をつくることをすすめるのだった。碌山も有難いことだと思い一緒に北条家を訪ねるが、そこで虎吉を見た瞬間「これはいける」と思うのだった。そして虎吉をアトリエに案内しいよいよ制作をはじめると、碌山はそこで肖像とはなにかという根本的な課題につきあたるのだった。

 本十と虎吉が帰っていくと今度は戸張孤雁と中原悌二郎とがやってきて「北条虎吉像」を遠くからそして近くから回ってみながら、二人は「いいできだね」「この彫刻に教えられた」と絶賛するのであった。こうして約一ケ月で「北条虎吉像」は仕上がり、虎吉もその出来栄えに感謝の言葉を述べ、早速ブロンズにして北条家の中庭にすえられることになるのであった。

  北条虎吉像・戸張孤雁像

 高村光太郎が七月に帰国するということで碌山は新橋駅に迎えに出ると、山高幅をかぶった光太郎が降り立たち、二人はしばらく逢わなかったことなど尽きることなく話しあうのである。それから三日後和服姿の光太郎が碌山のアトリエをたずね、ふたりの会話はとめどなく続くのであるが、その時碌山は光太郎にぜひ見てほしい作品があるからといって北条家の庭へ案内し、北条虎吉像を指して「これだ」と声をかける。光太郎は「うむ、これはすばらしい」と近くから遠くからみやっていたが、耳から下のところへ手を触れるようにして「ここが実にいい。生命の影がある。これが彫刻というものだね」とほめたたえるのであった。

 この作品は明治四十二年第三回文展に出品し、その回では最高の三等賞に入選するのである。このとき文展の批評にあたった光太郎は、出品された数々の彫刻作品をさんざんにけなした後、「北条虎吉像」をとりあげ「はじめて一個の芸術作品に接したような感じがした。この作品には自然のムーブメント(動き)がある。面が研究されている。アクサン(アクセント)がある。堅実性がある。深さがある。この作品には人間が見えるのだ。したがって生がほのめいているのだ」と激賞したといわれている。

 こうしてロダンの彫刻「考える人」によって彫刻を志した碌山は、帰国後「文覚」「デスペア」「北条虎吉像」と新しい日本の近代彫刻をつぎつぎと創造するのであった。また戸張孤雁と碌山とは極めて親しい間柄であるが、その孤雁がひんぱんに碌山のアトリエを訪れていた。ある日アトリエでほおづえをつきながら「北条虎吉像」を眺め続けていた孤雁の様子を見た碌山は「これはいける。彫刻になる」と思い、すぐさま「そんな時間をとらせないからモデルになってくれないか」と頼むと、孤雁はびっくりするもののすぐうなずくのだった。

 北条虎吉像をつくるときとは相違して、親友ということもあり、性格も承知の上ですすめたので思いのほかすらすらと捗った。しかし肖像というものは元来似ていなければならないが、彫刻には命が宿っていなければ完璧とはいえないと更にまた思いを深めながら進めるのである。出来上がった「戸張孤雁像」は何かもの思いに耽った細長い顔に右手でほおづえをつき、やや下向き加減な目、軽く閉じた口など孤雁をよく表現できたと思い、孤雁もまたびっくりして彫刻の魅力、そして美しさが自分の画く油絵や挿絵とは違った迫力のあることを改めて痛感するのであった。

 六月中旬上野で開かれた第七回太平洋画会ヘ「戸張孤雁像」と「坑夫」「女の胴」を出品した。この会は不同会出身者が中心であり、そこでも彫刻部門では碌山が次代のポープとして期待されている。この展覧会での座談会は「早稲田文学」にも掲載されているが、そのなかで詩人の相馬御風は「碌山さんのあの首のない女の胴は、あれはどういうのですか」の問いに碌山は「あれはフランスにいたころ、教室で二組に分かれて、それぞれモデルを使っていたときのなんだが、ぼくらの方に来たのはなってないんだ。ところがとなりを見ると、すこぶるいい。そこでこっそり自分のほうのモデルをほっといて、となりのを盗みしてとっさにこねあげたのさ。

 ところがみつかってしまって大いに叱られましてね、抵抗したけど途中でそのままやめちゃったものです。だがぼくの眼に強い印象をあたえた腋下から腰のあたりへ落ちてくる線の美だけは、うまくできたと思っているんです。……あのくらいぼくが刹那の印象だけに忠実にやったものはないんですよ。元来ぼくは印象の中心さえできれば、あとはほっといてもかまわんという主義ですがね」と答えている。フランスでの作「女の胴」は、自ら日本へ持ち帰った作品だけに、豊かな質感と巧みな流動性とがあったからである。

「戸張孤雁像」を仕上げた碌山は「香炉」を作ることになるが、良は香炉に香をたき、その香りをかぎ、そして煙を見るのが好きであった。その良にたのまれての「香炉」だけに良の気持に答えられて碌山自身も満足するのであった。この「香炉」は、うずくまった女が重い荷物を肩に背負いその上部が香受けになっているというもので、良もこの作品を非常によろこんでいる。碌山は帰国の記念として世話になった方々にも配っている。また愛蔵からも「中村屋の喫茶室におく灰皿を作ってほしい」とたのまれ、そこで灰皿をたらいのようにして、そこで人がうずくまって洗濯をしているようにつくりあげている。

 未完成のままで終っているが、これは「香炉」とは対称的に横広でなかなかおもしろい形となり、愛蔵も大変気に入って、碌山の死後、碌山の遣族に二個、相馬家に二個、中村屋に二十五号までのナンバーが刻印されて使用されていたといわれている。

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 碌山美術館の館長であった一志開平さんは、碌山に新しい生命を吹き込もうと立ち向かってくれた。しかし連載七回目を書き上げた後に逝去されてくやしいかぎりだった。未完で終わったが、一行一行が厳しく磨かれた文体で彫り込まれていった碌山像は、碌山に新しい生命を吹き込んでいる。草の葉ライブラリーで刊行される。

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