実朝と公暁 七の章 2
実朝と公暁
七の章 2
その日、公暁が浮浪する者たちへの炊き出しを指揮しているとき、西の院から使いがきて、長顕さまがお呼びですと伝えた。長顕の居室に入り対座すると、長顕は思いもかけぬことを切り出してきた。
「本日、鎌倉から文が届いてな。ほれ、これだが」と言って、長顕はその巻紙を取り出した。「そなたを鎌倉に戻せということだ。鶴岡宮の定暁どのが最近逝去されたが、その後釜にそなたを就かせたいというのだよ。今月中にも、迎えの使者を差し向けると書いてある」
公暁は驚きで、一瞬、声を失ったが、「鎌倉で、ございますか」と鸚鵡返しに尋ねた。
「そうだ、鎌倉に戻れということだよ」
「私に鶴岡宮の別当に就けよということですか」
「そうだ、そう書かれてある。実朝さまじきじきのご書状なのだよ。実朝さまが、いかにそなたをたよりにしているかのあらわれではないのか。私もまた二年前に、園城寺再興のお力ぞえをお願いするために鎌倉にまいり、実朝さまとお会いしたが、気持ちの真っ直ぐな、どこにも曇りのないお人柄に、深く感銘を受けたものだ。このご文面も実朝さまの、お人柄が滲み出ている」
「園城寺に参りまして、はや六年余の月日が流れました。仏門に入るというのは、私の意志ではありませんでしたが、先代の長吏さまのお手をわずらわせ、そして長顕さまに導かれて、私は私なりに仏門に入ろうと決意いたしました。しかし仏とは何か、仏道とは何かが、このところさっぱりわからなくなりました。今なお深い迷いのなかにいます。こんな人間は、鎌倉に帰るべきではないと思うばかりです。私はまだ鎌倉に帰る人間にはなっておりません」
「そなたの行動を遠くから見ておったが、つくづくと敬服するばかりであった。日々の勤行に励むだけではなく、庭を掃き、院や堂や長い回廊を拭き、廊まで洗う。そればかりか寄宿している僧たちの面倒を見たり、あるいは浮浪する者たちの行方を心配する。そなたの一つ一つの行いを見て、さすが頼朝どのの血をひいた方だと、感嘆するばかりであった。そなたの人格の高さ、何か高みに立たんとするその姿勢。そなたはどのような世界に入っても、抜きんでた働きをしていくものと思うばかりだ。そなたは鎌倉に戻っても、立派な仕事をなす人物だと思っているよ」
「鶴岡の別当なる仕事もそれなりにこなせましょう。しかし私が知りたいのは、仏門とは何かということでございます。いったい仏に仕えるとは、どういうことなのでしょうか。私は今そのことに苦しんでおります。喩えて言うならば、女を抱きたいという思いは、体の底から噴き上げてまいります。それはどんな修行をしても、どんなに激しく読経をしても、追い払うことができないように、私のなかに流れている政事の血を、消そうとしても消すことができないのです。
私は頼家の子です。祖父に頼朝を持っています。父から、さらに祖父から、私のなかにどくどくと、政事の血が流れ込んできます。この血をどのようにしたら、消し去ることができるのでしょうか。私は最近、ある僧から鎌倉の歴史を学びました。この僧の学識まことに深く、しかも幕府の中枢にいた人物であり、数々の事件を熟知している人物でした。その僧から私ははじめて、鎌倉の真の歴史というものを知りました。
それまで、ただ漠然とした知識でしか捕らえていなかった鎌倉の歴史が、謀略と虐殺の歴史であったということを知りました。私の父は、湯殿で義時が繰り出した暗殺部隊に惨殺され、私の兄もまた義時の部隊に切り殺せと炎上する館に追い返され、さらに私の弟も虐殺されたことを知りました。血で血を洗うばかりの、鎌倉の真実を突きつけられた私は、私のなかに流れているのは、まぎれもなく仏道ではなく、政事の血なのだと思うばかりです。
ここで私の指を切り落とせば、そこからどくどくと政事の血が流れていくでしょう。政事の血が私のなかでうねり逆巻いています。このような私が、鎌倉に戻ってよいのでしょうか。私は鎌倉が怖いのです。今はとても鎌倉に戻っていく強さを持ってはおりません」
公暁の頬に、涙が走る。長顕が、はじめて見る公暁の涙だった。公暁がどんなに深い苦悩の底で、のたうちまわっているかを、目の当たりにしたように思えた。その痛ましく苦悩する公暁に、長顕は言った。
「実朝さまとは、親しく文の交換があるが、いつもその文面に滲み出ているのは、実朝さまの深い孤独というものなのだ。それが文面から、あるいは文字の間から滲みでているのだよ。どんな歴史にも、暗い裏側があり、それは朝廷での歴史でもそうであった。そのような謀略や陰謀や虐殺を、実朝さまは眼の前で見ておられたはずだ。その絶望の深さというものは、そなたよりも深いはずだ。そうは思わぬか」
「そうかもしれません」
「そなたは、私よりもはるかに年少であるが、そなたに教えられることが多々あった。京も深く堕落しているのだ。寺院も、堕落と腐敗のなかにある。そんななか、そなたのひたむきな姿勢は、何か暗い大地に春を告げるような、颯爽とした花の匂いがあって、いつも私は洗われるばかりになる。この寺には、沢山の人々が救いを求めてやってくる。そなたは、それらの一人一人と誠実に向き合い、自分にできることはないかと奔走する。それこそ仏の道なのだと私は打たれるのだ。そなたは鎌倉に戻っても、かならずや新しい道を切り開いていくのだろう。実朝さまの孤独は、かぎりなく深い。そなたのような人格が傍らにいたら、実朝さまはどんなに救われるだろうか」
あくまでもやさしく問いかける長顕の言葉に、公暁はさらに涙を流すのだ。
「迎えの使者たちが、当地に到着するまで、しばらく時間がある。それまでじっくりと考えるがよい。そしてそれでも、今の気持ちが変わらぬとしたら、私はその使者たちをそのまま、お帰しすることにする。実朝さまはお嘆きになるだろうが、そなたの人生だ。そなたは、そなたが選ぶ道を歩めばよいのだ」
その日、公暁は観明と呼ばれる僧を、北の堂に連れ出した。
「何でございますか。かような所で」
「そこに座って下さい」
と板間に、その僧を座らせ、彼の前に公暁も座した。そして懐に呑みこんでいた小刀を取り出すと、二人の間に置いた。観明の顔が、引きつっていった。
「何をなさるのですか」
「私はこの数日、迷いに迷いました。今でも迷いのなかにいます。しかし明日にも、鎌倉から私を迎えるための使者が、この地にやってまいります。迷いを断ち切らねばならぬ時がきました。私は今、その迷いを断ち切るために、一つの決断をしようと思ったのです。あなたを斬るか、斬らないかによって」
「何のことでしょうか」
公暁は、小刀を手にして、その鞘をさっと払った。白い刃が、血を求めて、鈍く光る。
「あなたの本当の仕事は、私の監視でしたね。私がどのような生活をしているのか、どのような人間たちと交わり、どのような企みをもって生きているのか、それらのことを子細に書き連ねて、義時の手元に送ることでした。それがこの園城寺での、あなたの仕事でありましたね」
「何を言われているのかわかりません」
「抗弁することはありません。私は以前からあなたの正体を見抜いていましたよ。あなたの本名は、天野重時であり、北条義時の家臣であり、政所から派遣された諜者であることをね」
男の唇が、色を失っていく。男の眼の奥に、恐怖が広がっていくのがわかる。
「しかし、最近一つの奇怪な事件が起きて、あなたがわからなくなりました。そのことを私に教えてくれませんか」
「どのようなことを?」
「裏山にある草思堂で、道忠という僧が額を貫かれ、その傍らにもう一人の僧が、首を落されて横たわっていました。それはあなたたちがなした仕業だったのでしょうか」
「知りません。そのようなことを存じません」
と天野は、激しく首を振った。その様子は、明らかに関知していないことを思わせた。その惨劇を見たとき、公暁はすぐに天野を思い、この天野の筋から繰り出された部隊によって、誅殺されたと思ったものだ。しかし冷静に思案してみると、どうも奇妙だった。もし天野が、公暁と道忠との密会を探知して、その子細を義時に通報したならば、義時は間違いなく六波羅に、公暁もろとも殺戮せよと指令するに違いない。それが今までの、義時のやり方だった。殺されたのは道忠と、その仲間と思われる僧だけだった。いったいこれはどういうことなのだ。思案すればするほど、それは謎だった。
公暁はもう一度尋ねた。
「あなたは何も知らないのですか」
「知りません。私には存ぜぬことです」
「よくわかった。それで一つの謎が解明された。道忠らを暗殺したのは、義時の筋ではなかったことが」
公暁の言葉づかいが一変した。公暁は年下の人物に対したときも敬語を使ってきた。将軍家の子息だということを肉体から消すために、それも修行の一つだと思っていたのである。しかしこのときから言葉づかいを変えた。二代将軍頼家の子息であることを決意したのだ。
「ではあなたに最後の仕事をしてもらおう。悩みに悩んだ公暁の決断を、義時に伝える最後の仕事だ。今回は巻紙に文をしたためる必要はない。あなたの霊魂に、次のような文を刻み込んで、義時のもとに送るのだ。公暁は鎌倉に戻る。公暁は義時の姦計に陥るような男ではない。首を洗って、待っていなければならぬのは、義時の方だと」
驚愕で顔を引きつらせた天野は、ずるずると壁際まで引き下がった。その天野の額に、公暁は激しく刃を突き立てた。頭部をぶすりと貫いた刃は、がっしと音をたてて背後の壁に突き刺さった。
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