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碌山の源流をたずねて 6  一志開平

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  帰国、そして日本での歓迎

 地中海に別れを告げてのひとり旅であった。港町は日本と趣きを異にしたヨーロッパ風の建物がぎっしりと並んでいた。船は夕方スエズ運河に入り、翌朝は紅海に出ているのであるが、将に静かな海であった。船上からはアラビアとアフリカの大陸の岸が見え、碌山は甲板で朗らかで明るい船員と話をするのが楽しみであった。紅海を抜けてアデン湾、そしてアラビア海を横切って東へ進み、いよいよ熱帯圏に入ったことで暑さも加わり、薄着になって船中で読もうともってきた「トム・ソーヤーの冒険」などを読みふけり、アメリカ以来フランス、そしてイタリア、ギリシャ、エジプト彫刻のことなどとめどなく思い出すのであった。

 高村光太郎とふたりで見た大英博物館のエジプト彫刻、パリの美術館で見た日本の飛鳥、奈良時代の彫刻、そしてイタリアの美術館で見たエジプト彫刻、カイロの美術館で見た「村長の像」をはじめ巨大な彫刻像、それらはすべていきいきと心を打つものばかりで、原始的で素朴な古代彫刻はエネルギッシュな生命をたたえていたのであった。そして碌山はギリシャ、エジプトのたんなる対比ということではなく、ギリシャ彫刻は極めて優美であり、生の喜びをうたいあげてはいるが、エジプト彫刻には生の喜びと同時に死の厳粛さを表現していることを強く思うのであった。したがってエジプト彫刻は自然界のあらゆるものの真の姿をとらえ、しかもそれが率直に表現されていることに感銘を深めるのである。

 そのことから古代エジプト人は素朴で深い自然の精神を後世に伝えようと、その作品の数々が日本の古代美術によく似ていることから、エジプト彫刻はエジプトからペルシャ(イラン)へわたり、それが中国大陸を経て日本にきたのではないかと思いめぐらし、日本の古代彫刻が今なお生命を持ち続けているのはそのためであると犇々(ひしひし)思うのであった。
 いよいよ祖国の山々が見えはじめると、碌山はじっと船上から眺め続け、そして明治四十一年三月十一日、一か月あまりに及ぶ船旅から夢にまでえがいた神戸港に上陸して日本の土を踏むのであった。

 ヨーロッパからの大きな課題である京都、奈良の彫刻に触れることも先送りにして先ず東京に向かうと、そこでは次兄(本十)そして親しい方々の心のこもった出迎えを受け、世話になった人たちに帰国の挨拶をすませて早速郷里の穂高に向かうのである。既に開通していた汽車で松本から明科駅に下車すると、郷里の山、白雪の常念や有明山がみごとに顔を出していた。三兄(穂一)や井口先生が出迎えにかけつけていてひさしぶりに再会するのである。碌山は懐かしさのあまり声も出ないほど感激して犀川を渡り、藁葺き屋根の矢原の生家にたどり着き、そこで待ちこがれ心配していてくれた年老いた祖母、そして心をこめて育ててくれた両親、いろいろと力になってくれた兄達に会うことができて胸がいっぱいになるのであった。碌山の帰りを祝って作ってくれたぼた餅、くるみ餅、きなこ餅がことのほかうまく、なつかしいふるさとの味を満喫するのであった。

 碌山はその後井口先生の家をたずねると、井口からすぐさま端的に「ロダンから学んだことは何か」と問われ、碌山は躊躇することなく「自然を師とせよ。そして芸術は人なり」と率直に答えた。井口は「芸術も文学と同じだ。自然にはじまり自然に帰ることだ」。そして露伴の「風流佛」鏡花の「高野聖」も人格を表現していることについて話すのであった。そして碌山はロダンの「考える人」こそ、ロダンの彫刻を形にあらわした彫刻であると自己に語りかけるように述べるのであった。ふたりの話題が研成義塾に及ぶと最高潮になり、特に内村先生の話などは井口も共鳴するように鋭い視線で碌山をみつめるのであった。

 また禁酒会は碌山の帰国歓迎会を開いて、碌山の外国での生活ぶりを聞くためにほとんど全員が集まり、会員達は昔と変らない碌山の話ぶりをよろこんだ。なかでも「彫刻をどうみたのか」とか「彫刻のよさはどこにあるのか」といった質問に対して碌山は、上野の公園にある西郷さんの銅像を例にとって「西郷の性格や特徴などの風貌がよく現れていて、その像には内部生命が存在している」と語る碌山の話を会員たちは熱心に耳を傾けるのであった。

  京都・奈良の古美術探索

 田舎ですっかり疲れをいやした碌山は、長兄をはじめ井口喜源治や相馬愛蔵に自分がこれから上京して美術を学ぶことを相談した結果、みんなの賛成を得ることができた。また東京の兄本十も「東京でアトリエを持ってそこで制作するのがよい。アトリエを建てる位の金は心配するから四月には上京するように」とすすめてくれた。碌山は穂高に落ち着くのはまだ早いと考え、主な人達と相談した結果も東京で勉強するのがよいということから、新宿中村屋の近くの畑を買いとりそこヘアトリエを建てることにした。それができあがるまでは中村屋に居侯になろうと考え、四月の上旬に上京している。碌山は中村屋の近くにアトリエを建てることを内心嬉しく思い、また弟のように思ってくれている相馬良も同様喜んでくれたのである。

 碌山は中村屋の二階を借りることができて、そこを拠点に活動を開始しようとするのであるが、何よりもヨーロッパからの長い懸案であった京都、奈良での日本の古美術に出会う旅に出るのである。先ず京都では古い寺を中心に仏像を見てまわっているが、碌山にとってはそれらの彫刻群はどこかもの足りなく、期待に反した二日間で、急いで奈良へ向かうのである。

 奈良ではまず東大寺戒壇院での四天王の像に接したことが大きな感動であった。中央の多宝塔、釈迦如来を守護する四隅の四天、すなわち持国天(東南隅)、増長天(西南隅)、広目天(西北隅)、多聞天(東北隅)がそれである。特に右手に筆、左手に巻軸を持った広目天のすばらしさは内に動くいわゆる静中に動ありの感がヒシヒシと伝わってくるのであった。また持国天は兜をかぶり手に剣を持ち目を見開き、増長天は右手に矛を持ち左手は腰にあててまわりを降伏させる趣があった。この持国天と増長天はどちらかというと外面的で動的であるのに対して、広目天と多聞天は内面的で静的であると感じた。即ち動中静と静中動のあまのじゃくの比較が見られて、碌山はエジプト彫刻の村長像を思い出すのであった。

 法華堂(三月堂)では高さ一丈二尺にも及ぶ本尊の観音像その左右に立つ日光菩薩と月光菩薩、そして梵天、帝釈天、四天王などの諸仏にも感嘆を深めた。
 つぎの法隆寺では中門から左に五重塔、右に金堂、その正面が講堂であるが、まず金堂では薬師如来、釈迦三尊を、そして大宝蔵殿では夢違観音像の左手に壷を持ち、手首を曲げた右手、笑みを浮かべた顔と口もとなど、豊かさとなよやかさを感じとっている。中宮寺では中官寺観音(弥勤菩薩像)が高い台座に腰をかけ、左足をさげ、右足を組み、左手が軽く頬にふれて、黒い肌と、うっとりと閉じた目、そこにはそこはかとなく慈愛の涙がたたえられてかすかにほほ笑むくちびるのあたり、そして頬の豊かさ等々、改めて日本の古代仏像のすばらしさを再認識するのであった。

 その時の感激を井口宛の手紙のなかで「今日は法隆寺に遊び凄きものを拝観いたし候。吉野へは参らず侯へ共、当地も花の真盛りにて満山花の趣きに候」とある。また四十一年の夏の所論「予が見たる東西の彫刻」には「彫刻の真の美は内的な力若しくは生命に存すると断言する。此の目的を表現したものが真の自然を描いたものである。俳句などでも芭蕉の句が最も此の自然の生命を捕らえている。決して自我又は小主観などに留着して居らぬ。物そのものの生命を歌って居る。要するに芸術家が明鏡止水の態度を以て自然を活写したものであり度い。公平は立脚地に立って明晰にありのままに自然を描写して、その生命を躍動させるに至って始めて真の彫刻となり、真の芸術となる」と書いている。いわゆる碌山の自然とは人生全体であり、人生全体を表現しなければならないと飛鳥、白鳳の古仏から時代を越えて教えられたのである。

  アトリエの忘却庵

日本の美術がすでに千三百年の昔に世界美術の中に輝かしい足跡を残していることに碌山は驚きとともに血湧き肉躍る思いで東京に帰るのである。次兄の本十は新宿のアトリエを建てる場所に案内してくれて、既に敷地内には杭が打たれ、地固めの作業がはじめられていた。それは甲州街道口の角筈新町の麦畑の一角であって、碌山は兄への感謝の気持ちと、ここで彫刻の仕事がはじめられるというよろこびとで満足感いっぱいになるのであった。その晩中村屋の夕食に招かれて愛蔵夫妻とその子ども達、パン職人の店員達とあたたかい雰囲気の中でご馳走になり、始終笑みをたたえての会話が続くのであった。

アトリエは六月に完成した。アトリエといっても縦横三間に四間の仕事場風のもので、奥に六畳の居間一室、小さな台所と土間があり、碌山はここをオヴリビオンと呼び、バイロンのマンフレッドからとったいわゆるすべてを忘れ去る意味の忘却庵としたのである。アトリエで独りになるとどうしたわけか落ちつかない日々が続き、気分を紛らわすためにある晩、義太夫を聴きに出かけたのである。あの朝太夫の語りに松太郎の三味線が加わると、悲しく切ない感傷が強く胸を打ち、深くて温かい情緒がいよいよ深まりを覚え、碌山はその時この経験を芸術鑑賞の基底にあるもの、価値ある美しいものであるとしみじみ思うのであった。

 その後碌山は、親しい方々を招いて引っ越し祝いを開くのであるが、そこへ戸張孤雁が顔を出している。孤雁はニューヨーク以来の友人で、前年日暮里に移って木下尚江や徳富盧花の挿絵などを描いている。また神田三崎町に挿絵研究会も開いて活躍をはじめている。ふたりはニューヨーク時代からの積もったいろいろなできごとを語り合うのであった。またアトリエヘは中原悌二郎や若き画家中村彝も碌山を慕ってやってくるようになり、碌山の周辺は次第に賑やかさを増していた。悌二郎は洋画家であるが碌山の書いた雑誌をみて、その論説に感動を覚え、そしてまた「坑夫」の像を観て改めて碌山を師と仰ぎ彫刻家になろうと決意するのである。また彝は中村屋へひんぱんに出入りするようになり、良とも近い間柄となり、やがて良の長女敏子をモデルに何枚もの油絵を仕上げている。その頃碌山は午前中はアトリエで、そして昼頃になると中村屋へ出かけて昼食をご馳走になった後、夜遅くまで中村屋の一員のように手伝いを続けるのであった。そんななかにあっても何か満たされない気持ちでゲーテの「若きヴェルテルの悩み」やトルストイの「アンナ・カレーニナ」などをさかんに読みしたっている。

 そのころのマスコミはフランス洋行帰りの碌山、新進彫刻家としての碌山をたずねる新聞記者が多くなり、彼自身も「仏国彫刻界」と題する文章を発表し、ロダンを中心としたフランスの彫刻界について述べている。その波紋が次第に拡がり文筆活動も多忙を加えるのであった。

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 碌山美術館の館長であった一志開平さんは、碌山に新しい生命を吹き込もうと立ち向かってくれた。しかし連載七回目を書き上げた後に逝去されてくやしいかぎりだった。未完で終わったが、一行一行が厳しく磨かれた文体で彫り込まれていった碌山像は、碌山に新しい生命を吹き込んでいる。草の葉ライブラリーで刊行される。

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