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愛しき日々は──台風襲来  菅原千恵子

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台風襲来

 激しい夕立を何度かくり返しながら、夏は次第に色あせ、ある日突然もう夏が終わったと子供心にも感じさせる日は確かにあった。夏と秋の境目があるわけでは決してないか、俳句でいうところの「今朝の秋」というものである。

 風が乾いていて、木立の下や軒下に入るとひんやりとしてなんだか陽射しが恋しくさえ思える日、ふと空を見上げれば、高く澄んだ空に、数え切れないトンボが飛び交っているのだ。

 岩出山は空気のきれいな所だったためか、あるいは当時の日本なら、至る所そうであったのか、岩出山以外を知らない私の記憶では、秋といえば赤トンボである。畑と道を隔つ杭の上に、バラ線の上に、軒下に、そして高くさしあげた指に、まるで所かまわず競うように、赤トンポが止まった。トンボが目を回してくれるように指でクルクル渦をつくってやる必要など全くない。人差し指を立てていれば、待つことなく止まってくれるのだから。私たちは白いハトロン紙で作ったお菓子を入れる袋に、とれるだけトンボをいれ、袋の中が紗のような薄羽と赤い胴体をしたトッボで一杯になり、彼等が身動き一つできなくなった頃、袋の中に顔を押しつけ中をのぞき込むのだ。

 モヤモヤと袋の中でうごめく赤トンボはいつもなぜか川の匂いがした。大きくなってアユを食べたとき、どこかで嗅いだことのある懐かしい匂いだと思ったが、それか何だかなかなか思い出せずにいた。やがてその匂いこそまさしく、赤トンボがぎゅうぎゅう詰めにされた、あのハトロン紙の中の匂いだったと気づいたのである。

そしてたちまちのうちに私の記憶は幼年時代に過ごしたふるさとの赤トンボが群れる秋の日に引き戻された。

 九月も終わりになると、赤トンボの胴の色はいよいよ深く、深紅のビロードのような色あいになってくる。その頃になると私たちはトンボとりにも飽きてきて、何かもっと面白いことはないかと思いめぐらしながら、ぶらぶらと群れているのか常だった。

 しかし、この季節には私たち子供を思いっきり興奮させ、緊張させるような台風の襲来か必ず一つや二つはやって来た。風か吹けば吹いたで、わざわざ風の中へ飛び出していって、風の吹いてくる方向へ体を寄りかからせたり、わざと木の葉のように吹き飛ばされながらキャーキャー騒いだりするのだ。

 大人たちがラジオの台風情報に耳を傾け一喜一憂するのを見るのは私たち子供の緊張をいやが上にも高めてくれた。夜など、激しい雨や風か我がもの顔に荒れ狂うのを聞きながら眠りにつく時、親といえども、こんな時は私たちと同じように無力であることを実感したものだ。

 それにしても、私たちの幼い頃はどうしてああも停電が多かったのだろうか。ちょっと風が吹いたといっては突然電灯が消え、激しい雨が降ったといっては電気は消えた。家の茶の間の戸棚には、いつも白いろうそくが燭台やマッチとともに置いてあって、そんな時、毋は手探りでろうそくを取り出し、手慣れた手つきでマッチをすった。

 マッチにポッと火がつくと、母の手元を見つめている姉たちの顔がすぐ間近にあることにひとまず安心し、すぐその後でろうそくに火が移されると。拍手でもしたいくらいに心が明るくなって落ち着いたものだ。オレンジ色の小さな炎のゆらぎを受けて、普段は絶対に見られないような自分たちの影が、障子やふすまに大きく映るのを見ているうち、姉妹で影絵ごっこなどをして、電気がふたたびつくのを待つのだった。夕方の停電は、たいてい寝るまでなおらぬことが多かったように思う。

 母はいつもそんな時、「戦争中のことを思えばね」と言った。その時のことを考えればこれぐらいの停電は、何のこともないという意味だったのだろう。

 昭和二十九年の九月二十六日に岩出山を通通した台風は、風も雨もそれほど大きなものではなかったのだから、幼い私の記憶に残るはずもないのに、今でも決して忘れることのできないものとなっている。

 二十六日の台風が、裏のサクランボの木を揺すり、まだ若い栗の実をいくつか落として去って行った翌二十七日は朝からラジオのニュースで青函連絡船の洞爺丸が転覆したことを流していた。

 ラジオのニュースを聞きながら、私たち家族は朝の食卓を囲んでいた。多くの死者が出たということを除けばこの小さな田舎町では、船にも北海道にも無縁である人が殆どであったから、月日が経てばやがては忘れてしまうべき事件であったはずである。

 しかし、それからまもなく、このニュースは伝染病のように私たちの小さな町を襲っていった。
 私たちの住む町の、しかも同じ町内から、桐爺丸事故の犠牲者が出たという噂である。
「なんでも探しに行ったつう話がよ」
「てことは、奴さん、北海道に居たって訳だ」

 大人が二人寄れば。もうその話で持ちきりだった。私たちは、大人か秘めれば秘めるほど、あちこちの情報を聞きかじってきてはパズルのように組み合わせ、自分なりの納得の仕方を見つけていたように思う。そしてそれは、たいてい当たっていた。生まれて五、六年も経たぬ、人生のスターラインにいるはずの子供達でさえ、大人たちの人生のアラベスクを何とか解き明かす知恵は授かっていたのかもしれない。

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