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宝物が埋まった森中のグラウンド   帆足孝治

あいこの10


山里子ども風土記──森と清流の遊びと伝説と文化の記録   帆足孝治

宝物が埋った森中のグラウンド


 玖珠郡森町は山間の盆地に栄えた歴史のある町で、豊後と豊前、さらに筑後とを結ぶ交通の要衝でもあったから、戦後の天皇陛下ご巡行でもここに立ち寄られて、森中学校の校庭では一般参賀も行われた。さすがに天皇陛下のご巡行はこの田舎町にとっては大変なできごとで、新聞や雑誌などの報道関係者がいっぱいやってきて、二ユース・カーなどという見慣れない自動車がやってきたりした。

 私たちは学校で日の丸の小旗を大量に作って歓迎の準備を整えた。そのころ森中学校には新しい二階建ての新校舎が完成したばかりで、グラウンドも整備されていたから、町では大勢の観衆を集めるにはここが最適と考えたのであろう。私たち森小学校の生徒からすれば、当然、森小学校に来られるものと思っていたのに、森中になったのは意外な気がした。

 森中学校のグラウンド整備には思い出がある。正門の前に土木事務所があって、ここに戦後すぐ進駐軍から借用した工事用の大型作業車が一台配備されていたが、子供たちはこれを「ブルトザー」と呼んでいた。もちろん今でいう「ブルドーザー」のことだ
が、それは車体の下に大きな鉄の爪を斜めに並べた「グレーダー」と呼ばれる軍用の作業車だった。

 戦争が終わって、森町では進駐軍が来る前に軍事的なものは一切処分してしまおうということで、学校や各家庭にあった鉄砲、刀、槍、長刀などをすべてここに集めたことがある。どこから出てくるのか、錆びた軍用のオートバイ、短剣や鉄砲、鉄兜、はては機関銃まで、おびただしい数の兵器や武器が集められた。当時は青年学校でも軍事教練が行われていた筈だから、旧式の機関銃や小銃、鉄兜などは保管してあったのだろう。もちろん、一般の家庭にも復員兵が持ち帰った軍刀や短剣などが保管されていたから、これらを集めれば大層な量になった筈である。

 処分を急いでいた町ではこれらを一気に地中に埋めてしまったが、なにしろ戦争末期のどさくさにやったことなので、鍬やスコップで穴を掘って上を被せたものの、私たちが中学に入学した頃まで、どうかするとグラウンドの上の中から折れ曲がって錆びついた軍刀が出てきたりしたものである。今思えば、あのときせっかく土木に作業用の車両があったのに、どうしてあれを使用しなかったのか不思議である。

 さらに戦争末期、まだここが青年学校と呼ばれていたころ、この運動場に大量の刀や自転車、オートバイ、弁当箱、はては箪笥の金具やアルミの弁当箱まで、ありとあらゆる金物が集められたことがある。うちからも、大分の耕ちゃんが死んだときに使った式刀の刀身と鍔(つば)、箪笥の取っ手などを供出したが、これらは飛行機や軍艦や弾丸に生かされるということだったのに、それが間に合わなかったのか、あっという間に戦争は負けてしまった。

 正直に全部供出してしまったわが家などは、式刀までなくなってしまったのに、戦後になって刀や鎧を隠し持っていた家はいっぱいあったのには驚いた。あのとき集められた金物には、とても再生は無理と思われる鋳物の置物や割れた鉄瓶などもあったが、これらはすべて運動場の隅に埋められてしまった。今でもきっとどこかにそれらが埋まっている筈である。

 このばかげた供出騒ぎのおかげで、わが家の箪笥の取っ手はずいぶん後までシュロ紐がついていたし、私の弁当箱などはずっと漆塗りの飯盒とよばれる小さな重箱だった。

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移動動物園


 昭和二十五、六年ごろ、双葉山一行の大相撲地方巡業がやってきたことがある。農学校の裏庭に臨時の土俵が作られ、筵(むしろ)で囲った桟敷がこしらえられた。この地方巡業には、後に横綱に昇進した大関の鏡里や吉葉山、千代の富士、大関になった大内山、松登、巨漢の不動岩らがいたが、私たちは入場料も払わずに、仕切られた筵(むしろ)の隙間から中に潜り込んで、彼らが取り組みの間に凄い汗を流しながら四股を踏むのを真近に見て、大いに驚いたものである。

 さて、森小学校は玖珠郡随一の伝統ある名門校だったから、私たちも知らず知らずのうちにいつの間にかエリート意識を持つようになっていた。それでも旧森の子供たちは、だんだん駅周辺が賑やかになって商業の中心が旧森から駅前や春日町方面に移っていくのを少なからず恐れていたようで、いちど移動動物園というのがやってきて、北部小学校ではなく南部小学校の校庭がその臨時動物園になった時は、さすがに「負けたア」という感じがしたものである。私が育った上ノ市は、小学校こそ北部小学校に通ったものの、駅にも近かったから、どちらかといえば生活圏としては駅の方に属していた。

 その移動動物園というのは、トラやヒョウ、クマ、ハイエナなどが入った小さな鉄の檻を何台ものトラックで運んできて、一週間ほど南部小学校の校庭に下ろし、二十円の入場料を取ってこれを公開するというインチキな臨時動物園だったが、こんな田舎ではトラやヒョウなど見る機会は皆無だったから結構な人気だった。

 私たちも学校から見に連れて行かれたが、ろくに運動もできない狭い檻の中に閉じ込められているヒョウやトラがかわいそうに思え、あの映画「シャンクル・ブック」で見た毛並み鮮やかなトラのシアカーンや黒ヒョウのバゲイラとあまりに違うのでいささかがっかりした。

 特に、トラの吠え声を聞くと鹿や牛などは震え上がると聞いていたのに、肝心のベンガル虎は退屈そうな欠伸ばかりしていて、期待していたような勇ましい「グワオーツー」というような吠え声は一度も発しなかった。

 この移動動物園はその数週間後に中津でも公開されたが、その折にハイエナが檻から脱走して、しばらく捕まらなかったことがあった。当時はハイエナなどという動物を知っている人は少なかったから、新聞では「斑狼の一種」と書いていた。「まだらオオカミ」なら一般には想像しやすかったのだろう。

 移動動物園は子供たちにも人気だったが、これを見に行った森小学校の生徒達はふだん訪れることのない南部小学校が珍しく、ついでに剥げかけてはいたが青いペンキで塗られた校舎を皆んなで珍しげに見てまわった。当時の南部小学校は、講堂が傾いていたため南側からこれをささえる支柱が並んでいた。日頃、何となく駅周辺のにぎわいに劣等感を覚えていた北部小学校の子供たちは、これを見て大いに気を良くして、さっそく、

 南部の学校 ぼろ学校 
 覗いてみたら先生がァ
 アイウェオを知らんで 泣きよった

 と囃したてた。

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