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それが大地との最後の会話だった

 大地が絵里の前から姿を消した日のことを、昨日のことのように鮮明に覚えているのは、その日の出来事を繰り返し映像としてリピートするからだろう。

 絵里と大樹は毎朝五時に起床して、階下の店舗の厨房に入って、絵里子はケーキ作り、大樹はカレーのルー作りの渦中にいる。りんりんと置き時計が八時を告げるベルを鳴らすと、絵里子はすでに大樹が煮たてているその日のカレーを鍋にいれて二階に上がっていく。「大ちゃん、時間よ」と大地の部屋に声をかける。そして炊飯器から、平皿に湯気の立つご飯をよそい、運んできた鍋からたっぷりとカレーをかける。牛乳パックからなみなみと注いだカップをテーブルにのせる。眠ることがすでにエネルギーを消費する運動の一種なのか、大地が「腹へった、腹ぺこだ」と言って食堂に入ってくる。大地の一日は、父親がつくったカレーを食べることからその日が始まっていくのだ。朝食の締めくくりに牛乳を飲み干すと、やばい、時間だと叫んで、彼の部屋に駆け込んでいく。それがいつも通りの大地の朝だった。

 絵里はまた階下におりて、店のシャッターを開ける。昨夜から降り続いた雨は上がっていたが、しかし厚い雲がどんよりと空を覆っていて、また雨を降らしそうな気配だった。大地に傘をもたすかどうかの微妙な空模様だった。ランドルセルを肩にかけて、厨房の奥にある階段をばたばたと駆け下りて、絵里子のところにやっきた大地に、
「大ちゃん、傘どうしょうか、いまにも雨ふりそうよ」
 と声をかけた。
「大丈夫だよ、ぱあっとかけていくから」
「そうね、天気予報は曇りのち晴れっていってたから」
「うん、へいき、へいき」
「今日は、そろばん塾にいく日よ、忘れないでね」
「あ、そうだ、今日は、いけないよ」
「あら、どうして」
「今日は生島さんのお誕生会があってね、学校が終わったら、生島さんの家にいくことになっているんだ」
「あら、生島さんのお誕生会があるの」
 
 この生島という子供は大地のクラスの学級委員をしている子供だった。テストはいつも百点で、リレーの選手で、ピアノも弾けてと、なんだか大地には高値の花なのだが、大地がひそかに想いを寄せている少女だった。そんなことを絵里は知っていたから、「生島さんへのプレゼント、ちゃんと用意してあるの」ときいた。
「そういうのは禁止されているんだ。そういうものをやりとしてはいけないって」
「それはわかっているわよ。柴田先生は父母たちにも厳しく禁じたんだから。でもお庭に咲いているお花とか、手作りのプレゼントならかまわないって言ってたわよ。ねえ、大ちゃん、いま歯医者さんのところのバラがきれいに咲いてるでしよう。そのバラを四、五輪もらってきてあげるから、それをプレゼントしたら。それだったら許せる範囲じゃないの。一円もかからない最高のプレゼントになるわよ」
「それ、いいかもね、生島さん、バラが好きだって言ってたから」
「そうよ、女の子って、お花をもらうってことは、とてもうれしいことなのよ」
「じゃあ、そうする」
「学校から一度、家に戻ってから生島さんのところにいくんでしょう。それまでにちゃんとは用意しておくわよ」
「うん、わかった」

 そしていつものように「いってきます」といって通りに駈け出していった。絵里もその背に声をかけた。「いってらっしゃい、車に気をつけてね」
 絵里は店の前に立って、四辻を曲がるまで大地を追っていく。大地はその角を曲がるとき、振り返って絵里子にばいばいと手を振る。絵里子もまた我が子に手を振る。それが毎朝も親と子がしてきた日常の一コマだった。

 カレー屋のなかに喫茶店が、あるいは喫茶店のなかにカレー屋があるとはなんだがミスマッチのように見えるが、しかしこのミスマッチこそが、この店に多様な客を引きつけている磁力といったものだった。店は十時から開く。その時間帯にやってくるのは常連の年金生活者たちだった。絵里子が淹れるコーヒーの香りが漂う店に、六十台、七十台、八十台の高齢者たちがやってくる。「カレー屋&喫茶館」は高齢者たちのたまり場になっているのだ。ひっそりと家に閉じこもている高齢者たちを、コーヒーを飲みながら仲間と談笑にふける場に誘い出したのは、絵里の輝かしい勝利といったものだった。

 昼食タイムには、会社員や出張所の公務員や鉄道員や事務員や銀行員やドライバーや工事作業者や新聞配達人やフリターやンチタイムになると、空席待ちの列ができ、一時過ぎまでテーブルはふさがる最も忙しい時間帯だった。そんな手の抜けないランチタイムが過ぎ去ると、絵里子はチーズケーキとチョコレートケーキを小箱に入れて、五軒挟んだ地に立つ斎藤歯科医院にむかった。歯科医院といってもすでに三年前に廃業していたが、医院の建物は開業されていたときのままだった。医院といっても普通の民家で、石垣の門があり、車回しがあるほどの前庭をもっていた。いまその前庭にさまざまな種類のバラが植え込まれていて、ちょっとした小さなバラ園といった景観をつくりだしている。

 木村は七十歳になったら修理工事屋(彼は歯科業の仕事をそう評していた)から撤退して、人生の最後はバラ作りの生活をするといっていたが、その七十歳になる二年前に奥さんを癌で失い、その失意から立ち直ることができなくて、そのまま歯科業を廃業にしてしまった。そのときから彼のバラ作りがはじまっていて、いまでは毎年、春と秋に見事なバラを咲かせるまでになっていた。彼は何事も徹底的に打ち込むタイプなのか、そのバラ作りはもう素人の領域を超えていた。前庭と建物の背後にも庭があって、そこまたバラが植え込まれていて、いまでは薔薇屋敷などと呼ばれるほどだった。

 その朝、絵里が訪ねたとき、ちょうどタイミングよく、長靴を履いた木村がホースを手にしてバラに散水していた。すらりとした背に白髪が品のいい老人にみせた。七十半ばと思えぬほど若々しい。絵里子が事情を話すと、一度家の中に戻り、大小の断ち切り鋏を差し込んであるホルダーを腰に着け、脚立を手にして戻ってきた。絵里がそれを持とうとすると、「なあに、レディの手をわずらわせるほどのものではないよ」といって軽々と脚立を肩にのせた。
「そうか、あの坊主にも、恋人ができたのか」
 となんだか感に堪えないように、切り取るバラを探しながら、木村の後に従う絵里に話しかける。
「いいえ、もう片思いの典型なんですよ。相手のお嬢さん、小学校に入ったときからずうっとクラス委員で、超一流中学をめざすばかりに勉強がよくできて、ピアノが弾けてっていう子だから、もう大地には雲の上のような存在なんですよ」
「そんなことはないだろう。あの坊主だって、多摩ファイターズの正捕手じゃないか」
「正捕手だなんて。先生、いまはそういうのレギュラーっていうんですよ」
「そう、そのレギュラーだ。多摩ファイターズっていったら、少年野球の名門チームじゃないか。名門チームのレギュラーになるなんて大変なことだ」
 ひときわ目立つ真紅のバラをぱちりと切り取ると、
「多摩ファイターズのレギュラーから、クラスのスターに差し上げるんだから、バラもうれしいだろ」
 といってその枝を絵里子に手渡した。

 この商店街通りを多摩川の方に向かっていくと、多摩和泉文化センターが立っている。講習室や会議室や工芸室やトレーニングルームがあり、地下にはプールがある。そこでジャズダンスとか、英会話とか、絵画とか、パッチワークとか、彫金とか、俳句とか、フルートとかいった社会人対象のさまざまな教室が開かれている。その講習を終えた人たちが、仲間と連れだってコーヒーを飲みにやってくるものだから、コーヒータイムもまた店はなかなかにぎわう。その日もまたさまざまなグループがやってテーブル席は満席状態だった。

 ふと時計をみると五時を回っていた。大地はまだ学校から帰ってこない。彼女はそのことが気になっていたが、たぶん学校からそのまま生島の家にいってしまったのだろうと思った。しかし薔薇はどうするのだろうか。木村から切り取ってもらってきた薔薇はセロファンで包み、ピンクのリボンで結んですぐにもっていけるように二階の食堂のテーブルの上にのせてある。大地はもう六年生なのだ。こんなことでいちいち口をはさむことはないと思ったが、厨房の奥にある二階に上がった。私的な電話は仕事場ではしないというルールを作っているのだ。

 電話台の置かれた壁面に貼ってある六年二組の連絡網の目をやり、生島家の電話番号を読み上げながらプッシュボタンを押した。電話に出たのは佐織だった。
「うちの大地はいまでもおじゃましているの?」
「ごめんなさい。遅くなって、いまお誕生会のあとかたずけを手伝ってもらっていたんです。でももうすぐ終わります、すみません、遅くなって」
敬語をしっかりと使い、はきはきと答える気持ちのいい声だ。頭のよい、賢い子だということがそれだけの応答でわかる。さすがにクラス委員は違うと絵里は思う。
「いいのよ、そんなことなら大地にいっぱい手伝わせて。ちょっと大地をだしてくれる」
大ちゃん、お母さんから、と大地に呼びかけ、ややあって、お母さんにあやまっておいてねと言って受話器を渡している。
「あのさ、すごい数になってさ、クラス全員っていうか、ほとんどじゃないけど、みんな来てさ、それに一組のやつらも来るしさ、生島さんち教室みたいになってさ、あとかたづけもたいへんでさ、生島さん一人ではかわいそうだから、手伝っているけど」
 うちの息子の話し方って、なんてだらだらと無駄の多い話し方をするのだろうと思いながら聞いていたが、話の筋が見えたので、「いいわ、それはわかった、それより薔薇をどうするの、いつでも渡せるように用意してあるのよ」
「いいよ、もうそれは」
「いいよってどういうこと、もう渡さないということ」
「いや、今日じゃなくて、明日渡すから」
「そういうことね、わかったわ。じゃあ、もう少しかかるのね、帰りは、車や自転車に気をつけてね」
「うん、わかった」
 
 大地の声は弾んでいた。思いを寄せている少女の誕生会が盛り上がり、その子にたのまれて嬉々としてそのあと片付けをしている。彼のうきうきと弾んでいる気持ちがその声に現れていた。
 しかしそれが絵里と大地が交わした最後の会話だった。
 


 

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