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ジュピター  31章 ──2


あうえ1


  ジュピター   

                                 31──2 

 ユリノキの葉が鮮やかに紅色黄色に染まっている。その葉が一枚また一枚と宙に舞いながら枯れはじめた芝生のうえに落ちていく。大気はきりりと引きしまって冷たい。空もどんよりとした雲におおわれ、晩秋の気配をいっそう濃くしている。
 その日、土屋は左手をちょっとあげて、
「青年に、この薬指のことを話したことがあるよな」
 その薬指の第一関節の先の指はない。
「ええ、でも何度でもその話は聞きたいです」
「ぼくが六十歳になったときだ、山梨の山奥で三人の娘を育て、この三人の娘もそれぞれの世界に旅立っていった、妻も亡くなって一人になった、そこでぼくは最後の仕事をするために、この薬指を落として東京に出てきたのだ」
「日本党の旗を掲げるためですよね」
「大塚という駅があるね、そこから十分ほど歩いたところに、倒産した町工場があって、そこに「日本党」の小さな事務所を構えたんだ、そこに青柳という若者がやってくるのだ、この若者は青年と同じようなことを言ったよ、ぼくは二十歳で生命を絶ちます、その前に靖国神社に参拝した大臣を暗殺します、だからぼくを党員にしてくださいってね、もっと驚いたことは、この若者は薬指を落としていたんだ、ぼくはすぐに追い返したよ」
「でも、青柳さんはあきらめずに毎日やってくるんですよね」
「追い返しても追い返してもやってくる、そこでぼくは彼に宿題をだしたんだ、まず東大に入れ、そして弁護士になれ、弁護士になったら、君を党員にしてやるってね、そしたら青柳はほんとうに弁護士になってぼくの前にあらわれ、こう言ったよ、ぼくは宿題を果たしました、今度は土屋さんが約束を果たすときですよってね」
 老人は同じ話をいまはじめて話すかのようにくり返す性癖がある。村松はその話を何度も聞いていた。彼のなかに次第に育っていく意志の言葉を、二人を見張る看守の耳には届かないように、声の高さを落として小声で言った。
「日本党の本部は、港区の愛宕山にあるんですよね、愛宕山ビルの八階に青柳さんの弁護士事務所が。おれの満期は十二月なんてすよ、ここを出たら愛宕山のそのビルにいって、青柳さんに会って、それで日本党の党員にしてもらおうと思っているんですよ」
「なんだって?」
 村松はもっと顔を土屋の耳に寄せて、もう一度繰り返した。すると土屋は、ぎくりとはじかれたように顔をあげ、村松を見上げて、
「君はそんなことを本気で考えているのか」
「ええ、本気ですよ、おれはそのとき青柳さんと同じように薬指をつめていきます、日本党の党員になるってそういうことですよね」
 車椅子の肘あてにのせた土屋の左手が、かたかたと小刻みにふるえだした。その手のふるえはもう何年の前からの土屋の宿痾だが、それはいま耳にしたその衝撃がふるわせているように見えた。そのふるえがおさまっていくと、その手が傍らに立っている村松の腕をつかんで、彼を諭すように切り出した。
「たった一人ではじめた「日本党」は興隆していった、党員の数も増え、金もどこからか集まるようなっていった、しかしそれは堕落だった、民主主義は「日本党」を堕落させていったんだよ、それでぼくは七十歳になったとき民主主義を捨てた、再び銃を手にして、靖国神社に参拝した防衛大臣を狙撃した」
 そのとき村松は、それまで見えていなかったことに気づくのだ。そしてこう問いかけようとした。「そのとき土屋さんが放った弾丸は、「日本党」を堕落させていった青柳さんを銃撃するということでもあったんですか」。しかし村松はその問を発しなかった。

  冬将軍が到来した。土屋の体力も気力も急激に衰えていった。食が細くなり、一日中ベッドの中でうとうとまどろみ、時折ベッドのなかで粗相した。汚れた下半身をきれいにして新しい衣服を着せるのも村松の仕事だった。毎日定められた運動の時間、土屋には車椅子で病棟の外に出ることだったが、それも断ることが多くなった。
 しかしその日、土屋を車椅子に乗せ、ユリノキの立つ丘に向かった。空が高く、柔らかい冬の陽射しがふりそそぐ。ユリノキはもう一葉も枝につけていない。裸になったユリノキは冬の空を突き刺すように立っている。村松は若い生命を九十八歳の土屋の中にそそぎ込むように話し続けた。
「神風特攻隊ってあるじゃないですか、日本人って神風特攻隊の話が好きですよね、何度も何度も本になったり、映画とかテレビドラマとかになってて、そんな本を読んで感動したり、そんな映画とかテレビドラマをみて泣いたりするじゃないですか、これっておれはずうっとおかしいと思っていたんですよ、だって、もう日本軍はあちこちで大敗北をし、アメリカの大艦隊がいよいよ日本を迫ってきたとき、神風特攻隊がつくられるんですよね」
「そのとおりだよ」
「それで若者たちに特攻隊を志願させ、ゼロ戦に爆弾を詰め込んで、アメリカの戦艦に突っ込んでいけと命令する、君たちの崇高な生命をかけた爆撃が日本を救うのだって、これって卑劣ですよね、これってペテンの作戦で、ペテンの思想ですよね、大日本帝国の軍人たちがはじめた戦争は、敗北に次ぐ敗北で、その敗北を若者たちに爆弾を抱えさせて特攻させるなんて、そんなことで敗北と崩壊に向かって転がり落ちていく日本など救えるわけはないのに、そんな馬鹿げた特攻をさせて、何千という青年たちを殺していった、神風特攻隊って、卑劣な軍人たちが身を守るために仕組んだ卑劣な作戦だったということに、なぜいまだに日本人は気づかないんでしょうかね」
 土屋の体が震えている。車椅子から立ち上がろうとしている。
「もしあのとき、たった一人でもいい、戦争の真実の姿を見抜いた特攻隊員がいて、その特攻隊員ははっきりとその戦争の本当の敵は、海の彼方から攻め寄せてくるアメリカの艦隊でなく、大日本帝国なんだと悟った、そのたった一人の特攻隊員が、その翼を左に向け、一路東京を目指し、大日本帝国の心臓である大本営に突っ込んでいったら、日本はそこで大きく変わったんじゃないんですか」
 土屋は車椅子の肘あてを両手でつかんで立ち上がろうとする。村松はそんな土屋を抱きかかえて押しとどめた。
「ぼくは立ちたいんだ、立たせてくれ」
「また立ち上がって、ぼくに礼をするんですか」
「そうだ、青年に礼をしたい、一人一殺の暗殺の思想とは、いま君が言ったとおりだ、あの戦争で、その戦争の正体を見破った特攻隊員が、二百キロ爆弾を装填したゼロ戦で大本営に突っ込んでいったら、あの戦争はそこから終息に向かっていった、そしたら沖縄戦も、広島や長崎に原爆が投下されることはなかったんだよ」

 深夜だった。一級受刑者であり、満期釈放まであと二週間となっていた村松は独房に留置されていた。その扉が開扉された。深夜に独居房の扉があけられ、受刑者を房の外に連れ出すことなどない。しかし例外があった。土屋文明が生命を閉じたのだ。
 第一舎房から病棟房まで四百メールある。雪が舞っていた。村松は肩を震わして泣きながら歩いていた。死のベッドに土屋は穏やかな表情をして横たわっていた。生命を閉じた体を清め、新しい病衣を着せ、棺にいれて、一年に数度しか開かぬ霊安室に運びこむ。この一連の仕事をするのもまた看護夫の仕事だった。その仕事を終えたとき、夜が明けていた。朝の光がなにか新しい生命を村松の体に注ぎこむように差し込んできた。


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