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少女の夢 4  酒井倫子



母の療養

 ある日、毋から私にあてて手紙がきた。母からもらう初めての手紙であった。母ちゃんはだいぶいいので心配しないように。夏休みになるので崖の湯へかわりばんこに来るように。先ず私に母の用事を足してくるように、というものであった。私はうれしくてひとりでに口もとがほころんでどうしようもなかった。用事というのは、学校の先生にお願いして職員室から清少納言の「枕草子」と紫式部の「源氏物語」を借りて来てくれるようにというものであった。

 もう庭のねむの花が夢みるように咲いていた。私は朝早く父と弟たちに送られて家を出た。私は弟たちにたのんだ。「家兎の餌だけはやってね。家兎は赤ちゃんが生まれるんだから」と。そのころ私たちの家兎はおおきなお腹でドテドテしていたのだ。そして私は重たい二冊の本を横カバンに入れて歩き出した。前にも行ったことがある道なので、バスに乗らなくても歩いてゆくと私は力んだ。田川の橋を渡り、寿村の内田を通りぬけ、鉢伏山の中腹、下からみえる白い崖をめざして東へ東ヘ一本の道であった。子どもの私の足で二時間ぐらいのところである。お天気もよく夏草の茂る朝の道を太陽に向ってどんどん歩き、あっという間に急な坂道まで来た。山路になると道はうねうねとうねって、とうとう木立ちのトンネルの向こうに「崖の湯入口」というカンバンが見えて来た。夢中で歩いてきたので汗びっしょりだったが、無事に着いた喜びでいっぱいであった。

 S荘は一番とっつけにあって、板壁の背の高い黒々とした立派な建物であった。私が玄関前でとまどっていると小母さんがみつけてくれて「まあ、リンコさ、ひとりで来たかね。よく来たわやあ。マキちゃん、マキちゃん、リンコさが来ただよ!」と大きな声で話すのが中から聞こえた。母は思ったより元気そうでゆき袴をはいて白い手ぬぐいで姉さんかぶりをし、つい今しがたまで働いていたという姿であった。「よくきたな」と言葉少なに言ったが、母の胸いっぱいの様子が伝わった。そして「母ちゃんもう少しやりかけの仕事があるから、リンコはケイコちゃんやノブちゃんと遊んでいてくりや」と言った。「マキちゃん、リンコさが来た時ぐらい休みましよ」などと小母さんが声をかけてくれたが、母は律義に働くつもりの様子で新しい浴衣地の中に座って針仕事の続きにかかった。私はとっさに、療養とはいっても人のうちにおいてもらうのは大変なのだと悟った。

 それから私はこのうちの子ども部屋でしばらく過させてもらうこととなった。そこは南に面した二階の風通しのよい部屋で、風がレースのカーテンをゆらし、真夏だというのに山羊の毛皮であろうか一面に敷かれていて、踏むとひんやりと心地よかった。二人の姉妹は突然の侵入者にとまどった様子で、しばらくは何となく気まずい空気であった。小母さんが「さあ、仲よく遊びなよ。お菓子をお食べ」とお煎餅とビスケットの入った大きな菓子鉢を持ってきてくれた。二人は無造作に手をのばしパリパリと食べながら本を読んでいる。私は何だか居心地が悪く身のおきどころがない感じで、ビスケットもそうたびたび手を出す気にもなれずしゅんとしていた。彼女等を何となしに観察してみると、一つ年上のケイコさんはすんなりと細く、夏服からのぞいている手足が美しかった。私より二つほど年下のノブちゃんは少し色黒でくるっとした目に愛嬌のある素敵なお嬢さんであった。それにひきかえ私といったら手足は虫さされでかき傷だらけ、ひざなど黒くごそごそで気がひけた。まるで私は「灰かぶり」だと思った。シンデレラのお話ならば私もそのうちお姫様になれるんだけど‥‥と、はかない夢の中で遊んでいた。

 そのうちノブちゃんが「崖にいって遊ば!」と私の手をひいてくれた。私はうれしくて弾むように立ちあがった。三人は外の光の中へかけ出した。S荘の脇の道を山へ向って登っていった。里の方からいつもみている崖があっと眼前に聳え立つ。「わあ大きい!」と私は思わず叫んだ。ケイコさんとノブちゃんは、禿げになった崖の下をつつつっと通りぬけどんどん登ってゆく。百メートルほどの崖なのだが見上げると目がくらんだ。下から三分の一ぐらいの所に大きくつき出した緑のコブがあって、彼女らはもうそこにたどりついて「早くおいでよ!」と私に声をかけて来る。私は必死で崖の右手へまわりこみ、木の枝や根っこを頼りにノブちゃんたちの声の方へ登っていった。コブの上は意外と広く二人の少女はまるでコブの主のように立っていた。私もおそるおそる仲間になった。ひゅっと通りすぎる風がほてった頬に気持ちよかった。木立ちにつかまり崖の下に目を向けてびっくりした。何という見晴らしであろう。夏の明るい太陽をうけて北アルプスの山脈は碧く少しやさしげにみえた。そして松本平が陽炎にかすんでまるで異国の町のように白く光っていた。田川の流れもみられ、私の家はたぶんあのあたりだと思った。そして父や弟たちや家兎の赤いやさしい目を思った。先ほど家を出てきたばかりというのに、遠い世界のことのようであった。

 手足の美しいお嬢さんと思った二人は、野に出るとまるで印象が変った。くるくると身軽にうごきまわり、慣れない私にくったくのない微笑をかえしてくれた。秘密の場所をみせてくれた二人は、もう一つの秘密の場所に私を連れていくのだった。崖の左手に昔鉱石を探ったという不思議な穴ぼこと、そこに通じるトロッコの道があったのだ。入口には草や木がたれ下がってはいたが確かに木組の坑道がみえていた。「入ってみる?」二人の少女にさそわれておそるおそる入ってみた。なかなか立派な洞穴であった。「おーい!」とさけぶとすぐ声がかえってくる。意外と浅そうだと思った。中には冷たい空気がよどんでいた。いったい昔、ここでどんなドラマがあったのだろうか。

 いつも下からみると鉢伏山の中腹に光ってみえる崖、母の居るところ、家兎の草をとりながら涙でぼーっと霞んでみえた崖、それをまのあたりにみているのだと思うと不思議でもあり、また晴々とした気分でもあった。あまり言葉はかわさなかったけれど、ケイコさんとノブちゃんは昔からの友のようになった。三人はお腹がすいたことを突然思い出した。そしてまるで青い風のように坂道をかけおりてS荘へ戻るのだった。お昼は小母さんや、職員の皆さんと多勢で玉子どんぶりをいただき、私にとってはこのうえないごちそうだった。

 夕方、母と私はこの家が洋画家のK先生に貸しているという庵に泊めていただくことになった。母は時々庵の掃除などしていたのだ。今ちょうどK先生は東京のお住居へお帰りになっていたのだ。崖の湯への入り口に近い左手の小高い山すその丘陵に立っていて、崖へ登って来る人々を見下ろすようなところであった。母子でその先端に立つと落日の赤い太陽がシャワーを送り、その影ぼうしを長く長くひいた。アルプスの山々は逆光で藍色の切り絵となり、はるか下の町々はオレンジ色にうっとりと見えた。しばらくは時間が滞って、私たちはそこに立ちつくしていた。

 それから母は我に帰ったように「さあ、うちへ入ろう。今日はここがうちだと思えばいいんだよ」と私をいざなって中へ入った。外からみると小さくみえた庵も意外と広く、お座敷が二つほどと囲炉裏を切ったお台所があった。障子をあけはなつとさわやかな風が通った。家の中には私がはじめてかぐような不思議な香りがただよっていた。母が「ああ、これは白檀の薫りだよ」と言った。アラビアンナイトのアラジンのランプ。あの壺から煙とともに出て来る男はこんな薫りをただよわすのかもしれない、などと空想した。西南の角にはもう一つの部屋が襖で仕切られていたが、そこはK先生のアトリエというもので、大切なものがあるので入らないようにと母が言った。私は好奇心にかられて、そーっと襖をあけてみた。イーゼルには今描きかけの真紅の山岳の絵がかけられていた。私は夕陽の雪山を連想したがとにかく強い印象であった。廻りにも逞しいタッチの山岳の絵が沢山あった。油のにおいがプーンとして、何か私に語りかけてきそうな気配で思わず私は襖をしめた。

 床の間のあるお座敷には短冊がかけられていたが、野あざみであった。「これも先生の作品だよ。母ちゃんも先生の作品を一枚ほしいけれど、先生は御自分が気に入らない作品はみな火にくべてしまうのだよ。きびしいものだね。そうだよね、絵描きさんにとっては絵はいのちなのだからね。K先生も山岳画家としては相当な方だそうだから」と母は言った。本当にあざみも野にあるようだと思った。お部屋に絵が一枚あることで、こんなに心がなごむなんて不思議だ、ここはあざみの部屋だとひそかに名付けた。

 母と私は囲炉裏のある所でごはんの仕度にかかった。母と二人で外に出て、アカザの葉の先をちょんちょんとつまんで取ったり、ウマスイコの先端のやわらかい所を取ったりした。庵の西側の低いところに遠水が引いてあって美しい水が桶にたまってそこから小さな流れになっていた。そこでアザミやウマスイコを洗った。母はいそいそとしばらく台所で立ち働き、私も水辺まで何回でも行ったり来たりした。西の空が淡紫に暮れてきた頃、母と二人の夕餉はととのった。アカザのごまよごし、ウマスイコの天ぷら、川魚の甘露煮、白いごはんにお味噌汁。私にとってはお盆とお正月がいっぺんにきたようであった。「さあ食べなさい。リンコのためにつくったんだから」と母もうれしそうであった。けれども、私は下にいる弟たちと父のことが思われた。母は「みんなどうしているかね?」とぽつりと言った。私は父のアンコウなべのことを話し母と涙が出るほど笑った。「父ちゃんらしいね。父ちゃんもお前たちのことがかわいいんだね」と母は感慨深げに言った。私は自分ばかりこんなに仕合わせでよいものかと思いつつ食事をいただいた。ふと気づくと東側の障子がほのかに明るく、木立ちのかげがくっきりと落ちていた。今夜は月がでていたのだ。私と母は虫が入るので家の中の電灯を全部消して障子を開けて縁側に出た。山の端に突然とび出したかと思われるような大きな月が登っていた。

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『酒井倫子読本」が今秋にも「草の葉ライプラリー」から刊行されます。

もり3

おうち2

さかいno6

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