見出し画像

回転する地球の歌 W・ホイットマン

A Song of the Rolling Earth
Walt Whitman
訳 杉木喬 鍋島能弘 酒本雅之

回転する地球の歌 


1

回転する地球の歌、そしてそれにふさわしい言葉の歌、
君はあれが、あの直線が、曲りくねり、屈折し、点をそえたあんなものが言葉だなどと思っていたのか、
とんでもないこと、あんなものは言葉にあらず、内実をそなえた言葉はむしろ土中にあり、水中にあり、空中にあり、そして君のなかにあり。
 
君はあれが、友の口から洩れる甘美なひびきが、言葉だなどと思っていたのか、
とんでもないこと、まことの言葉はあんなものより遙かに甘美だ。
 
人間のからだは言葉、無数の言葉、
(もっとも優れた詩のなかには、男のあるいは女のからだがまた現われる、みごとな形をそなえ、伸びやかで、陽気で、
すべての部分に能力と活力と感性がそなわり、羞じらいはなく、羞らうにも及ばぬからだが)
 
空気、土、水、火──それらのものこそまことの言葉、
それらのものと肩を並べてこのわたしとてひとつの言葉──わたしにそなわる特性がそれらのものの特性とたがいに染み渡りあう──それらのものの目から見ればわたしの名前は無いも同然、
たとい三千の言語でわが名が語られるとも、空気や土や水や火が果たして何を悟るであろう。
 
すこやかな人の存在、親しげな、あるいは堂々たる身ぶり、それこそが言葉であり、発言であり、意味であり、
ある種の男たち女たちのごくさりげない表情に同時に浮かぶあまたの魅力も、これまたやはり発言であり意味であり。
 
魂の製作には地球が語るあのもの言わぬ言葉たちが使われる、
名匠は地球の言葉を心得ていて耳に聞こえる言葉よりもそちらのほうをふんだんに使う。
 
改良は地球が語る言葉のひとつ、
地球は足どりをゆるめもせず急がせもせず、
そもそもの始めからおのれ自身に潜在するさまざまな属性、成長、成果をそっくりそなえ、
美しい半面ばかりでなく、さまざまな極致を見せながら、欠陥や無用の長物も少しも劣らず露呈している。
 
地球は与えることをけっして控えず、気前のいいこと天下無類、
地球にそなわるすべての真理は待機をつづけて倦むことなく、さりとて隠されているわけでもなく、
平静にして微妙、活字によっては伝え得ぬ言葉、
万物のなかに染み渡りつつ、いそいそとおのれ自身を伝える言葉、
切なる想いを伝えては誘いかけつつ、わたしは言葉を吐きつづける、
口をとおして語りはせぬが、もしも君に聞こえなければ君にとってわたしがいったい何になる、
産み出すために、向上するために、これらの言葉を欠いていたらいったいわたしが何になる。
 
(孕める者よ、産み落とすがいい、
君のその胎のなかであらた自分の結実を腐らせてしまうおつもりか、
そんなところに蹲って窒息してしまうおつもりなのか)
 
地球は議諭に憂身をやつさず、
情緒に溺れず、予定もたてず、
悲鳴もあげず、慌てもせず、説得も、脅迫も、約束もせず、
細かい区別はどこ吹く風、失敗などは露ほどもない、
ドアはことごとく開け放ち、何ひとつ拒まず、何ものをも締め出さず、
すべての権力、物象、国家について、地球は広く告げ知らせ、何ひとつ締め出しはせぬ。
 
地球はおのれを示さず示すことを拒みもせず、なおもおのれの内側に、
うわべにひびくかずかずの音、英雄たちのおごそかな合唱、奴隷たちの嘆きの声、
恋人たちの口説、毒舌、死にゆく人たちの喘ぎ、若者の笑い、商売人の口調、
これらの音の内側に不滅の言葉を所有している。
血をわけた子供たちには、雄弁にしてもの言わぬ偉大な母の言葉が不滅にひびく、
まことの言葉は不滅なもの、だって物の動きは不滅であり、物の影も不滅であり、
昼も夜も不滅であり、わたしたちの航海だって不滅ではないか。
 
果てしなくつらなる無数の姉妹たちのなかで、
終わりなくコティヨンを踊りつづける姉妹たちのなかで、
輪を広げ輪をせばめつつ踊る姉妹たち、年上のもの年下のものが、混じりあう姉妹たちのなかで、
わたしたちが知っているあの美しいひともまた皆といっしょに踊りつづける。
 
豊かなその背を、見守るすべての者に向け、
若さにそなわる魅力をたたえ、それに劣らぬ老齢の魅力も見せて、
万人とともにわたしも愛するそのひとが、坐っている、平然と坐っている、
鏡らしきものを手にかざし、しかし目は鏡のなかからちらとうしろを振り返りつつ、
坐ったままで視線を送る、何ひとつ招きもせず、何ひとつ拒みもせず、
昼も夜も倦むことなく顏のまえに鏡をかざして。
 
近くで見ても遠くで見ても、
二四人の姉妹たちが毎日きまって公然と姿を現わし、
きまって幾人ものあるいはひとりの仲間とともに近づいてきては過ぎていく、
おのれ自身の目では眺めず、つれの仲間の目で眺め、
子供や女の顏をとおしあるいは男の顔にやどって、
動物たちののどかな顔あるいは生命のない物体たちから、
風景や河川からあるいはまことにみごとな空のたたずまいから、
わたしの、君の、わたしたちの顔のなかから外を眺め、借りた鏡は忠実にもとに返し、
毎日きまって公然と姿を現わす、同じ仲間をつれていることは二度となく。
 
人間を抱擁し、万物を抱擁しつつ、三六五人の姉妹たちが抗いがたい足どりで太陽のまわりをめぐる、
万物を抱擁し、慰めてやり、励ましてやりながら、最初の一組と肩を並べる三六五人の姉妹たちか、これまた劣らず確実な、抗いがたい足どりですぐあとにつづく。
 
休みなくめぐりゆきつつ、何ひとつ恐れもせずに、
陽光、嵐、寒さ、暑さに間断なく耐え、通りすぎつつ、伴いつつ、
魂の叡知と決意をつねに受け継ぎ、
周囲をめぐり頭上に広がる真空の海に入りこんではつねに波を分けつつ、
どんな障害にも船足をゆるめず、どんな錨にも船足をとめず、どんな岩にも乗り上げず、
矢のごとく、嬉しげに、満ち足りて、何ひとつ奪われず、何ひとつ失わず、
すべてのことを精密に物語る能力もあれば意志もそなえて、
聖なる船が聖なる海を進んでいく。
 
2
 
たとい君が誰であろうと、動きも影も君のためにあり、
聖なる船も君のために聖なる海を進んでいく。
 
たとい君が誰であろうと、地球が堅牢であり流動的であるのは、男であれ女であれとにかく君のためであり、
太陽と月が空にかかっているのは、男であれ女であれ君のためにほかならず、
君をおいて誰のためにも現在と過去があるのではなく、
君をおいて誰のためにも永遠のいのちがあるのでもない。
 
どんな男もどんな女もおのれ自身に対しては過去と現在を表わす言葉、永遠のいのちを表わすまことの言葉、
誰だとて他人の代わりに手に入れてはやれぬ──誰ひとり、
何ものだとて他のものに代わって成長してはやれぬ──何ひとつ。
 
歌は歌い手のためにあって、ほとんどそっくり歌い手に戻り、
授業は教師のためにあって、ほとんどそっくり教師に戻り、
殺人は殺人者のためにあって、ほとんどそっくり殺人者に戻り、
盗みは盗びとのためにあって、ほとんどそっくり盗びとに戻り、
愛は愛する人のためにあって、ほとんどそっくり愛する人に戻り、
贈り物は贈り主のためにあって、ほとんどそっくり贈り主に戻り──戻らぬことはけっしてあり得ず、
演説は演説者のために、演技は男女の演技者のためにあって、聴衆や観客のためにあるのではなく、
そして誰であれおのれ自身のものでなければ、あるいはそれが示すものでなければ、どんな偉大さも善良さも分りはしない。
 
3
 
みずから完全になる彼や彼女に対しては地球はきっと完全になってくれる、
いつまでもぎざぎざに裂けきれぎれのままでいる彼や彼女に対してだけは地球もやっぱりぎざぎざに裂けきれぎれのまま。
 
地球のそれに負けじと競わぬそんな偉大さや力強さがあるものか、
地球の理論を確証しないそんな理論はとるに足りぬ、
地球の広大さと肩を並べぬそんな政治、歌、宗教、振舞などが、
地球の活力、精密さ、公平ぶりや正直さに面と向かえぬものならば、そんなものなどとるに足りない。
 
愛を眺めるわたしの心に愛に応える戦慄よりもさらに甘美な戦慄が走る、
おのれ自身で満ちたりて、誘いもせねば拒みもしないそれは戦慄。
 
耳に聞こえる言葉など今のわたしにはほとんど無意味、
万物か没入せんとて目ざすのは声にはならぬ地球のこころを呈示する言葉、
地球のからだと地球にそなわる真理の歌を歌うひと、
活字には及びもつかぬ言葉の辞書を作るひと。
 
最上の言葉を語るよりさらに良いことがわたしには分る、
それはいつでも最上の言葉を語らずにおくこと。
 
最上の言葉を語ろうとしても、できないことを思い知るだけ、
舌が付け根のところでまわらなくなり、
器官に呼吸が従ってくれず、
わたしはやむなく唖になる。
 
地球にそなわる最上の言葉は何としても口にはできぬ、すべてのものが、あるいはどんなものでも最上の言葉、
こちらの予想とは似ても似つかず、もっと安あがりで、もっと気楽で、もっと身近で、
かつて占めていた場所から追いたてられるものはなく、
地球はかつてのように相も変わらず明確で率直、
事実も、宗教も、改善も、政治も、商売も、相も変わらず真実だが、
しかし魂もまた真実であり、これまた明確で率直であり、
理屈や証明で出来上がったものではなく、
否定しがたい成長かしっかりと土台を据えたもの。
 
4
 
これらのものは魂の語調と魂の言葉を反響させるため、
(もしもこれが魂の言葉を反響させていなければそれならこれはいったい何だ、
もしもこれがとくに君に語りかけるものを持っていなければ、それならこれはいったい何だ)
 
今後わたしは最上の言葉を語るような信念には一切かかわらず、
最上の言葉を語らずにおくような信念だけに心を向けよう。
 
語る者よ、語りつづけよ、歌う者よ、歌いつづけよ、
土を掘り、土をこね、地球の言葉を積み上げよ、
働きつづけよ、時代から時代へ、何ひとつ失うことは許されぬ、
待機の時間はおそらく長いが、しかしいつかはきっと陽の目を見る、
材料が全部そろって準備ができれば、建築家たちが現われてくる
 
誓ってもいい、建築家たちは間違いなく現われる、
誓ってもいい、彼らはきっと君を理解し君の正しさを認めてくれる、
彼らのなかでもっとも偉大な者となるのは、君を一番よく知っていて、万物を包み万物に忠実な者、
その彼と他の建築家たちとが君を忘れず、君が寸分たりとも彼らに劣らぬことを認めてくれる、
彼らによって君はくまなく賛えられる。
 


1971年版の「草の葉」全訳について  酒本雅之
 
『草の葉』全訳という大仕事をともかくもなし終えるには、むろん多くの方々のお蔭を受けている。とくに翻訳にとりかかってまもなく逝去された杉木喬氏は、日本におけるホイットマン研究の先達であり、この訳業の中心的存在となって頂くはずでもあっただけに、氏を急に失ってしまった悲しみと衝撃は大きかった。しかし『草の葉』を相手に悪戦苦闘したこの三年間、挫けそうになる僕の励ましとなり支えともなったのは、何よりもまず、いつも脳裏を離れぬ氏の温顔の記憶だった。今はただ、むろん不出来なものではあるが、この訳書を氏の霊前にささげてご冥福を祈りたい。
杉木氏の逝去された一九六八年九月匸百という日は、僕にとってよほどの悪日だった。なぜならおなじ日に、もうひとりの訳者に予定されていた鍋島能弘氏が、インディアナ大学客員教授として離日されたからである。頼るべき柱を一度に失ってしまった心細さは恐らくご想像頂けるだろうが、それでもともかくここまで漕ぎつけることかできたのは、共訳者として、外地での多忙をきわめる日常のさ中でゲラ刷に目を通し、あるいはその他の助力を惜しまれなかった鍋島教授のご厚情と、長期にわたって督励と助言うを与えつづけて下さった岩波書店編集部の永見洋氏のお蔭である。両氏に心から感謝する次第である。

1971年刊行の杉木喬、鍋島能弘、酒本雅之訳の「草の葉」は、もはや廃物廃品同様に地底に捨てられて、いまや私たちは手にすることは出来ない。そこでウオーデンは、その優れた労作をこの大陸に植え込むことにした。
 
それから26年後に、酒本さんは再度「草の葉」全訳に取り組むことになる。そのときの経緯を酒本さんは次のように記している。


「訳者はかつて同じ岩波文庫で「草の葉」の全訳を刊行したことがある。だが四半世紀以上の時間が経過して、若いころの自分の仕事にさまざまな不満や反省を感じるようになり、まだ力が残っているあいだにできる限り良いものにしておきたいと考えた。旧訳を徹底的に見直し、むしろ新訳のつもりで取り組んだが、少なくとも今の自分としては精いっぱいのものができたと思いたい」

こうして1997年に酒本雅之単独の「草の葉」全訳が刊行されたが、今ではこの本も私たちは手にすることができない。


 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?