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憧れの蒸気機関車  帆足孝治

あいこの10

 
  山里子ども風土記   帆足孝治

 小学校四年生になったとき、森小学校には新たに「自由研究」という時間かできた。田舎の小学校でも教科書通りに勉強させるばかりでなく、子供の特長と自主性を育て伸ばしてやろうとの思いやりから生まれた画期的な試みだったが、生徒は自分が勉強したいと思うテーマを自由に選んで、毎週金曜日の午後は一時間だけそれに没頭することが許された。女の子たちは野花やチョウチョウの研究をしたり、草木染めに挑戦したりしていたが、男の子たちは「鬼が城や角牟礼城の調査をしたり、郵便局の仕事の仕組みについて勉強したりしていた。ときどき順番で、その研究や調査の進捗状況と結果を発表させられるのである。

 私は汽車や電車が好きだったので、どうして蒸気機関車は走るのかといったようなことを研究した。といっても、実は「科学グラフ」という本に「蒸気機関車は何故走るか」という説明があって、シリンダーとピストンの仕組みが図解で掲載されていたから、発表の時間にはそれをほとんどそっくり大きな紙に写して説明した。

 先生は汽車のことなど詳しくないし、第一、「科学グラフ」などという雑誌をみたことなどないだろうから、それをそっくり引用してもバレる筈もなかった。何しろ、東京の科学雑誌に掲載されている図解をコピーしているのだから話の出来栄えも上々で、先生は「よくこんなに詳しく調べられたなアー」とすっかり感心の体で、私はこの自由研究の時間にはよく褒められた。私はこれで認められ、すっかり株を上げたので、日頃の苛めっ子の悪餓鬼たちもそれ以来私には何となく一目置くようになったように思う。

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 私は、学校にも堂々と汽車や電車の本を持って行った。すっかり得意になった私は、もっぱら鉄道関係の研究ばかりやって、終いには田舎では見ることのない電気機関車や電車まで研究テーマに取り上げた。発表の時間になると、田舎の先生には西武線だとかパンタグラフだとか言っても何のことか分からなかっただろうから、私の研究発表はいつも褒められるばかりだった。算数や理科ではあまり褒められたことがなかったので、先生に褒められるということは、ずいぶん気分のいいものなのだなァと思った。

 定価四八円の「科学グラフ」は紙質の悪い薄っべらな本だったが、「蒸気機関車の話」、「電気機関車の話」、「航空機の話」などといった特集号が出ると、叔父や東京の兄に手紙で頼んで買って貰った。汽車といえば蒸気機関車ばかりで、電車や電気機関車など見ることもできない久大線に比べると、[科学グラフ]の写真で見る東海道本線では「ツバメ号」を引いて走る流線形のEF53や、新橋付近の高架線を走る最新式のEF58の天然色写真などが載っており、さらに碓氷峠を行くアプト式のED42など電気機関車の勇ましい姿は、大いなる憧れだった。

 私はもの心がつくかつかない頃に東京を離れたので、実際には東京駅も中央線もあまりはっきりした記憶はなかったが、不思議なことに私はこうした写真が出ている本などを見ていると、電気機関車のピーツという警笛や西武電車のあっけらかんとした警笛、中野駅の土手の上を長い列車が通過する時の地響きやレールのカタカタ鳴る音、東京駅や新宿駅のあのワーンとした雑踏の音とは言えない音など、東京の懐かしい音がまるで耳の奥にのこっているかのように生き生きと思い出されるのだった。

 こうした現象は私が小さい時から不思議に思っていたことの一つで、自分なりに判断するところでは、どうやら私は普通の子供よりも想像力がたくましいというのか、なにやら空想癖のようなものにとりつかれているのではないかということだった。だから、私はちゃんとしたオモチャや模型がなくても、鉛筆一本を机の上をゆっくり滑らせれば立派な列車を空想することができたし、消しゴムを電車に想定することだって簡単にできた。これは全く私の得意技で、だれにも悟られないですむ密かな楽しみだった。

 例えば何かのお遣いで川沿いの土手道を歩いていく時だって、私は退屈な道をたちまち線路に想定してしまって、まるで電車が車体を傾けてカーブを勢いよく走り抜けていくように、自分の体を傾けながら口でガタンガタンなどといいながら走っていくのだった。

 「科学グラフ」の写真で見る東海道本線の電気機関車や、オレンジとグリーンが鮮やかな湘南電車は、かすかな記憶の底に残る「ふるさと」東京への憧れをかきたてた。当時は湘南電車といえば、電車としては世界でも最も長距離を走るものだった。それくらい電車というのは、乗り心地からも長時間連続走行には適さないものとされていたのだろう。

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 そのころ横浜の近くで桜木町事件というのがあって、通勤時間の満員電車が何かの原因で車両火災をおこし、たくさんの人が焼死するという大事故が田舎でも新聞などで大きく報道された。そのころの省線電車のスタンダードだったチョコレート色の「63型」電車というのは窓が三段に開くようになっていたため、つまみを押しながら窓を持ち上げて開けても一段あたりのスペースが狹いため、窓から脱出するというのが難しかったことが焼死者を増やした一つの大きな原因だと報じられていた。

 このため、「63型」という言葉が欠陥を表す流行語のようになり、田舎でも何かの都合でバスがエンストをおこしたりすると、たいてい誰れかが「これじゃあまるで63型バスだ!」というような駄洒落を言って皆を笑わせるというようなことが流行った。

 小学校三年くらいまでは、私は授業中でも大抵は汽車や電車、さもなくば嫁に行ってしまったお姉ちゃんのことを考えていたから、算数などは掛け算九九がなかなか覚えられず、皆についていくのが大変だった。だから私は自分ながらも、「頭が63型なのではないだろうか」と真剣に悩んだりした。それでも九九を覚えなくては大変なことになるなどとは思わなかったから、先生から順番に指名されて九九を言わされるとき、いつも私は「二の算」か「五の算」が当たることを祈っていた。それで「七の算」や「九の算」があたったりすれば当然お手あげだから、先生に言われる前に自分から進んで廊下に立ったものである。

 講談社の少年名作文庫で読んだ「エジソン」の伝記でも、発明王トーマス・エジソンは子供の時は学校の成績が悪く、みんなについて行けなかったかったとあるくらいだから、私は自分のことながら小学校くらいで出来がいいとか悪いとかは、あまり長い人生には関係がないだろうと勝手に思い込んでいたのである。

 こんな具合で授業中もほとんど心はいつも空想の世界にあったから、先生が一生懸命に黒板に書いてくれる漢字も数字も大体はいつも上の空で、それよりも電気機関車のパンタグラフがどういう仕組みで架線にくっついていられるのか、といったようなことの方が気にかかって仕方がなかった。パンタグラフがバネで架線を下から持ち上げるように接触しているという仕組みを知らなかったからである。

 実物を見て確かめるという事はできなかったから、パンタグラフは架線に引っ掛って、外れないようになっているのかも知れないと想像したこともあったが、もし、そうだとしたら、架線を吊ってある支線に引つ掛からないで走れるのはなぜだろうかなどということも気になって仕方がなかった。

 私は疑問を解くために家の道具箱から銅線をとりだして、これをペンチで曲げたり切ったりしながら、パンタグラフを作ってみたりしたが、パンタグラフが架線から外れないのはなぜかという謎は、なかなかとけなかった。ひょっとしたら、電気で自然に架線にパンタグラフが吸い付くようになっているのかも知れないとも想像した。

 こんな疑問は、電気機関車など見たことも興味もない田舎の先生に聞いて分かることではなかったので、自分で真理を見出だす以外に解決の手段はなかった。私は考えぬいたあげく、夜、布団に入ってからもいつまでも真剣にひとり想像を逞しくしたものである。大抵はそんな想像をしているうちに、いつか私は東海道線を快走するEF58の前部デッキに乗っている夢をみていた。そして、前方どこまでも続いている架線が片右に揺れながら、どんどん頭上に流れて行く夢を見ながら眠ってしまうのだった。

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