遠山正瑛さんへの手紙
やればできる 心の砂漠を耕そう 岡尚志
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人間は沙漠に勝てるか2010 年8 月14 日~18 日、緑の協力隊やまなし隊が中国内モンゴル自治区の沙漠緑化活動に参加した。特に、今回は日本沙漠緑化実践協会創立20 周年にあたり、またその創始者である故・遠山正瑛元会長(山梨県富士吉田市出身)の7回忌という記念すべき年で、全国からの参加者は約50 名、山梨からは7 名(青少年3 名、大人4 名)が参加した。遠山先生が中国の沙漠緑化に本格的に関わり始めたのが80 歳という高齢になってからである。鳥取大学退官後、世界の沙漠開発研究を続けてきたが、NGO日本沙漠緑化実践協会を創設し活動を開始したのが85 歳、以来さまざまな困難を乗り越えて苦難の道を拓かれた。
その信念は「やればできる。やらなければできない。」の一語に尽きる。誰も見向きもしない不毛の地として放置された中国の沙漠緑化に挑んだ遠山先生は「人間が沙漠化したのだから、人間が緑化する。人間は沙漠に勝てる。だが、自然には勝てない。だから人間は、自然に対する畏敬の念と感謝の心で謙虚に行動しなければいけない。」と言い切った。今回の活動を通じてその歩みをふり返り、20 年間の成果を検証したい。
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ポプラが沙漠を農業用地化したなぜ沙漠緑化なのかと問われるが、地球の陸地の約30%が沙漠化していると言われている。また地球上では毎年四国の面積くらいが沙漠化し、この勢いは止まらないと言われている。だから何らかの対策をとらないと大変なことになる。今叫ばれている地球温暖化の問題とともに地球規模で真剣に解決への努力をしなければならない。なかでも、巨大な人口を抱える中国の砂漠化が深刻で、国土の18 パーセント、約174 万km3 が砂漠と化し、過放牧、過伐採、過剰耕作により、年々拡大しているという。
中国内モンゴル自治区オルドス(鄂尓多斯)市エンゲベー(恩格貝)地区のクブチ沙漠は、日本にも飛来する黄沙が証明するように微粒子の沙であり、強風によって移動する広大な沙丘である。今までにいくつかの村が沙丘の移動によって飲み込まれて消えてしまったように、植物も根付くことができない悪条件である。したがって、先ずポプラを植えて沙の移動をくい止めることから始めなければならない。ポプラは大切な防風林の役割を果たしている。なぜポプラなのかと問われるが、厳しい暑さと寒さの条件下ではポプラが最適であるから、ポプラが先行して他の植物が育つ下地を作ることである。
沙漠化が急速に進む中国大陸。矢印は緑の協力隊が緑化を行っている中国内モンゴル自治区クブチ沙漠。地平線まで続く広大なクブチ沙漠の植林地に向かう緑の協力隊図。6年後。沙漠は花畑に変わった。20 年前のクブチ沙漠はあちこちに雑草がかろうじて生い茂る沙漠であったが、日本からの緑の協力隊が努力を積み重ねながら植林作業をしてきた結果、沙漠は見事に緑の大地に蘇った。ポプラで囲った沙漠は移動をすることなく畑となって耕作することができた。
ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、スイカ、などの作物が収穫され、定着農業が可能であることが立証された。さらに、なぜ中国の沙漠で緑化ボランティア活動なのか、何も外国まで行かなくても身近な地域で社会貢献をすればいいとも言われるが、中国は日本の大切な隣国であり、歴史をたどれば、遣唐使、遣隋使たちが中国文化を持ち帰り今日の日本の生活文化をなしてきた。植林文化のない中国に緑化のノウハウを移入するのは恩返しである。おおらかな心で隣国としてできることをすることは決して間違いではない。
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中国政府が遠山先生に「緑色大使」の称号を授与し、友好感謝の銅像を建立20 年前の恩格貝では、わずか5 人余の村人が細々と放牧で生活を営んでいた。ポプラの植林を始めた当初、遠山先生たち日本人の行動は遠くから異様な目で見られていた。「ポプラを植えて緑を見ているだけでは空腹は満たされない。」と言う村人に対して遠山先生はじっくり話し込みながら、「ポプラを植えるのは沙漠開発の入り口である。私たちは、必ずこの沙漠で農作物が栽培でき、あなた方が豊かな生活ができるようにする。」と約束した。日本から老若男女が続々と来て黙々と作業する植林ボランティアの姿を見て、村人は次第に心を開いたのである。
やがて、村人は一緒に緑化作業をするようになり、植林後の管理にも関わっていった。ついに100 万本の植林が達成された頃には、すでにポプラの防風林に守られた畑には各種の野菜が収穫できるようになり、日本の園芸会社の配慮による「花畑」では花の種を積む出稼ぎの娘さんの姿がみられるようになった。さらに最近ではワイン用のブドウや高級野菜として夕張メロンが日本人の指導によって栽培されるようになった。
これこそ、現代の中国で起こった日中共同の平和革命である。クブチ沙漠で100 棟以上のハウス栽培が可能になった。 ビニールハウスは観光農園として産業化された。1999 年8 月16 日、中国政府は100 万本達成に感謝して遠山先生に「緑色大使」の栄誉ある称号を与え、さらに銅像を建立するなど沙漠緑化活動が高く評価され、地元の人々も緑化活動に真剣に取り組むようになった。定着農業が成功したことで沙漠産業が活発になった。
ポプラの木は林となり森となり、スイカやブドウなどの本格的で大規模なハウス栽培が行われ、野菜畑は観光農園となり、水と森のオアシスを求める観光地となった。そして、村人の人口はこの20 年間に定住者1700 人、季節労働者の人々も増えて500 人を越えた。そして彼らの生活の場である一戸建ての家も建築され住宅街をなしている。まさに「沙漠の村再生」が実現した。
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緑化による沙漠産業の成功を見た中国政府が動き出した沙漠緑化の20 年間をふり返ると、日本からのボランティア約1万人余りが参加して約360万本のポプラが植林された。このことは大きな成果である。だが、ポプラの植林だけがゴールではない。「一木一草」、一本の木を植えなければ森は始まらない。一本の草を育てなければ草原は広がらない。そのためには、給水や間伐など植えたポプラの生育管理と、ポプラを活かした農業経済を活性化し村の発展をはかる地元の自助努力・自立成長(エンパワーメント)が必要である。
日本からの植林ボランティアは「自立の支援」であり、現地の村人の生きる力と知恵と努力が待たれることは言うまでもない。幸いにして内モンゴル自治区の政府も動き出し、沙漠開発のための植林と農業振興政策を進めている。20 年前に建てられた沙漠開発モデル地区農場の宿舎は古い面影を残し、沙漠の一角に近代的なホテルが建てられて観光客が絶えまなく訪れて沙漠産業を活気づけている。図7 遠山先生の緑色大使銅像の前には、恩格貝の沙漠緑化村が広がる。
中国政府が恩格貝に建立した遠山正瑛先生の銅像と記念館。また、この8月2日には中国政府の副首相が恩格貝の視察に訪れるなど、遠山先生が提唱した沙漠緑化事業も政府から公的に認知された。中国の歴史上画期的な「モデル地区」として日中合同の緑化を進め、さらに地元住民とともに豊かな村づくりの道を拓いていく大きな可能性が見えてきたように思う。「やればできる。やらなければできない。」その通りであるが、不屈の精神で遠大な理想実現に向かって命がけで邁進した遠山イズムを、私たちがどのようにして継承していくかが重要な課題であることを改めて検証した旅であった。
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遠山先生の宿題 「心の沙漠を耕そう」
恩格貝では、1992 年の9 月に初めて沙漠に訪れた時の「沙漠らしい面影」はなく、ポプラが生い茂り定着農業や観光農園などの沙漠産業振興という画期的な進展をとげ、緑の森は沙漠のオアシスとなって生い茂っている。昼は人々に涼しさと豊かさと元氣を生み出してくれる緑、そしてその向こうには未だに移動を続ける沙丘が延々と広がっている。夜は360 度ぐるりと見回す満天の星、中でも北の地平線から南の地平線まで中央に横たわる天の川、無数の星の固まりが「ミルキーウェイ」の呼称の意味を教えてくれた。この広大な沙漠に80 歳の高齢者が一人乗り込んで沙漠緑化の大偉業を興したのだと思うと身震いがするほど感激した。
遠山正瑛という男はとんでもなく大きくて偉大な男だと思った。沙漠の夜を一人歩きながら、遠山先生の宿題をずうっと考えていた。「沙漠を緑にするのも大切だが、日本人の精神的な荒廃を何とかしなさい。心の沙漠を耕さなければだめだ。」と、大声で言われたことが頭から離れない。それは、2002 年11 月21 日のことだった。山梨県政功績者の表彰を受けた遠山先生は不機嫌だった。本来ならば祝うべき喜びの日であるべきなのだが、山梨県ボランティア・NPO センターのロビーで談話しながらも嬉しそうな顔もせず、「色紙を持って来なさい。」と言いつけて書いた言葉が「心の沙漠学校」であった。筆を走らせて一気に書き終えると「心の沙漠学校を創りなさい。私が鳥取から毎月来て指導する。」と言ってやっと笑顔を取り戻した。
しかも、その色紙には「為・岡尚志様 遠山正瑛(印)」と書かれていた。何というプレッシャーを与えられたのかと戸惑った。むろん高齢の遠山先生が鳥取から毎月山梨に来るわけはないが、その思いの深さがひしひしと感じられ、また先生の真剣な気迫に押されてこれはやらなければならないなと思い、「はい、やります。」と答えてしまったのだ。その日から「心の沙漠を耕すことはどういうことか。心の沙漠学校って何をすればいいのか。」という禅問答のような問いかけが始まった。遠山先生の言うことは心情的には理解できるが、具体的に何をどうすればこの難解な宿題を解くことができるだろうかと、心の重荷になった。
とりあえず自分の手製の名刺に「心の沙漠を耕し・ともに生きよう」とプリントし、会う人ごとに渡しながら説明を加えることとした。そして一歩前進するきっかけを与えられたのが2006 年に甲府で行われた「第20 回牛乳パックの再利用を考える全国大会」であり、その翌年に設立した「もったいない甲斐ネットワーク」である。そして、5 人の有志を中心にして「もったいない運動」を推進していくことになった。「勿体ない」ということを深く考えていくと「有り難い」という言葉と関連することに気が付いた。与えられたこの命、当たり前のように受けている自然の恵み、これらは全て自分の力ではない「有り難きこと、稀なこと」である。
だからこれらを失うこと、無駄にすることは勿体ない。さらにこれらの価値を活かさないで放置することも勿体ない。無駄にしない、さらに与えられた価値を活かして新たな創造をする、このような考え方は、我々日本人の生活の根底に根付いていた「もったいない文化」ではなかっただろうか。そのことに気づき、考え、行動することが、もったいない運動であり、日本の精神文化の再構築につながること、つまり「心の沙漠を耕す」ボランティアの一環になるのではないだろうか。沙漠の旅を終えて考えた。20 年間の緑の協力隊の植林活動の成果は検証できたが、今度は遠山先生から強烈に投げかけられた宿題「心の沙漠を耕す」ことの実践をしていかなければならない。心の問題は難しい問題ではあるが、「やればできる。やらなければできない。」と遠山先生が叱咤激励しているように思う。
遠山正瑛(1906-2004)。砂漠緑化の研究家、中国政府は遠山氏に「国家友情賞」、内蒙古自治区政府は「栄誉公民」の称号をそれぞれ授与し、国連も「人類に対する思いやり市民賞」を遠山氏に贈った。
入選理由:
1980年から、遠山さんは内蒙古自治区のエンゴペイ砂漠で緑化の研究に取り組み始め、毎年8~9カ月の滞在期間には、毎日10時間近くにも及ぶ作業を14年続けた上に、日本では全国を巡り、砂漠緑化のために精力的な募金活動を展開した。そしてその感化により、家族を含めた数万人の日本人が内蒙古のエンゴペイ砂漠来て、緑化活動に参加した。その後の弛まぬ努力により、約2万ヘクタールの砂丘の移動が食い止められ、ここには多くに木が植えられた。
中国との縁:
遠山正瑛さんは、亡くなる年の10年前に、「自分の亡骸は中国に埋めてほしい」という遺言を残している。2004年3月5日、遠山さんは享年97歳で亡くなり、その1週後に、遺骨は内蒙古自治区のエンゴペい砂漠に運ばれ、ここで埋葬された。遠山さんは1906年に日本の山梨県に生まれ、1935年に中国に留学し、中国で農耕文化や植物生態を研究している過程で、中国の砂漠を緑化したいという夢を持ち始めた。
のちの日中国交回復は、その夢の実現を可能なものにした。そして1979年、中国西域学術調査団に参加、シルクロードに沿って砂漠を視察した。その後1984年には中国砂漠開発日本協力隊の隊長として、ボランティアたちと一緒に黄河の上流砂漠でブドウの木などを植えた。退職した1990年に、遠山さんは内蒙古自治区のエンゴペイ砂漠に住むようになった。
「エンゴペイ」とはモンゴル語で、平和、幸せという意味であり、ここは元は緑の海だった。そこで、今は砂漠となったエンゴペイに緑を取り戻そうという意味から、ここでの緑化に努めたのだと遠山さんはいう。こうして遠山さんは日除け帽子をかぶり、長靴を履き、作業服を着て道具袋を背負い、毎日仕事に出かけた。毎年8~9カ月という滞在期間には、毎日10時間近くにも及ぶ作業を続けた。実を言うと暑い夏の気温は40度に達し、冬はなんと零下20度になったのだが、遠山さんはボランティアらと一緒に木を1本1本植えたのだ。これは普通の人ですら大変なのに、高齢者だった遠山さんにとっては並々ならぬことなのだ。
このことについて遠山さんは、「砂漠の緑化は中止することは出来ないので、真剣に仕事を続けるべきだ」と話している。このような長年の努力を経て、砂漠化は止められた。こうして1995年までに成長の早いポプラの木が100万本植えられ、1998年までには200万本が、2001年までにはその数が300万本となり、今では植樹数はすでに340万本を超えた。生涯砂漠を研究してきた遠山さんはその技術を活かし、これによって植えられた木の約80%が活着している。面積2万ヘクタールという地元の砂漠開発試験場での日本人ボランティアらが植えた植樹の面積はここの3分の1を超えた。このようにここは緑に囲まれ、住民が300人以上になったので、遠山さんは国連から「人類に対する思いやり市民賞」を授与されたのだ。
日本人が砂漠の緑化のため、どうしてわざわざ中国にまで来たのか?これはボランティア募集の際、よく出る質問である。これについて遠山さんは、砂漠の緑化「世界平和に緊密に関わる。地球の3分の1の土地は乾燥しており、地球の温暖化、人口の増加や無制限な開墾などは、砂漠化を加速させ、これによって糧食不足などの問題は深刻化した。だから砂漠を緑化して、砂漠化を止めるのはこの問題を解決する上でベストの選択なのだ」と話している。
遠山さんは、「砂漠の緑化は日本にもプラスとなる。環境問題はすでに国境を越えており、衛星から見ると、砂嵐は国境に越え被害を広めている。だから環境問題の解決は、世界的な課題であり、日本人が中国の砂漠を緑化するのは日本にもプラスとなる」という。
遠山さんは、「砂の緑化は中国への恩返しでもある。昔の日本は中国からいろいろと学び、それを各分野で生かした。半世紀前の侵略で、日本は大変な罪を犯したことを自分は痛感しており、私の中国での砂漠緑化は謝罪の意味もある。日本は中国の建設事業を支援すべきだ」と話していた。
数万人のボランティアらは遠山さんの人格に魅了し、自費で中国に来て、砂漠緑化に従事した。その中には中には日本の武村正義元度大蔵相もいる。
遠山さんは84歳の時、「また30年働きたいなあ。実はしたいこと沢山あり、砂漠開発大学も一ヶ所創立したい」と言っていた。97歳になくなった遠山さんには、まだやりたいことが沢山あっただろう。
遠山さんはなくなったが、彼が砂漠に植えたポプラの樹はすくすく育ち、いまでは日本の友人の中国の人々に対する深い友情の示すシンボルともなっているのだ。
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