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森機関区のモーターカー  帆足孝治

あいこの14

山里子ども風土記──森と清流の遊びと伝説と文化の記録   帆足孝治


 まだ戦争中だったか、それとも終戦直後だったか、森機関区にモーターカーという便利な車両が一台配備されていた。実際の所有は保線区のものだったらしく、作業員を乗せて線路を見回るのに使っていたが、隣りの帆足邦男おじさんが鉄道に勤めていた頃、いちどこのモーターカーに乗せて貰ったことがある。

 邦男おじさんは大の子供好きだったので、近所の小さな子供たちからもクンチャンと呼ばれ親しまれていたが、家に遊びにきていたとき、私に「今度モーターカーに乗せてやろうか」と言った。私は喜んで、ぜひ乗せてくれるように頼んだのだが、本当はそんな夢のようなことができるのだろうかとあまり当てにはしていなかった。

 しかし邦男おじさんは大真面目で、その四、五日後に、とうとう本当に息子の観ちゃんと私をこのモーターカーに乗せてくれたのである。邦男さんはもともと大工さんだったが、戦後はあまり仕事がないので鉄道に臨時職員として働きに出ていたのである。
 
 その日、約束どおり運送店(森駅の岩室側ホームの外れにあった後の日本通運「丸通」の倉庫)の脇から、森駅のプラットホームの端に潜り込んで待っていたら、邦男おじさんは同僚二~三人が乗り込んだモーターカーをブルルンブルルンと徐行させてきて止め、急いで乗るように私たちを手招きした。邦男おじさんは駆け寄った私たちをモーターカーの上に引っ張り上げるように乗せると、駅員や機関庫の人達に見られないように急いでモーターカーを発進させた。

 まだピカピカの新品らしいモーターカーは車体全体がフラットで覆いも何もなく、私たちは邦男おじさんに抱かれるように吹きさらしのデッキに座った。運転席はデッキに横座りに腰掛けたままでコントロールするようになっており、操作盤にはいろいろな複雑な計器やスイッチなどが並んでいた。

 私たちを乗せたモーターカーは、まるで逃げるように素晴らしい勢いで加速すると分岐点を越えて本線に乗り入れ、あっと言う間に十文字のガードを渡り、緩やかな下りを下っていった。高い所から右手に帆高の鉄工所を見下ろして、十釣の鉄橋をわたると線路は緩やかに左ヘカーブを切って北山田の方向へと続いている。

 鉄橋をわたるとき、邦男おじさんが「サイレンを鳴らしてみよ!」というので、私は恐る恐るサイレンの把手を回した。少し回すと、サイレンはびっくりするほどの大きな音を出した。 「もっと勢いよく!」と励まされ力を込めて強く回すと、ウーウーとサイレンは線路脇の家々に響き渡るように威勢よく鳴った。

 十釣の山沿いの蔵に赤い五枚の「カクイわた」の広告看板が立つており、そばの藁葺き屋根の農家の庭から手ぬぐいをかぶったおばさんが不審そうにこちらの方をみている。きっと、「何でモーターカーにあんな小さい子供が乗っているのだろう?」と首をひねっていたにちがいない。

 風が強いので私は首に襟巻きをぐるぐる巻きにしていたが、それでもモーターカーは寒さに震えるほどのスピードで突っ走った。スピードをあげると前から物凄く強い風が吹きつけて、呼吸も困難なほどだった。

 快速のモーターカーは汽車よりも速く走れるので、万一途中で汽車に出会っても大丈夫逃げられるということだったが、私はもし向こうから実際に対抗列車が走ってきたら、本当に急ブレーキをかけて止まったうえに、大急ぎでバックして逆方向に逃げるなんてことができるのだろうかと気が気ではなかった。

 きっと列車が走ってこない時間を見計らって勤務中にもかかわらずモーターカーを私用に使ったのだったろうが、後で考えてみればいかに田舎の久大線でも旅客列車は今よりずっとたくさん走っていただろうし、臨時の貨物列嗽も通っていたはずだから危険はいっぱいだった筈である。いくら田舎のこととは言え、どうしてそんなことができたのか不思議である。機関区や保線区のきびしい監督もあっただろうに、あのころの国鉄はずいぶん危ないこともさせていたものである。

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