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お寿司屋さんと紅白歌合戦 菅原千恵子

あいこの12

  愛しき日々はかく過ぎにき  菅原千恵子

 年の暮れはすぐそこまでやってきていた。父は新しい仕事に移った酪農組合が、旧工場だけでは生産が追いつかないというので、当時にして一億六千六百万円を投入し、新工場を建築したのだった。それが完成し、新工場に移転するさい、製品に異物が混入し、県衛生部から営業停止処分を受け、創業以来の経営危機に陥っていた。事故も含めて経費の増大にともない、運転資金を借入金でまかなっていたこともあり、二千百万円ほどの赤字となり、業界からも存統危うしとささやかれた年となっていた。

 開拓農民に酪農をするように説得し、なおかつ、その生産と、乳牛の飼育、人工授精の指導をするために指導部長としてこの仕事に請われ、ようやくそれにかけてみたものの、この年は酪農組合として大変な時期だったのだ。だからこの年の瀬は、酪農組合の存続をかけて、年の瀬は今後乗り切るかどうかの瀬戸際にあったといってもよい。

 もし乗り切ることができれば酪農組合としてこれからもやって行けるというところに立っていた。秋に、泥棒に入られてお金を盗まれた我が家では、母にとっては冬のボーナスが出るかどうかは重大問題だったが、その返事は、とうとう大晦日まで持ち越していた。

 父が帰ってこない大晦日なんて、私たちには初めてのことである。いつもなら「お年取り」という家族的な暮れの行事がこの地方にはあり、新年を迎える準備が終わると、年末の三十日か三十一日には、早々と風呂に入り、尾頭付きのご馳走をいただく習慣があった。それは子どもにとって、正月の元旦よりも楽しみの多いものだった。

「お年取りすみしたか?」と声かけあうのは、この辺の年末の挨拶でもあった。出稼ぎに出ていっていた家族が、正月を迎えるために続々と集まり、それまでの寂しい日常が、急に華やぐときでもあったのだ。事故もなく無事一年がくれ、新しい年を迎えるためのささやかな祝い事として「お年とり」というごく家族的な行事が伝わってきたのではないかと思う。

 町内では暮れ近くなると、それまで何もしていなかった店で、突然、神棚に飾る絵を描き出すところもあり、窓越しに、私は飽きることなく覗いて見ていたものだ。その絵も今は我が家の神棚に飾られ、新年を迎える準備は全てできあがっており、四人で、寂しい「お年取り」をすませていた。父だけがいない大晦日を、私たちはラジオの紅白歌合戦を聞くために、こたつに集まっていた。

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「遅いね、お父さん、仕事ひどいんだろうか」
 二番目の姉が言ったとき、玄関が開き、洗濯屋の奥さんが電話が来ているからと、母を呼びに来てくれた。まだ我が家に電話がついていなかったので、いつもは、俊さんがその連絡係をしていたのだが、今日はみな故郷に帰っていて誰もいない。洗濯屋も、久しぶりの家族水入らずなのだ。母は、すぐ洗濯屋から戻ってきて、うれしそうに私たちに言った。

「お父さんが、三人でお寿司屋さんで待っているようにって。ボーナスがもうすぐ出るらしいよ。あんたたちで行っておいで。夜だからタクシーで行くといいね」
 母は、浮き浮きと私たちを急かした。私たち姉妹は、突然の呼び出しにあわてて着替え、お寿司屋にタクシーで向かった。お寿司屋では、既に父からの連絡が入っていたとかで、店のご主人も女将さんも笑顔で私たちを迎えてくれた。

「なんでも注文して食べていてもいいと言ってたよ。さあ何にします?」
 ご主人は、握りたくてうずうずしているように見えた。客は、私たち三人だけである。姉の顔を見上げて、何か注文しようと思うのだが、姉は、少し厳しい顔をしていて、お茶だけを飲んでいる。待ち切れなくて、店のご主人は私たちに鉄火巻と河童巻をつくって前のカウンターに乗せてくれた。

 私は早速手を伸ばしてそれを食べたが、姉たちは手をつけず、ひたすらテレビの紅白歌合戦を見つめていた。流れてくる曲はどれも何度となくラジオで聞いて耳慣れたものばかりである。黒柳徹子と高橋圭三の軽妙な司会で、始まった紅白歌合戦を、こうしてテレビで観るのは生まれて初めてのことである。

 大津美子が、ボリュウムのある声で「東京は恋人」という歌を歌っていた。恋人の意味がわからず、父に聞いたことがあった。父は、好きな人のことだと教えてくれたのを思い出しながら、私の恋人は、自分の家の子どもにしたいと言ってくれたH小父ちゃんと、父と、龍夫おじちゃんというふうに頭の中で数えながら、画面を見上げていた。

 フランク永井が、初登場したときは、食べることも忘れて画面に見入った。母方の叔母が、フランク永井は、声だけ聞いているとどんな美男子かと思うけれど、顔は声がいいぶんひどいと言っていたのを聞いていたからだ。しかし私が見るには、その歌手はとても優しそうに見えた。
「なあんだ、優しい人じゃない」
 私が思わずひとりごとを言うと、寿司屋の主人が、
「この男は、東北の出身だっつうんだねや。たまげだいい声だ」

 女将さんにいうというわけでもなく、私たちにというわけでもなく、やはりひとりごとのように言っている。フランク永井は、この年いつラジオをかけても、流れてこない日がないというほど、「有楽町であいましよう」という曲が流行り、みなその低音にしびれてうっとりとラジオの音に聞きほれたものだった。

 私は、いつも歌を聞くときは、その歌詞の意味が問題なので、「あなたを待てば雨が降る/濡れて来ぬかと気にかかる」というところを勝手に解釈し、きっと雨に濡れると、放射能の雨だから頭がすっかり禿げてしまうと心配しているのだと思っていた。せっかく、待っているのに、やってきた女の人がまるでテルテル坊主のように髪がなかったら、男の大はどんなに驚くだろうと想像した。

 1町にいた頃第五福竜丸が、ビキニ環礁で、被爆した事件があり、私たち子供は、雨が降ると、丸っぱげになると大騒ぎして、夕立が来たときなど、頭を押さえて大急ぎで家に駆け込んだものだった。誰が言い出したかはしらないが、子供たちにとっては頭の毛がなくなってしまうというのはかなり、インパクトの強い恐怖を感じさせるに十分だったのだ。私たちはそんなはげを、「ピカっぱげ」と呼んでいた。
 
 父が、まだやってこないのを心のすみで心配しながらも私の目はテレビから離れることがない。紅白あわせて三分の二がすぎたあたりに、浜村美智子が出てきた。『イデデ、イデデ、イデデ~オ』と歌うその歌手は、カリプソ娘と呼ばれその年一世を風靡していた。
「世の中も変わったんだねや。こいな歌ば歌ってそいずがいいんだっつうんだがらっしゃ。見らいん、まず後ろで踊ってるいい若い男ば。腰くねらせて、まあず、軍隊がなくなったら、こいな軟弱な若者ばり出でくんだおんね」

 寿司屋の主人は、テレビを見ている私たちを意識していっている。すると、女将さんも、
「そいなのね。痛くもないのに、いでで、いでで、ってっしゃ、からやかましい歌だっちゃね。見でみさいん、この髪型、これがカリプソっていうんだべか。だらしない恰好ださあ。こんでは、とっても嫁になど行かれねえべっちゃ」

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 女将さんがそんなことをいっていると、突然戸が開いて、父が笑って入ってきた。母が待ちこがれているボーナスとやらをやっともらうことができたらしいのが、私たちにもわかった。父は、お酒を一本注文し、やれやれといいながら私のとなりに腰を下ろした。
「どうした、どんどん食べなさい。弘子もみっちゃんも、あんまり食べてないんじゃないの? ちいちゃんは、何を食べたんだ?」

「旦那、一つ握りますか」
 店の主人は、勢いずいて父の注文を聞いている。父は、いくつか好きなものを頼んで、私たちにも何かもっと食べるようにと勧めてくれたが、[お年取りの]料理を食べているので、そんなにお腹に入らないのだと姉はいった。私は、もうそろそろ空いてきていたので、ウニを注文した。すると、上の姉がカウンター越しに私の足を蹴ったのだ。高いものだけ注文するなという姉からのサデッションだったのかも知れないが、その時意味がわからず、「痛あ、なんで蹴るの?」と叫んだ。

 父の顔を見ると、
「この店のねたは、とびきり新鮮だから、ウニもおいしいよ」
 と、うなずいている。私は、心から満足した。一人で好きなものを注文するなんて、急に大人になったみたいでうれしかった。
「さあ、お母さんにおみやげに折を一つ握ってもらって、そろそろ帰るとするか」
 父は、店の主人に折を注文し、多分、これで仕事は軌道に乗るだろうと姉に話している。

 私は、最後まで紅白歌合戦を観たいと思っていたが、父に急かされて店を出た。晦日の深夜十一時半、外の空気は冷たく、ビルが立ち並ぶ町は、どこもかしこもひっそりとしていたが、父の仕事場の四階だけ灯がついていた。そして私たちがタクシーを待っている間に、その灯も消えた。
「いよいよ、これでみんな終わったんだ。御前様にならないうちに終わって、良かったよ。いい新年が迎えられるぞ。お父さんの仕事も来年はもっと発展するだろう」

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