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根津診療所発祥の路地 山崎範子

 根津にはきっとこんな路地があるはずだと思っていたらやっぱりあった。地域医療に大活躍の根津診療所は昭和三十五年、この路地奥の長屋の二階で発足したという由緒ある路地。坂本智恵子さんはここに二十年、本所で生まれ、厩橋で焼け出され、もと上野で飲食店を経営。

 「ウチは何でも屋みたいなもんでさ、のこぎりない? トンカチない? タンスの下に敷くもの何かない? って困れば誰でもウチに来る。宅配便なんか来たの預かるだけじゃなくて、出すのまで頼まれちゃって。

 あたしもお節介がすぎるけど、まわりの人間もみんなお節介でさ。会いたくない客が来たから押入に入って居留守つかってたら、はきものあるから居るはずだって、二階まで探してくれる人がいるからね。

 私が仕事の仕込みして料理作ってたって、誰かかんか上がってきて、何べんも自分でポットにお湯たしては、お茶つ葉かえて飲んでたもんねえ。井戸端会議が一番盛んだったのは桂枝太郎さんの奥さんがいたころかしら。女連中で箱根に行ったこともあったし。技太郎さんが亡くなった時は、新聞社の人がウチの電話を取りっきりだった。そろそろ十三回忌ね。

 私もいつかは大きなお邸に住みたいと思ってたけど、もうだめねえ。きっと淋しいでしょうねえ。ここだと何か足りなくても何日か生活できちゃうもの。たしかに口うるさいわよ。私みたいのもいるんだし。横でコチョコチョいわれて、ああうるさいって思うこともあるけど、腹には何もないんだから、いいんじゃない。

 前に玄関あけた所に竹のカーテン吊してたら、あんたんちが見えないで淋しいっていう人あったもの。見えると安心、見えないと淋しい、へんだけど、カーテン取っちやった。

 雨だっていえば、人の家にバタバタ入ってきて、洗濯物取り込むの手伝ってくれるし、手がふさがってる時に電話が鳴ればとってくれる。山下さんのおばあちゃんが奥で一人暮らしだったときは、身寄りもないし、毎日ウチヘ遊びにきてた。寝ついたときは一ヶ月、朝昼晩と食事届けたのよ。タバコも。好きだったから。根津診いくのも健生病院入院するのもつきそっていった。あの頃、この路地で入院してる人が三人いて、三人の病院を見舞って帰ると日が暮れた。山下さんが亡くなって、毎日来てた人がこなくなると淋しくてね。

 路地にはいろんな人がくる、新聞ヤもお豆腐ヤも石炭ヤさんも。前はわかめ売りも来てた。留守でも台所の窓からわかめがないと釘にひっかけてってくれたわ。

 あるとき、前の家で屋根いじってたら雀の子がいたって、うちへ持ってきたの。怪我してるのを菓子鉢に脱脂綿入れて育ててたら、電線に雀が二羽、チュンチュンうるさく鳴くじゃない。こりゃ、きっと親が心配してんだよって、角のクリーニング屋の物干場にそうっとのぼって雀の子を置いたの。すると親が来て連れてった。長屋中の人間が出てきて、見えなくなるまで見送って、感激しちやった」。

 戦時中に小石川から越してきた入山米次さんは娘夫婦も同じ路地の住人。
「坂本さんが夜中の三時くらいまで起きてるし、私が朝四時っていえば起きてるから、この路地は泥棒なんて入れないよ。志賀さんのおじいちゃんが元気な頃は、日がな路地の入口で入ってくる人に[どちらへ]って声をかけてて、まるで門番みたいでありがたかった。あの人は根津小の用務務員さんだったから、まちのみなと顔見知りだった。長屋の住人はだんだん入れ替っているが、何か縁のある人を引っぱってくるから、人は変わっても何となく知っている人ばかり。
 ぼくなんかここに座ってるだけで、根津のまちのこと、全部わかっちゃう。誰かが情報持ち込んでくるからね。どこでネコが生まれた犬が生まれたってことから、区議が何やらかそうとしてるかとかね」。

 入口の一軒だけ表通りに向ってるクリーニング屋の相宗周一さんは、お父さんが荒川で焼け出され昭和二十年に根津へ。「ぼくは昭和十一年生まれだけど、当時は子どもが多くてね。権現さんの池の鯉を盗ったって神主さんにおこられてた。フロ屋も友だち同上で誘い合って、開くの待っていったもんだ」

【追記】
特集で取り上げた八本の路地のなかの一つ。この頃、この町を舞台に、環境と町づくりを調査研究する「江戸のある町・上野・谷根千研究会」なる組織が生まれ、トヨタ財団「身近な環境を考えるコンクール」から研究助成を受けた。代表は寛永寺執事の浦井正明さん、事務局長は当時芸大助教授の前野尭さん、芸大東大の学生、町のおじさんおばさん、私たちも参加。研究会の路地調査によって特集は 大幅に肉付けされ、別冊の『谷根千路地事典』を刊行、のちに住まいの図書館出版局より『新編・谷根千路地事典』として単行本化された。

草の葉ライブラリー 山崎範子著「谷根千ワンダーランド」近刊

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