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あのときの王子くん  3, 4, 5

あのときの王子くん
LE PETIT PRINCE
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ Antoine de Saint-Exupery
大久保ゆう訳
 

 その子がどこから来たのか、なかなかわからなかった。まさに気ままな王子くん、たくさんものをきいてくるわりには、こっちのことにはちっとも耳をかさない。たまたま口からでたことばから、ちょっとずつ見えてきたんだ。たとえば、ぼくのひこうきをはじめて目にしたとき(ちなみにぼくのひこうきの絵はかかない、ややこしすぎるから)、その子はこうきいてきた。
「このおきもの、なに?」
「これはおきものじゃない。とぶんだ。ひこうきだよ。ぼくのひこうき。」
 ぼくはとぶ、これがいえて、かなりとくいげだった。すると、その子は大きなこえでいった。
「へえ! きみ、空からおっこちたんだ!」
「うん。」と、ぼくはばつがわるそうにいった。
「ぷっ! へんなの……!」
 この気まま王子があまりにからからとわらうので、ぼくはほんとにむかついた。ひどい目にあったんだから、ちゃんとしたあつかいをされたかった。それから、その子はこうつづけた。
「なあんだ、きみも空から来たんだ! どの星にいるの?」
 ふと、その子のひみつにふれたような気がして、ぼくはとっさにききかえした。
「それって、きみはどこかべつの星から来たってこと?」
 でも、その子はこたえなかった。ぼくのひこうきを見ながら、そっとくびをふった。
「うーん、これだと、あんまりとおくからは来てないか……」
 その子はしばらくひとりで、あれこれとぼんやりかんがえていた。そのあとポケットからぼくのヒツジをとりだして、そのたからものをくいいるようにじっと見つめた。

 みんなわかってくれるとおもうけど、その子がちょっとにおわせた〈べつの星〉のことが、ぼくはすごく気になった。もっとくわしく知ろうとおもった。
「ぼうやはどこから来たの? 〈ぼくんち〉ってどこ? ヒツジをどこにもっていくの?」
 その子はこたえにつまって、ぼくにこういうことをいった。
「よかった、きみがハコをくれて。よる、おうちがわりになるよね。」
「そうだね。かわいがるんなら、ひるま、つないでおくためのロープをあげるよ。それと、ながいぼうも。」
 でもこのおせっかいは、王子くんのお気にめさなかったみたいだ。
「つなぐ? そんなの、へんなかんがえ!」
「でもつないでおかないと、どこかに行っちゃって、なくしちゃうよ。」
 このぼうやは、またからからとわらいだした。
「でも、どこへ行くっていうの!」
「どこへでも。まっすぐまえとか……」
 すると、こんどはこの王子くん、おもいつめたようすで、こうおっしゃる。
「だいじょうぶ、ものすごおくちいさいから、ぼくんち。」
 それから、ちょっとさみしそうに、こういいそえた。
「まっすぐまえにすすんでも、あんまりとおくへは行けない……」



 こうして、だいじなことがもうひとつわかった。なんと、その子のすむ星は、いっけんのいえよりもちょっと大きいだけなんだ!

〈しょうわくせいB612の王子くん。〉

 といっても、大げさにいうほどのことでもない。ごぞんじのとおり、ちきゅう、もくせい、

かせい、きんせいみたいに名まえのある大きな星のほかに、ぼうえんきょうでもたまにしか見えないちいさなものも、なん100ばいとある。たとえばそういったものがひとつ、星はかせに見つかると、ばんごうでよばれることになる。〈しょうわくせい325〉というかんじで。
 ちゃんとしたわけがあって、王子くんおすまいの星は、しょうわくせいB612だと、ぼくはおもう。前にも、1909年に、ぼうえんきょうをのぞいていたトルコの星はかせが、その星を見つけている。

 それで、せかい星はかせかいぎ、というところで、見つけたことをきちんとはっぴょうしたんだけど、みにつけているふくのせいで、しんじてもらえなかった。おとなのひとって、いつもこんなふうだ。

 でも、しょうわくせいB612はうんがよくて、そのときのいちばんえらいひとが、みんなにヨーロッパふうのふくをきないと死けいだぞ、というおふれを出した。1920年にそのひとは、おじょうひんなめしもので、はっぴょうをやりなおした。するとこんどは、どこもだれもがうんうんとうなずいた。

 こうやって、しょうわくせいB612のことをいちいちいったり、ばんごうのはなしをしたりするのは、おとなのためなんだ。おとなのひとは、すうじが大すきだ。このひとたちに、あたらしい友だちができたよといっても、なかみのあることはなにひとつきいてこないだろう。つまり、「その子のこえってどんなこえ? すきなあそびはなんなの? チョウチョはあつめてる?」とはいわずに、「その子いくつ? なんにんきょうだい? たいじゅうは? お父さんはどれだけかせぐの?」とかきいてくる。
 それでわかったつもりなんだ。おとなのひとに、「すっごいいえ見たよ、ばら色のレンガでね、まどのそばにゼラニウムがあってね、やねの上にもハトがたくさん……」といったところで、そのひとたちは、ちっともそのいえのことをおもいえがけない。こういわなくちゃ。「10まんフランのいえを見ました。」すると「おおすばらしい!」とかいうから。
 だから、ぼくがそのひとたちに、「あのときの王子くんがいたっていいきれるのは、あの子にはみりょくがあって、わらって、ヒツジをおねだりしたからだ。ヒツジをねだったんだから、その子がいたっていいきれるじゃないか。」とかいっても、なにいってるの、と子どもあつかいされてしまう! でもこういったらどうだろう。「あの子のすむ星は、しょうわくせいB612だ。」そうしたらなっとくして、もんくのひとつもいわないだろう。おとなってこんなもんだ。うらんじゃいけない。おとなのひとに、子どもはひろい心をもたなくちゃ。
 でももちろん、ぼくたちは生きることがなんなのかよくわかっているから、そう、ばんごうなんて気にしないよね! できるなら、このおはなしを、ぼくはおとぎばなしふうにはじめたかった。こういえたらよかったのに。
「むかし、気ままな王子くんが、じぶんよりちょっと大きめの星にすんでいました。その子は友だちがほしくて……」生きるってことをよくわかっているひとには、こっちのほうが、ずっともっともらしいとおもう。
 というのも、ぼくの本を、あまりかるがるしくよんでほしくないんだ。このおもいでをはなすのは、とてもしんどいことだ。6年まえ、あのぼうやはヒツジといっしょにいなくなってしまった。ここにかこうとするのは、わすれたくないからだ。友だちをわすれるのはつらい。いつでもどこでもだれでも、友だちがいるわけではない。ぼくも、いつ、すうじの大すきなおとなのひとになってしまうともかぎらない。だからそのためにも、ぼくはえのぐとえんぴつをひとケース、ひさしぶりにかった。この年でまた絵をかくことにした。さいごに絵をかいたのは、なかの見えないボアとなかの見えるボアをやってみた、六さいのときだ。あたりまえだけど、なるべくそっくりに、あの子のすがたをかくつもりだ。うまくかけるじしんなんて、まったくない。ひとつかけても、もうひとつはぜんぜんだめだとか。大きさもちょっとまちがってるとか。王子くんがものすごくでかかったり、ものすごくちっちゃかったり。ふくの色もまよってしまう。そうやってあれやこれや、うまくいったりいかなかったりしながら、がんばった。もっとだいじな、こまかいところもまちがってるとおもう。でもできればおおめに見てほしい。ぼくの友だちは、ひとつもはっきりしたことをいわなかった。あの子はぼくを、にたものどうしだとおもっていたのかもしれない。でもあいにく、ぼくはハコのなかにヒツジを見ることができない。ひょっとすると、ぼくもちょっとおとなのひとなのかもしれない。きっと年をとったんだ。

 
 

 日に日にだんだんわかってきた。どんな星で、なぜそこを出るようになって、どういうたびをしてきたのか。どれも、とりとめなくしゃべっていて、なんとなくそういう話になったんだけど。そんなふうにして、3日めはバオバブのこわい話をきくことになった。このときもヒツジがきっかけだった。この王子くんはふかいなやみでもあるみたいに、ふいにきいてきたんだ。
「ねえ、ほんとなの、ヒツジがちいさな木を食べるっていうのは。」
「ああ、ほんとだよ。」
「そう! よかった!」
 ヒツジがちいさな木を食べるってことが、どうしてそんなにだいじなのか、ぼくにはわからなかった。でも王子くんはそのままつづける。
「じゃあ、バオバブも食べる?」
 ぼくはこの王子くんにおしえてさしあげた。バオバブっていうのはちいさな木じゃなくて、きょうかいのたてものぐらい大きな木で、そこにゾウのむれをつれてきても、たった1本のバオバブも食べきれやしないんだ、って。
 ゾウのむれっていうのを、王子くんはおもしろがって、

「ゾウの上に、またゾウをのせなきゃ……」
 といいつつも、いうことはしっかりいいかえしてきた。
「バオバブも大きくなるまえ、もとは小さいよね。」
「なるほど! でも、どうしてヒツジにちいさなバオバブを食べてほしいの?」
 するとこういうへんじがかえってきた。「え! わかんないの!」あたりまえだといわんばかりだった。ひとりでずいぶんあたまをつかったけど、ようやくどういうことなのかなっとくできた。
 つまり、王子くんの星も、ほかの星もみんなそうなんだけど、いい草とわるい草がある。とすると、いい草の生えるいいタネと、わるい草のわるいタネがあるわけだ。でもタネは目に見えない。土のなかでひっそりねむっている。おきてもいいかなって気になると、のびていって、まずはお日さまにむかって、むじゃきでかわいいそのめを、おずおずと出していくんだ。ハツカダイコンやバラのめなら、生えたままにすればいい。でもわるい草や花になると、見つけしだいすぐ、ひっこぬかないといけない。そして、王子くんの星には、おそろしいタネがあったんだ……それがバオバブのタネ。そいつのために、星のじめんのなかは、めちゃくちゃになった。しかも、たった一本のバオバブでも、手おくれになると、もうどうやってもとりのぞけない。星じゅうにはびこって、根っこで星にあなをあけてしまう。それで、もしその星がちいさくて、そこがびっしりバオバブだらけになってしまえば、星はばくはつしてしまうんだ。
「きっちりしてるかどうかだよ。」というのは、またべつのときの、王子くんのおことば。「あさ、じぶんのみだしなみがおわったら、星のみだしなみもていねいにすること。ちいさいときはまぎらわしいけど、バラじゃないってわかったじてんで、バオバブをこまめにひきぬくようにすること。やらなきゃいけないのは、めんどうといえばめんどうだけど、かんたんといえばかんたんなんだよね。」

 またある日には、ひとつ、ぼくんとこの子どもたちがずっとわすれないような、りっぱな絵をかいてみないかと、ぼくにもちかけてきた。その子はいうんだ。「いつかたびに出たとき、やくに立つよ。やらなきゃいけないことを、のばしのばしにしてると、ときどきぐあいのわるいことがあるよね。それがバオバブだったら、ぜったいひどいことになる。こんな星があるんだ、そこにはなまけものがすんでて、ちいさな木を3本ほうっておいたんだけど……」
 というわけで、ぼくは王子くんのおおせのまま、ここにその星をかいた。えらそうにいうのはきらいなんだけど、バオバブがあぶないってことはぜんぜん知られてないし、ひとつの星にいて、そういうことをかるくかんがえていると、めちゃくちゃきけんなことになる。だから、めずらしく、おもいきっていうことにする。いくよ、「子どものみなさん、バオバブに気をつけること!」これは、ぼくの友だちのためでもある。そのひとたちはずっとまえから、すぐそばにきけんがあるのに気がついてない。だからぼくは、ここにこの絵をかかなきゃいけない。ここでいましめるだけのねうちがある。そう、みんなはこんなことをふしぎにおもうかもしれない。「どうしてこの本には、こういう大きくてりっぱな絵が、バオバブの絵だけなんですか?」こたえはとってもかんたん。やってみたけど、うまくいかなかった。バオバブをかいたときは、ただもう、すぐにやらなきゃって、いっしょうけんめいだったんだ。

〈バオバブの木。〉

あのときの王子くんについて  大久保ゆう


 2 テクストについて
 この翻訳は、Antoine de Saint-Exupery "Le Petit Prince" の全訳です。1943年にレイナル&ヒッチコック社から刊行されたフランス語版の初版第一刷を底本としています。挿絵もそこからスキャンし、色彩の補正をかけたあと、すべて同じ倍率で縮小してあります。
 この初版第一刷は、この『あのときの王子くん』の翻訳活動に関心を寄せていただいた、『「星の王子さま」総覧』管理人 RenardBleu 氏のご厚意によって手に入れることがかないました。また、そのページで公開されていた初版第一刷のテキストがなければ、この翻訳を始めることもなかったでしょう。言葉には表せないほど感謝しております。
 さて、話は変わりますが、ここで挿絵について断っておかなければなりません。
 挿絵は、その著作者の権利が失効した以上、自由になるべきものです。もし最初に刊行した会社に権利があるとしても、出版から50年以上経過しているので、初版に対する権利はないものと考えられます。
 また同時に、これらの挿絵は既存の商標権を侵害するものではありません。
 私見ですが、商標権があるから書籍中の挿絵の利用が制限・管理できる、という考えは、法的にいってもおかしいと思います。
 もともと〈商標〉は〈他の商品との区別をするための記号・図案〉です。それがほかのものでなくて、どこどこのブランドの商品であることを証明するためのものです。ですから、その有効とする範囲は、本であれば表紙であるとか、題名であるとか、あるいはポスター・広告や看板への使用、商品名、つまり商品の外側につく、あくまでも「付すもの」としての「説明」の部分であると考えられています。
 それを本の中身まで適用できるものか、そういった判例が本当に実在しているのかどうか、いささか疑問が残ります。(もちろん、雑誌の中の広告等は別ですが、挿絵がそのようなものでないことは明らかです。)また、商標法における〈使用〉というのは、商品として提供することですから、そうでない利用の場合、どう制限することができるのか、疑わしいように思います。
 商標法においては、その標章の使用によって、出所表示機能、自他識別機能が発生しているかどうか、また、商品として市場に出回り、経済活動を担っているのかどうか、という点が、裁判の争点になります。
 そう考えた場合、商品であるかどうかは別として、少なくとも、
「本の中身の挿絵は、出所表示機能・自他識別機能を有しない。よって、商標としての使用行為に当たらない。」
 と、明確に言えるのではないかと思います。


 

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