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帆足孝治  山里こども風土記  原子爆弾の地響き 1

機銃掃射の恐怖

 日本が世界を相手に戦っていたとはいえ、当時の森町は山間の小さな町だったので、警戒警報や空襲警報がなっても実際にはアメリカ軍のB-29爆撃機も艦載機もほとんど来なかった。ただ終戦直前に一度だけ森機関庫が艦載機らしい敵機の機銃掃射を受けたことがある。グラマンだったかカーチスだったか知らないが小型の戦闘機らしい奴が単機で湯布院の方から線路伝いに来襲し、たった一回の機銃掃射を行っただけだったが、それでも大被害が出て、機関庫の職員の中から殉死者が出たほどである。森が空襲を受けたのは後にも先にもこの一回階同だけだった。

 その日、家には大分から祖母の養女だった稗田の花江おばさんが来ていて、おばあちゃんもことのほか機嫌が良く、家の中は朝から何となく楽しい平和な気分が満ちていた。艦載機の機銃掃射は、そんなのどかな朝、全く突然にやってきた。

 稗田の花江おばさんはそのころ大分に暮らしていたので空襲には慣れていたらしく、突然超低空でやってきた艦載機の凄まじい爆音と、まるで我が家を狙ってきたようなバリバリという機銃掃射の音を聞くと、実に手際良く、アッという間に押し入れの布団の中に潜り込んでしまった。

 なにしろ突然の来襲だったので誰も敵機の姿を見たものはなかったが、敵機はどうやら最初から鉄道施設を狙っていたらしく、たった一川の掃射だけで西の方へ飛び去った。私は大急ぎで敵機の影を求めて表に飛び出したが、稗田のおばさんは「まだ出ては危ないよ、敵機はきっとまた戻ってくるから!」といって、何時までも頭から布団をかぶったままで震えていた。

 この艦載機は、きっと大分の航空隊でも空襲したあと、余った弾丸を使ってしまうために東シナ海にでもいる機動部隊の空母に戻るついでに久大線に沿ってここまで飛んで来て、たまたま見つけた森の機関庫を銃撃したものに違いない。ここを最初から狙って来だのなら、たった一撃で帰ってしまうとは考えにくいからである。

 戦争も末期になって、うちでは祖父がよくラジオをつけてニュースを聞いていた。ラジオは一日中、空襲のニュースを流していたが、放送は「ブーツブーツー」というブザーの音がしたあと。
「西部軍管区情報! 西部軍管区情報!」とアナウンサーの緊張した声が聞こえ、次いで「敵B-29四十機はOO上空を八幡、戸畑方面に向け北上中!」といった警報を伝えていた。山間の森町では、たまに銀翼を連ねてはるか高空をゆっくり通過してゆく編隊を見ることはあったが、実際にはどれがB-29なのか識別出来る人もいなかったから、それがどんなに大きな飛行機なのか想像もできなかった。

 そのころ栄町の警察署の裏庭で、むしろの上に寝かされたアメリカ兵の捕虜を見にいったことがある。撃墜されたB-29の若い搭乗員を公開したもので、ここへ連れて来られるまで、どこでどんな扱いを受けていたのか、またどんなものを食べさせられていたのか、ずいぶん痩せていたが、私たちはアメリカやイギリスの兵隊のことを「鬼畜米英」と教えられていたので、最初その捕虜を見た時、頭に角がないのを不思議に思ったくらいである。

 どこで撃墜されたのか、また、仲間たちはどうなったのか知らないが、こんな田舎の警察署にたった一人で留置されているのはさぞ心細かったことだろう。近くの広場には、撃墜された敵B-29爆撃機のタイヤが放置されていたが、直径が私の背丈ほどもある大きな破れたタイヤからたくさんのワイヤが覗いており、こんな大きな車輪をつけているBj29とは、いったいどんな大きさの飛行機だろうかと空想をめぐらしたりした。

 戦局がいよいよ悪化してくると、こんな田舎町からもどんどん若者が出征していき、私が育った上ノ市からも、六ちゃんとよばれていた隣りの帆足六郎さん、ミノちゃんとよばれていた隠居の神田己信さんが戦地にいったまま戻らなかった。あのころは、おとな同士でもみんな親しく名前で呼び合っていたから、子供の私たちもそれを真似して、遥かに年上の大人をつかまえて「六ちゃん」とか「ミノちゃん」と呼んでいたが、やはり何となくはばかられて、困ったものである。

 幸い、同じく戦争末期に応招した畳屋の「みっちゃん」こと長野光(みつる)さんは、戦闘帽にゲートル巻きで、コンペイトウとカンバンを土産に帰ってきた。私と同級生だった長男の光政くんは、よく「うちの父ちゃんは星を一つつけて帰ってきた」と言ってみんなを笑わせていた。

 隣りの六ちゃんが出征した日の記憶は鮮明だ。寄せ書きをした日の丸の旗をつけるためうちの裏にあったナンテンの木を切って竿にし、隣りの坪に集まった近所の人達を前に隠居の玖市おじいちゃんが、「帆足六郎君の武運長久を祈る、出征バンザーイ!」と大きな声で送り出した。今考えれば、六郎さんはまだ結婚して間がなく、一人息子の昭ちゃんが生まれたばかりだった。
 隠居の玖市おじいちゃんは、そのすぐあとには自分の息子のミノちゃんを戦地に送り出すことになるのだが、その時はまだ、そんなことは考えてもいなかったはずである。

 私は、ミノちゃんには一度だけ、その背中につかまって「つきばし」を泳いだことがある。ミノちゃんは私をその厚い背中にしっかりっかまらせて「つきばし」の深い淵を下から上へ泳いだが、まだ泳ぐことを知らなかった私はミノちゃんの体の下に見える青い底無しの「つきばし」の深い淵が恐ろしく、一層強くミノちゃんの背中にしがみついた。今でも夏の日差しに輝いていたミノちゃんの暖かく厚みのある背中の感触が残っている。

 隣りの六ちゃんは終戦後すぐに戦死の知らせが届いたが、子供だった私は、隣りの家の仏間から、いつまでも奥さんの澄子さんのすすり泣く声がするのを聞いた。お母さんが余り泣くものだから、事情がよく分からなかっただろう一人息子の昭ちゃんも、一緒になって「父ちゃんがおらん、父ちゃんがおらん」と言って泣き続けていた。

禁止された厭戦替え歌

 こんな田舎町にも敵の艦載機がやって来るようでは、戦局がいよいよ悪化していることは誰の目にも明らかで、近くの笠という家に住んでいた森本さんちの女祈祷師の子供などは、「これは内緒だが……」といって、お母さんの占いにはもう今度の戦争は負けるしかないとでていることを私たちに教えてくれた。

 彼がお母さんの占いの結果として教えてくれたのは、「昔は富士山は雲の上に出ていたが、このごろは雲の方が富士山より高くなっている。これはもう、世界が終りに近づいていることを示す証拠である。さらに、昔は日本が国難に遭うと神様が味方をしてくれて必ず神風が吹いたものだが、このごろは、その神風さえも吹かない。これは神様が日本の国を忘れてしまったからで、これでは今度の戦争は負けるしかない」というものであった。

 子供とはいえ当時はそんなことを外で喋るのは極めて危険なことであったから、その子もそんな話しは親しい友達だけに内緒で話していた。私には占いというのがよく分からなかったが、大人たちもそんな非科学的な論拠で占いを信じるようでは大したことはないなと感じていた。

 その子の家は道路に面した角にあって、いつもお母さんがお祈りばかりしているので貧しい暮らしをしていたから、私は、お祈りもいいが、その合間に少しは近所の田圃の手伝いでもすればお米だって貰えるだろうに、なぜ働かないのか不思議だった。祈祷して報酬を貰っていたことを知らなかったからである。

 私はいちどその家に入ったことがあるが、狭い家の中は薄暗く、ちょうど神様の前にその子のお母さんである女祈祷師が座っていて、見ると団扇太鼓をもっている左手の肘のヒに火のついた蝋燭を立て、太鼓を打ち鳴らしながら一生懸命に体を揺すって呪文を唱えていた。私はびっくりしてしまい、家に帰ってからおばあちゃんにそのことを話したが、おばあちゃんは、その女祈祷師の両方の肘は蝋燭でひどい焼けどをしているのに誰も口出しすることができないので、近所の人たちはみんな気にしているのだと言っていた。

 女祈祷師だけでなく、今度の戦争は負けるだろうということは、塚脇の親戚のお爺さんも口癖のように言っていた。塚脇のお爺さんは若い頃、日露戦争で軍艦「出雲」に乗り組み日本海々戦にも参加したというベテランで、たまたま同じ軍艦に乗り組んでいた信号兵が、敵艦の放った弾丸に撃たれてマストごと海に落ちたのを救いあげたことがあった。その助けあげた信号兵が何と同じ大分県の宇佐出身だということがわかって、以来、日露戦争が終わってからも親密な友好関係が続いていたが、そのうちに「上ノ市」の帆足の家に東京からいい娘が来ているが、貴様の長男の嫁さんにどうだろう、良かったら口をきいてやってもいいが……」と言うことになった。私の一番上の姉、チエ子が宇佐に嫁に行ったのにはそんないきさつがあったらしい。

 塚脇のお爺さんは海軍に入りたてのころ遠洋航海でオーストラリアに行ったことがあるらしく、そのときに写したという現地の若い水着姿の金髪娘との記念写真を大事に保管していて、私か遊びに行くと、よくその当時のアルバムを見せてくれた。アルバムには彼が若いころ乗り組んでいた二等巡洋艦「出雲」の絵葉書や写真がいっぱい貼ってあって、私は明治時代の水兵さんなんてチョン髷でも結っているのかと思っていたから、大日本帝国海軍の水兵さんが日露戦争前から外国の水着の金髪女性と並んで写真に写るほどモダンだったことを知って驚いた。

 塚脇のお爺さんは、私が田舎に行った頃はもう七十に近かったはずだが、昔の海軍軍人ということで口喧しいことでは近所でも有名だった。その塚脇のお爺さんがいつも言っていたのは、「今度の戦争はきっと負けるだろう」ということだった。塚脇のお爺さんが言うには、そのころ演習に来ていた陸軍の兵隊たちがお伊勢様の石段に腰を下ろして休んでいたそうだが、その連中が通りかがったお爺さんに聞こえるように「ああ、腹が減った!」と言った。きっと通りかかった田舎のお爺さんをからかう積もりだったのだろうが、それを聞いたお爺さんは怒って、「私は今は引退しているが、これでも若い頃はロシアと戦った海軍の兵隊だ。腹が減ったとは何事だ! 若いお前たちがそんな情けないことでどうする!」と、その兵隊をたしなめた。

  それ以来、塚脇のお爺さんは、「こんな兵隊がいるようでは戦争に勝てるはずがない」と思うようになったらしい。私の祖父が「どういう理由で日本が戦争に負けるとおもうのか」と確かめると、「兵隊が腹を減らしているというのは兵糧の補給が旨く行っていない証拠で、これでは勝てるわけがない。われわれが日露戦争を戦った頃は、兵隊が腹を空かすなどということは絶対になかった」と言っていた。

 戦局が悪化してくると銃後は乱れるもので、この頃は子供たちの間でも弱い日本軍を比喩するような話しや替え歌が流行っていた。私もh級生たちに教わったいい加減な替え歌を、わけも分からずよく歌ったが、各家庭や学校には、警察から「子供に悪い替え歌を歌わせないないように」という通達があった。

 そのころ私たちがよく歌った歌に「もしも米英が勝ったなら」というのがあった。航空部隊の勇姿を歌った軍歌をもじったもので、その歌詞は

もしも米英が勝ったなら
死んだ魚が泳ぎ出す
絵に描いたダルマが踊り出す
電信柱にや花が咲く
一日 地球が百回まわる
ぶうぶう豚の子空を飛ぶ

というものだった。これは、日本はアメリカやイギリスを相手にしたくらいでは負ける筈がないという意味の替え歌の筈だったが、内容自体が退廃的であるということで歌うことが禁じられた。
 もうひとつ、「名誉のトン死」という歌は、高峰三枝子の「湖畔の宿」をもじった替え歌だったが、こちらの方はもう少し過激で、その歌詞は、

きのう産まれた豚の子が
蜂に刺されて名誉のトン死
豚の遺骨はいつ帰る‥‥‥

というようなものであった。別に「ランプ引き寄せシラミ採り……」と言うのもあってこれも厭戦気分あふれる反戦歌だったが、これはその内容からして当時の警察が取り締まったのは当然だったろう。そのほかにも、「ラバウル小唄」をもとにした替え歌、「汽車は出る出る 大分の駅を、しばし別れの涙がにじむ‥‥」というのも流行った。

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