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海の上のピアニスト    草皆伸子

ロバートアンリ4


イタリアの超人気作家アレッサンドロ・バリッコは、一九九四年、ファンの期待に応える作品を書いてくれた。短編ながら、ひとりの人物の一生をみごとに描ききった物語。設定は今世紀初頭の大型客船上で、より現実的になっている。とはいえ、物語られるストーリーはあいかわらずありそうもない不思議なもので、いかにもバリッコ的だ。タイトルは『ノヴェチェント、ある独白』、一人芝居の形をとつた作品、つまり本書である。「ノヴェチェント」というのは、九百という意味で、一九〇〇年に生まれたことからつけられた主人公の名前でもある。ちなみに、映画では、主人公は「ナインティー・ハンドレット」と呼ばれている。

さて、この船で生まれ、ただの一度も陸地を踏んだことのない風変わりな男、ノヴェチェントは船の専属楽団のピアニストだった。かれが弾くのは前代未聞の音楽。いまだかつてこの世に存在せず、そしてかれがピアノの前から離れた瞬間にはもう存在していない音楽。抑えが利いているうちは、ジャズを彈く。それも素晴らしいジャズを。でも、いったん抑えが利かなくなると、弾きたいものだけを弾く。それはジャズを十倍にしたような、ものすごい音楽だった。

全米一のジャズピアユストと決闘し、完膚なきまでに打ちのめしてしまうかれの天才ぶりがユーモアたっぷりに描かれる前半に対して、後半では一転してそんな天才ピアニストにも解決できない、ある人生の課題がテーマになっている。それは、かれがどうしても船を降りられないという問題だった。ノヴェチェントは三十二歳にして初めて陸地に降り立つことを決意するが、結局ニューヨークの果てしない町並みを目にしたとき、世界のあまりの大きさに恐れをなして船に逆戻りしてしまうのだ。

やがて戦争が終わり、戦争中に病院船として使われたヴァージュアン号はボロボロに傷ついて帰ってくる。廃棄処分が決まり、ダイナマイトを山と仕かけられ、やがて沖へ曳航、爆破される運命の船には、ひとりノヴェチェントだけが残っている。生まれてこのかた一度も船を降りることのなかったかれの生涯が、終始傍観者として過ごしてきたかれの人生が、今、まさに閉じようとしている。

世界を外から観察するだけで、人生に対峙する勇気をもたなかった男。素晴らしい音楽の才能に恵まれながら、世界の大きさに圧倒されて、夢を何ひとつ実現することのできなかった男。しかし、そんなかれを単なる臆病者と言ってよいものか? 船と運命をともにすることにしたノヴェチェントが親友に向けて発する質問には、否定できない真理があるのではないか? ノヴェチェン卜はたずねる。「道一つとったって、あんなにたくさんある。きみたち陸の人間は、どうやって自分の進むべき正しい道を見分けるんだい?」

わたしたちは、世界の大きさに敢然と立ち向かう勇者なのか、それとも世界の大きさに気づきもしない愚か者か? ノヴェチェントというひとりの人物をとおして、バリッコが真正面からつきつけてきたこの問いに、読者は自分自身でその答を探しだすよりない。

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