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私は謝りたくなかった  菅原千恵子

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  愛しき日々はかく過ぎにき   菅原千恵子


 私は三年生に上がった。当然のようにクラスも変わり、新しい友達と、新しい先生になって、二番目の姉は中学校へ進み、完全に私と離れた。それでも途中までは姉に寄り添うようにして朝は家を一緒に出たが、それも五月ぐらいまでだったと思う。姉は、私たちが行っていた床屋の娘と同じクラスだということで、彼女が迎えに来るようになり、いつのまにか自然に私とは出かけなくなっていた。

 私は、一人で長い道程を歩きながら、通う道の両側の家々で飼われている犬の頭を撫でて歩くことが日課となっていた。そこにはさまざまな顔の犬たちがいた。私が来るのを尾を振って待っている犬や、むきだしに嫌な顔をする犬などを確かめながら、さほど退屈もせず通うことができた。五年生頃になると、犬を飼っている家の苗字を書き込み、そこの犬の名前がなんていうのかを丹念に調べて、犬マップなるものを完成させたことがあった。

 どうしても名前が解からない犬だけは、自分がつけた名前で補っていた。例えば、カボチャのような黄色の毛を持つ犬は、カボッチといったぐあいだ。この犬マップは残っていないが、ずいぶん時間をかけて作ったもので。我ながら自慢したいほどの出来映えだったと今でも思う。

 新しい担任は、太った女の先生で、優しい先生だった。私が父のことを書いた作文を、高く評価してくれ、おもしろいから書き直してごらんとすすめてくれたり、歌がうまいと認めてくれた。大人にとっては些細なことかも知れないが、私は、自分を大人が理解してくれていると思うだけで、うれしかった。給食は、相変わらず、弁当箱を持って行き、それにおかずをいれることに変わりはなかったが、私はもう、給食係ではなかった。

 新しい先生は、こまめにテストをして、私たちの学び具合を測っていた。あるとき、余りにもみんなの学習成績が悪かったので、その悪いテストに親から判子をもらってくるようにといわれたことがあった。私は青ざめた。三十点という点を見たら、母はなんと思うだろうと考えるだけで、これは絶対見せられないと自分なりに思った。姉たちは、誰もそんな点なんてとったことがない。

 私は、判子をしまっているところを知っている。誰にも見られないようにこっそり判を押してしまえばいいのだ。母の嘆きも、姉たちの哀れみも受けずにすむだろう。私は誰もいないのをみはからって、震えながら印鑑を押した。悪いことをしているという気持ちが強く、先生のいいつけを守らなかったというだけでなく、毋や、姉たちに隠し事をしているという後ろめたさがあった。

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 判を押したあとは、再びランドセルの中にしまった。これで、万事うまく行くと思ったのは私が幼かったからかも知れない。私の計りごとは、あっけなく母や姉たちの知るところとなってしまった。それもこれも、私がお弁当箱を台所の流しに出さなかったからだった。母が、私のランドセルを開けて、弁当箱を取り出そうとしたとき、入っていたテストを見て何気なく開いたところ、ひどい点数というだけでなく、判が押してあったのに驚いたのだ。親に見せずに、こっそり判を押すなどというのは、子どものすることではないと母は思った。

 夕方、遊びつかれて帰ってくると、母は、二人の姉たちと厳しい顔で私を迎え、ここに座るようにといったのだ。私は嫌な予感がし、チラリと、あのテストのことではないかと思ったが、しらばっくれて、いった。
「なにしたの? みんなで」
 母は、私のそのことばにカチンときたのだろう。母の手にある、あの忌まわしいテストを私に見せながら、
「なにしたのじゃないでしょう。お母さんは全部知っているんだからね。これはいったいなんなの。この判子はなんなのっしゃ」
「先生が押すようにっていってたから」
「こっそり、誰にも見せずに押せといったんだえか。そうなの?」
 私は下を向いて首を横に振った。

「違うよね。これはお母さんに見せてから、判を押してこいといわれたんだよね」
 私は無言でうなずいた。どんどん追いつめられて行くように感じられて、悲しくなった。
「今からこんな悪い点数とっていたんでは、先が思いやられるってば」
 一番上の姉がいった。二番目の姉も同意しているのか、同じようにうなずいている。母がここぞとばかり声を高くした。
「もうこんなことは絶対しないって言いなさい。悪いことだったとあやまんなさい」

 私は、なぜか謝りたくなかった。後ろめたさや、悪いことをしているという気持ちがなかったわけではないのだけれど、これは他のみんなだって悪かったテストだったのだ。私は、きっと叱られると思うからこそ見せられなかったのだし、いつだって母は二人の姉たちのようであることが普通だと思っているのだから、そこに及ばない私はいつだってこれでいいということなどないことを私は知っていたのだ。姉たちの水準まで成績がいっていなければ、私は駄目なのだから。でも、私は私なんだ、姉でもなく、他の誰でもないのだといいたかった。だから、母に謝ることなどできないのだ。私は、悔しさと解かってもらえない悲しさで、わんわん泣いた。

 私の泣き声に、母は激した。
「泣けばすむことじゃないんだから。隠れて事なかれにしてしまう千恵子の心が問題なんだでば。嘘は泥棒の始まりだっていうこと知ってるすぺ? こんなことでは先が本当に心配だでばね」
 と二人の姉たちに向かっていった。それを聞いて、私はもっともっと大声で泣いた。何が起きているのかはしらないが、どこかで自分が壊れてゆくような気がしていた。私はどんなことがあっても謝らないと決めていたので、泣きながらも一違うよ、違うよ。」といっていた。母は、もっと声を張り上げ、あきらめたようにいった。
「何が違うっていうの。悪いのは、千恵子なんだよ。それを認めないうちは、駄目だでば。こんなに強情な子どもは見たことがない」
「黙って、判をついたのは、千恵子が悪いんだよ」
 一番上の姉が諭すようにいったので、私は、暴れ声で、もっと強く、大きく泣いた。

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 その時だった。父が、黙って玄関から茶の間に入ってきて、どなった。
「おまえたちは、いったい何をやっているんだ。喧嘩の声が、外にまで聞こえていたんだぞ。いったいなんで千恵子は泣いているんだ?」
 
 父は、不機嫌な顔で、それだけいうと、洋服ダンスに背広をしまって、着物に着替え、いつも座る、父の席に座った。父の帰りにも気づかずにいたことを恥じるように、母が、小さな声で、母は今日の出来事を、詳しく父に話して聞かせた。私は惨めだった。父は、母に愛情を持っていて、とても大事にしているのを知っていた。だから、たぶん私のことを叱るだろうと思っていた。ところが、意外なことを父はいったのだ。

「考えてもみたらどうだ。千恵子はまだ九つの子どもだよ。判を黙って押したのだって、それくらいの知恵が付いていて当たり前じゃないか。それを、こんな小さな子どもを、よってたかって、三人で責めるなんて、なんておまえたちは狭い気持ちでいるんだ。今は成績が悪くっても、これからもそうだとは誰にも断言できないことなんだからな」
 私は、泣くのもやめて父の話に聞きほれていた。今までの悔しい気持ちがいっぺんに晴れてゆくようだった。父は、今度は、私に向かって、いった。

「なあ、千恵子だって、アスナロなんだよ。今にきっと良くなるさ。なあ、今は駄目でも、まだまだこれからがたっぷりあるんだからな。もっと勉強をすれば、多分、もっと成績は上がるだろうさ。そんなことは、気がついたときからでも遅くはないんだ。今たっぷり遊んでいれば、きっとあとでいいことがあるもんだ。いい人生にはいい思い出が一番だよ」

 私はきっぱりと涙を拭いた。いつかきっと、窮地を助けてくれた父が、自慢したくなるような人間にならなければと私は思った。いい人生にはいい思い出が一番だといった父のことばの意味はまだどれほども理解していなかったが、砂地に水がしみ込むように私の心にしみてきた。私は父のことばにいつかきっと報いようと決心していた。

 とはいうものの、それからも私は遊ぶのに忙しく、宿題でさえやってゆかないことがあった。意図的にやらなかったのではなく、めいっぱい遊んで疲れて寝てしまい、朝時間割りを見て思い出したり、通学途中に同じクラスの人に会って、しまったということが多いのだ。明日からは絶対こんなことがないようにしたいと思って帰るのだけども、洗濯屋の姉妹に会うと、そんな決意などきれいに忘れて、やっぱり遊んでしまうのだった。

 遊びを誘うときの決まり文句というのがとうじの子どもたちにはあって、遊びたい子の家の窓の下などで、「チィちゃん、遊びましょ」と、大きな声で呼び出すのだ。それを聞いて、遊びたいときは「いいよ。あそぼう」と答えればいい。しかし喧嘩をしていたり、特別な友達が来ていたりして、遊べないときは、「あとで!」と節をつけて断ったり断られたりする。

 打ち沈んだ気持ちでうなだれて帰ろうとしているときに、楽しそうな笑い声がこれ見よがしに聞こえてきたりすると、たちまち惨めな気持ちになるものだ。まるで自分だけ退けもの扱いされたような、そんな気分なのだ。遊んでもらえないことほど、子供にとって悲しいことはない。子供にはそれが全てであり、命にも匹敵することなのだから。

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