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少女の夢 3  酒井倫子



  父のあんこう鍋

 私が小学校四年生ぐらいから、母は家から南へ三キロほどの製材所に勤めるようになった。というのも叔母のところも幸いなことに叔父が南方の戦地から無事復員し、農業は何とか叔母夫婦でできるようになったことと、いつまでも妹のめんどうにばかりなれないという母の思いも強かったのだ。私たち姉弟は学校から帰っても母が居ない淋しさを味わうようになった。それでも当時は学校から帰ると近所中の子どもが叔母の家の中庭に集まって、陣取りやビー玉や時には二つ年下の従姉妹のカネコとおままごとで夢中になることもあった。けれども夕餉の前ともなると子どもたちにもそれぞれ役割があって、家の露地から街道へとんで出ては、母の帰りを待った。街道の南へ五百メートルほどのところは坂道で、そこに母の姿をみつけると私たちはたまらなくうれしくて、「母ちゃんがみえた! 母ちゃんがみえた!」と弟たちにつげた。

 大きな弟は家兎に餌を、小さな弟は庭はきを、私はくどの火をたきつけた。母が帰ると我が家も活気づき忙しかった。私と上の弟は近くの井戸まで水くみ。そのころは、どこの家の台所にも大きな蓋付の瓶があり、そこに飲み水がたくわえられたのだ。私たちは二百メートルほど離れた井戸まで天秤棒と手おけ一つを持って水汲みにかよった。夕方には近所中の人が来て井戸は大にぎわいであった。大人たちは二つの桶に沢山の水を汲み天秤棒でギコギコギコとバランスよく運んでいたが、私と弟とは一つの手桶に天秤棒をとおし、二人してよたよたとかついだ。家の瓶にたどりついた時はこぼれた方が多かったりした。それでも私どもはこりずに何回でも運んだものだ。

 小さい弟はまだ小学校前で、母のまわりをころころとかけまわり、うれしそうであった。口かずの少ないおとなしい末っ子のことを母は「この子は何だか牛んぼうのようだな、何ももんくもいわずにおとなしくて!」と、よくあわれむように言っていた。私たちが学校で母がお勤めの間、弟はひとつ年下の従姉弟とまるで兄妹のように野良で遊んで暮らした。叔母はまるで自分の子と同じようにめんどうをみてくれたのだ。

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 父はといえば、終戦からかれこれ四年もたっていたがその頃も定職もなく、ブローカーなどで相変らず失敗をし、借金とりに追いまわされる日々であったようだ。母はその苦労からのがれることもできず、神経をすりへらし、父の顔さえみればヒステリックにののしるようになっていった。「いったいどうするんだね。詐欺師だのペテン師だのいわれてよく平気でいられるわね。もうこれ以上苦しむのはたまらない。家から出て行ってくれ!」というのである。母の言い分はもっともであったが、私の小さな心は不安でいっぱいになるばかりであった。父もまんざら遊んでいたわけでもなく、いろんな人の囲碁の相手をしては日ぜにをかせぐような生活をしていたようだ。

 父は日本碁院の木谷八段の弟子で何段かをいただいていたのだ。当時長野県下で一、二の腕前であったという。いろいろな対局があり、時には長野県の本因坊戦に出て新聞紙上をにぎわすこともあった。「囲碁は芸道である」というのが父の囲碁に対するこだわりであった。父は口ぐせのように「そのうちに碁会所をつくるのだ」と言っていた。そんなわけで父の方から相手の方へ出掛けてゆき、お礼にお米や野菜などをいただくこともあったのだ。それでもきまった定収入があるわけでもなく、いつ出掛けていっていつ帰るとも知れない父であったから、まるで母子家庭のようであった。私どもがとっくに寝ついたころに一ぱい機嫌で帰って来た父に、母は「子どもに持たせる給食費はどうするんだね!」となげいているのをよく聞いた。寝たふりをしながら父母の小ぜりあいを耳にするのはつらくて心をいためたものだ。

 私が小学校五年生の初夏の頃であったか、母は過労がたたって肺浸潤になってしまったのだ。毎日微熱があるなかを母はしばらくの間働き続けたが、「療養するように」と医師に宣告され、母は崖の湯のS荘を営む友人のところへしばらく身を寄せることとなった。毋の気持の中には、この際もう少し父にしっかりしてもらいたいという期待もあって、家を離れる決意をしたようであった。S荘の女主人は母の女学校時代の友人で大変心持ちのよい太っ腹の人で、前から私たちをかわいがってくれていた。今までも母は困りきった時はこの友人に助けてもらっていたようである。私も崖の湯のおばちゃんは大好きであったから、母がまるで知らないところへ行ってしまうという不安はなかった。

 ある朝、母は風呂敷包みひとつ持って崖の湯行きのバスに乗り込んだ。その朝母は私たち姉弟に「留守をよろしく頼む。母ちゃんのことは心配しなくてもよいから、父ちゃんの言うことをよく聞いて仲良くいるように。家兎だけは餌をやらないと死んでしまうからみんなできっと守るように」と言いおいた。父は「そんなことは俺がちゃんとやらせるから心配するな」といいながらそわそわ歩きまわり落着かぬ様子であった。バス停まで母を送って行った姉弟は、バスがずうっと遠くなるまで走って走って、とうとうあきらめた。やっと小学一年生になった無口な小さな弟は悲しい目をしてバスを追っていたので、かわいそうで私が泣くわけにもゆかなかったのだ。むしろふり返りもせずにバスの客になった。母の方がどんなにか切なかったであろう。

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 その日から父と子どもたちとの生活が始まった。さすがの父も子どもたちが心配だったのであろう。慣れない手付で朝晩私どものめんどうをみた。母とはまるでちがう父にとまどうこともあったが、うれしいこともあった。ある時など小さい弟がいじめられたと泣いて帰ると「なんだ、いくじなし。いじめられて泣くやつがあるか。何くそこんどはみていろと思え、ようし、父ちゃんが剣道を教えてやろう」と言って木刀をかまえた。一・八メートルの父が木刀をかまえて立つと実に立派であった。「先ず立った時に相手にすきをあたえないように立つんだ」と父はまるで仁王のようであった。骨格が美しく気品みなぎる父であった。日常生活にはうとい父ではあったが、奥深くで炎えていて遠くをみつめているようなところのある父であった。弟たち二人は木刀をかまえて父の前に立ち、うれしさをかみころせずにニーツとした顔付であった。それをみつめる私も何ともこそばゆく晴れがましかった。祖父は数馬、父は静馬、上の弟は靖馬、そして克馬であった。

 父は旧制松中時代剣道部に所属し、父が主将を勤めた年に大阪で行われた全国大会で優勝したことがあるという。父の自慢話のひとつであった。どんどん相手をうちたおし、とうとう優勝した時のお話はへたな講談よりずっとおもしろく、まるで父の姿がみえるようであった。そして千葉周作やその弟子山岡鉄舟がどんなにすぐれた剣術家であったか、自分はその流れをくんでいるのだという長い話であった。父の本棚にはいつも「高師山岡鉄舟」という本がたてかけられていたが、ふうん、そういうお話だったのかと納得したものである。

 父の一番得意な話は旧制中学時代の松本城での真夜中の肝だめしのことであった。父は小学校からすぐに中学に入ったので同級生は年上が多かったという。それでもひけをとらずにいたずらを働いたというのが父の自慢のたねであった。昔の旧制松本中学は松本城のすぐ東にあり、ほとんどの生徒が寮生活をしていたようだ。松本城も今のように整備されておらず茫々としてまさに荒城であったと言う。荒城の月ならぬ新月の真夜中に上級生の番長のところへ皆で集まった。すると番長は「……うしろで何か気配がし、生あたたかいものが首にふれたような気がした。ぞっとしてふりかえるとそこには女の髑髏っ首が夜目にも白くうかんでいた……」などと怪談をするのだそうだ。それから番長は用意した紙縒を皆に一本づつ引かせ、その順番に一人またひとりと出掛けてゆく。真っ暗闇の松本城の天辺までだ。さすがの父も一番にあたるのだけはいやであったという。弟が思わず聞く。「それで父ちゃんはいけた?」すると父は答える。「あたりまえだ。父ちゃんは強かったから、自分の名前の書いてある紙縒をちゃんと約束のところまでおいて来たさ」それがいつものきまり文句であった。小さい弟が聞く。「それでおばけは出たの?」「父ちゃんのところへは出なかったさ。おばけは心が弱いとちゃんと見ぬいて出るのさ」「ふーん」こんな調子であった。

「さあもう寝るんだ。便所に行ってこい!」そう父に言われて姉弟は現実にかえり、こわいので束になって中庭のお便所まで行った。その間父はひとりで碁盤をひろげ、パチン、パチンと石をおく。その姿は何となく近寄りがたく、また孤独にもみえた。それでも私たちは何となく安心して眠ったものだ。そんなふうにして毋の居ない夜が何とか過ぎ去っていった。

 夏休みも近づいたころであったと思う。ある晩、私たちが眠くなる時間になって、父はほろよいかげんで帰ってきた。何と手には荒縄でつるしたおばけのような大きな口の魚を持ち、もう片方には五升ほども入ったお米の袋をぶらさげていた。「さあ、倫子、今夜はナベだ。あんこうはナベには一番だ。さあ、ナベを用意しろ。父ちゃんが魚はじょうるから。おい、靖馬、克馬、炭をおこせ!」それからおおさわぎで季節はずれのナベであった。父はまな板の上でターン、ターンとおばけのような魚を切る。私は野菜を洗う。真夜中に近いころになってようやくナベは煮えてきた。「さあ食べろ。倫子、靖馬、克馬」父が号令をかける。「どうだ、うまいだろう。さあ食べろ食べろ」そしておおきなどんぶりにどーんと盛ってくれた。

 ほんとうに久しぶりのナベはおいしかったのだが、姉弟は母が居ないのと、真夜中のパーティが何だか妙に淋しくて、父が号令をかければかけるほど泣きたい気分であった。私が先ずめそめそと泣き出した。すると小さな弟も泣き出した。父は「何だ、せっかくうまいものを食べて泣くやつがあるか。ぱかめ。それ父ちゃんが歌うぞ」と言っていつものを歌った。「都の西北、早稲田の森に……」父の顔も汗なのか涙なのかてれてれ光っていた。歌っても歌っても景気がつかなかった。

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