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太陽の子


追想蓮池正弘 

太陽の子


 桐ケ谷の葬祭場の控室で私のすわったテーブルに次郎の姿がみえたので私は彼に声をかけた。
「なんというつまらない弔辞なのだ。すこしも君の心を感じない弔辞だった」
「いや、あれは」
 彼はちょっとあわてて、あれは指導員全員で考えたものであり、たった一晩で書き上げなければならなかったのだと言った。しかし私はなおも言った。
「あれは国会議員の演説と同じで、なにも言っていないことなんだ。あんな弔辞でおれはがっかりしたよ」

 死者を送り出すすぐれた弔辞に出会うことなどなかなかないものである。しかし私か次郎に期待したのは、どんなに貧しくても稚拙でもいい、そこに彼の内部から削りとってきた言葉を聞きたかったのだ。
 そのとき次郎も崇も正一も小学生だった。まるでぴいぴいとひよこが親鶏にまといつくように蓮池にむらがり、時には蓮池商店のアルバイトなどをして、蓮池への傾斜をふかめるばかりだった。次郎はしばしば母親に感嘆の思いで言ったものだ。
「あの人は本当の男だな。男のなかの男だよ」

 そんなにまで慕っていた次郎が、ある事件を契機にして蓮池からばたりと遠ざかっていく。その当時の父母会は酒のみ集団だと陰口がたたかれたり、会議といっては子供の悪口で始終するというちょっと人を寄せつけぬような黒い雰囲気があった。そのことへの反発であったかもしれないし、激しく親や大人を憎む反抗の季節をむかえていたということであったかもしれなかった。もはや次郎のなかで蓮池は落ちた偶像になってしまったのだった。

 そんな過去を知っている私は、次郎が弔辞を読むときいたとき意外な思いに打たれたのだ。次郎はもはや蓮池に最後の言葉をかける人間にふさわしい男ではないのではないのか。それとも次郎は帰ってきたというのだろうか。かつて蓮パパ蓮パパとまといついていたときのように、最後の土壇場になって戻ってきたというのだろうか。

 それこそ蓮池が待ち望んでいたことだった。彼は一度たりとも次郎にたいする愛情を捨てたことはなかった。どんなに次郎が蓮池を憎み蓮池から遠ざかろうとも、いつも父親のようなやさしい視線を彼にむけていたのだ。ときどき次郎のことが話題にのぼることがあった。そのとき蓮池はなんだか息子に捨てられたようなさびしい表情をするのだった。その次郎が帰ってきたのだ。私はちょっと息をのみ次郎の放つ言葉に耳をそぱだてた。

 しかしそれは見事なばかりにそらぞらしい言葉であった。からっぽのなんにもない言葉であった。およそ蓮池という男を知らない人間の放つ言葉だった。次郎は帰ってきたのではなかった。

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 もうずいぶん昔のことだか、あるとき次郎は私にこう言ったことがある。
「太陽はぼくのものです」
 私はいかにも彼らしい表現だなと思いながらききかえした。
「君のものなのか」
「そうです。ぼくのものです」
 と彼は傲然と言い放ったものだった。
 しかしそれならば次郎と同じで意味で、太陽少年団はまた蓮池のものでもあった。彼の家に沢山の太陽のキャンプ資材がおかれたままになっていたように、彼のなかでは一時も途切れることなく太陽への熱い思いが流れていたのだ。

 それはどのくらい前だったろうか。八幡湯の前にある居酒屋でビールを飲んでいたときのことだった。蓮池は日本経済新聞から無造作に破り取った不動産の三行広告を私に差しだした。それは千葉県の剣埼の後方に横たわる山林だった。何坪だったろうか、とにかく広大な山林が三百万円で売りに出ているのだ。
「セキさん、こいつを調べてくれる。よければおれはすぐにでも買うよ」

 そのころ私たちはクラフトクラブという小さなクラブをつくって、ほそぼそと活動をつづけていたがその活動を新しく展開させるために、どこか山のなかにわれらの拠点がほしいなと話していたのだった。そういう基地ができると子供たちも参加ができ、いっきに活動は広がっていく。蓮池はその話しにその切抜き記事をもって応じてきたのだった。
「一日歩いてもまわりきれないほどの広さらしいよ」
 と次に会ったときに私はみんなに言った。そのとき金井兄と丸山兄もいたはずだった。私たちの会話はぽんぽんと打ち合うピンポン球のように弾んでいくのだった。

「規模雄大な話だね」
「その山林のなかに川が流れているそうだ」
「飲めるのかな」
「それはきれいな川だそうだ」
「キャンプができるな」
「山小屋だって作れるよ」
[木はいたるところにあるわけだからね]
「高校生だったらもう丸太がかつげるよ」
「あいつらにそういう体験が必要なんだ」
「太陽青年団だな」
「おれたちもまだ青年だからね」
「そうさ。おれたちは三十で年をストップしてしまったのだ」
「そう。おれも三十で年を止めたんだ」
「木を伐りだして、毎年一軒づつ小屋を作っていく」
「太陽の村ができるな」
「橋も架けなければならない」
「道路からだいぶ深く入ったところらしいがね」
「道をつけなければならないということだな」
「そこはみんなで人海戦術だよ」
「それがまた楽しいんだな」
「チェンソーがいるな」
「スコップに、オノに、ノコに、一輪車に」
「小型のダンプやショベルカーが欲しいところだ」
「当然、電気はきていないわけだね」
「そうなんだ」
「すると風力発電でも作らなければだめか」
「水力発電だっていいのだ」
「いいな」
「いいね」

 ちょっとくたびれはじめた自称青年たちは、そんな会話をほらふき男爵のように吹き鳴らすのだった。しかしその土地は、のちのちまで蓮池にくやまれるのだが、私たちの手には入らなかった。その三、四年後に東京湾横断橋のプロジェクトが具体化され、あのあたりの土地は急騰していくのだ。あのとき買っていたらおれたちは億万長者になっていたというわけだ。

 それから一年ほどたってからだろうか。例のクラフトクラブがひとまず終止符を打っていたから、私たちが会うのはひさしぶりだった。蓮池はそれが私に一番に伝えたいことだと言うように、
「千葉に土地を買ってね。そこを自由に使ってよ」
「海が近いわけ」
「九十九里だよ」
「ああ、凧あげにいったあの海岸だな」
「畑をつくてもいいし、テントをはってキャンプをやってもいいし」
「丸太小屋だってできるじゃないか」
「馬であの海岸を走りまわるってことができるんだ」
「サアーフインだってシーカヤックだってできるな」
「夏だけじゃなくて冬の海もいいんだね。これがまた」
「大自然、なまかじりというところだね」
「それはいいとこよ」

 さらにまた一年くらいたってからなのだろうか、その土地に家を建てたというのだ。その間取りを説明したあとに、
「自由につかってくれていいよ。とにかく海は近いし」
「森の学校ではなく、海の学校だな」
「合宿したっていいんだ」
「そうだね。長期の合宿ができるな」
「凧あげとか、釣りにでるとかね」
「ロッキングチェアーづくりをはじめたりね」
「クラフトだね」
 そして私たちはまたあれもやりたいこれもやりたいと話しを弾ませるのだった。
「いつでも鍵をわたすよ」
「それはうれしいな。しかしそれは森の学校の子供たちではなく、やっぱり最初にまず少年団の子供たちを連れていくべきだよ」
「だめだね。ぜんぜんのってこないよ」
 と吐き捨てるように言った。なにやらもう少年団を見捨てたような言い方であった。しかしそうではなかった。彼が一番その土地に引き連れていきたかったのは少年団の子供たちであったのだ。そのことをちょっと隠すかのように、
「なんといっても土地だからね。こんな金利の安い時代には」

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 蓮池は太陽の活動をもう一つ深い段階におしすすめることによって、太陽が突き当たっている限界や停滞を打ち破ろうと考えていたのだった。例えば最も大きな行事にキャンプ活動がある。テントをたて、薪を割り、火を起こし、飯盒で御飯をたき、ファイヤーを囲んで踊ったり歌ったりと、山のなかの四日間はまたたくまに過ぎていく。しかしこの活動も十年も続けていると、そこに停滞とマンネリが生れてくるのは当然だった。なにもかもわかっていることの倦怠。なにもかもがスケジュール通りに展開していくことの退屈さ。初期のころの突きぬけていくような感動も、ぎらぎらした刺激も、はげしく向上していくような喜びもしだいに稀薄になっていく。

 かつて彼が体験したような熱く充実した季節をもう一度よみがえらせるために、蓮池は自然のなかにひろがる太陽の土地とでもいうものを購入しようとしたのだった。その土地にテントを張るだけの夏ではなく、そこに本物の小屋を建てようというのだ。子供たちは成長していく。その成長に応じてその活動は次第に高度になっていく。中学生になるともはや丸太がかつげるのである。あの大きな、重い丸太が。そして高校生になると屋根の梁を高くかかげた本物の丸太小屋に挑むことができる。そして父母たちがいた。父母たちものその活動によってよみがえなければならなかった。子供と青年と大人たちがともに汗をながす熱い夏がはじまるのだ。蓮池は太陽の活動はもう遊びの季節から創造と建設の時代に入るべきなのだと考えていたのである。

 もう一人の太陽の子である次郎もまた痛烈に倦怠を感じていたのだった。彼が再び太陽の活動に戻っていくためには、彼を燃やしていく充実と刺激がなければならなかった。そこで崇や正一と語らって品川センターづくりという活動を展開していく。次郎は子供たちをひきずっていくことにかけては天才的なアジテーターだった。燎原の火のように仲間をかきたてて、品川センターは一つの結実の時をむかえる。それは太陽からのばされた一つの可能性の木であったのだが、蓮池は一貫してこのセンター的な活動には冷淡であった。彼は一度もその活動に理解をしめすことはなかった。そんな蓮池をセンターづくりに立つ人たちは、視野のせまい人間であり、開拓や変革をきらう保守的封建的体質な人間であったと非難をする。しかしそうなのだろうか。彼は視野がせまかったのだろうか。現実におりていく知性も、さらに荒れ地を開拓していく勇気にも欠けていたのだろうか。

 なるほど蓮池はこむずかしい議論が苦手であった。だからといって彼に知性がなかったわけではない。それどころか驚くほどの深さでことの真実をみつめることができる人間であった。そしてまた彼ほど変革を望んでいる人間は太陽にはいなかった。いつも「自分にできることしかしません」と自身にカセをはめながら動くべきときはしっかりと動いていく。彼のそういう果敢な行動が少しも戦闘的にみえなかったのは、あたりの非難や批判をビールの泡で打ち消しながら進むというたぐいまれな人格の持主だったからである。実際蓮池には、彼が動くと一つの現実が動いていくという不思議な存在感があった。

 蓮池の像を刻もうとするとき、このセンターの問題に対して彼がどう批判していたかを書かざるをえないのだが、しかしいまこのことに触れることを止めておくことにする。それは彼の批判があまりにも深く正鵠をついているためであり、なにやらゆらゆらときわどいところに立っているセンターに打撃を与えかねないからである。さらにセンターづくりにかかわる人たちの誠実な努力をみるとき、いたずらに批判を放ってことを荒立てることを蓮池は望んでいないからだ。しかしこのことだけは書いておかなければならない。それは次郎たちが新しい地平に立とうとくり広げたセンター的な活動(これをセンター理論とよぶことにしよう)よりも、蓮池の思い描いていたことのほうが(これをセンター理論に対比して蓮池理論とよぶことにする。なぜ大袈裟に理論などと名づけるかというと、現実を切り拓いていくにはわれらを導くすぐれた理論が必要だかであるが)はるかに未来を開いていく力を宿しているように思えるのだ。

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 それは私がまだ少年団とかかわっていたころのことだったが、蓮池とはよくこんな会話を交わしたものだった。
「まったく高校生になるとがらりと変わってしまうからね」
「そうだね。もうガキのようなことはやってられないということだね」
「やることがたくさんあるからな」
「そうするとやっぱり、太陽青年団か」
「むずかしいがね」
「しかし、もし彼らを残らずひきこんでいくには、やっぱり青年団ということなんだとおれは思うね」
「まあ、そうだね。村にかならず青年団というものがあったからね。橋をなおしたり、道路を広げたり、お祭りを企画したり」
「青年団は村を支えていく役割を担っていた。社会を担うための準備をそこではじめていくわけだよ」
「丸太をかつがなければならないんだな。重い、本物の」
「そうだな。丸太だな」
「おれたちは丸太が好きだね」
「うん。好きだ、好きだ」
「もう本物の丸太をかつぐときかもしれない」
「そういうことだね。少年団はまだ一度も大きな現実と戦っていないと思うんだ」
「とにかくこれからだというときに、受験だ、受験だと、どっと抜けていくわけだからね」
「これからなんだよ。ほんものの活動がはじまっていくのは」
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカという映画があるんだよ。十二年をかけてつくったというちょっとすごい映画なんだが、これが一種の少年団物語なんだあ」
「それはみてみたいな」
「教育ママたちがみると度胆を抜かれる話だけどね。少年たちがつるんで大人の社会をぶち破って彼らの世界をつくりだしていく。それこそ体をはってね。若者って本来はそうあるべきなんだな」
「そういうものはないね。なにかを企む力がない。ましてそれを実行に移していく力なんてさらにないと思うね」
「いかにうまくこの社会に溶けこんでいくかだけなんだ」
「少年団っていうのは、いろんなことを企める場なんだよね。だから高校生や大学生になればもっと大きなことを企んでいいはずなんだ」
「やることは沢山ある」
「面白いことは沢山あるんだ」
「それなのに勉強、勉強で大切なものをみんなつぶしていってしまう」
「ほんとうにそうだな」
「勉強ができるなんてことは、社会にでればこれぽっちも通用しない世界なんだけれどもね」

 青年がすべきことは沢山あった。親の絆から解き放たれて、自分の金で、自分の足で、自分の責任で歩きはじめなければならないのだ。バイクに乗りたかったら親がどう言おうと乗ればいいではないか。どうせ今の親はできるだけ一流の学校一流の会社に入りなさいという低俗な価値観しかもっていないのだ。何日も何十日もかけてツーリングの旅にでればいいではないか。もしみんなで映画をつくりたいと思ったら、知恵と体力を駆使して金をあつめて過激なドキュメンタリーフイルムでも作ればいいではないか。そこにいけばいつも仲間に会えて何時間でも話しこめる溜り場が欲しければ、みんなで喫茶店を作るという活動をはじめてもいいではないか。今日の教育はどこか間違っていると思うならば、まず塾をつくりそこから新しい学校づくりをはじめていってもいいではないか。

 若い時にはまったく金にならない、むしろ赤字を背負っていくばかりの夢想に身も心も奪われることが必要なのだ。理想を背負うということはひたすら赤字を背負うということでもあるのだから。しかしやがて現実がじわじわと攻め立ててくる。家庭をもつと一気に現実の底に投げ出される。そこにはさらに沢山の問題があらわれてくるのだった。住居の問題が、保育所の問題が、ゴミの問題が、食品公害の問題が、職場の問題が、賃金の問題が、組合の問題が、環境汚染の間題が、通勤の問題が、税金の間題が、第九条の問題が、土地の問題が、老人の問題が、転職の問題が、教育の問題が。この世はまったく問題だけらなのだ。青年が取り組まなければならないこと山ほどあるのだった。

 青年とはこの社会を変革するために世に放たれたのだった。しかしいまこの世に送り出されてくるのは去勢された青年ばかりだった。牙を抜かれたやわで柔順な青年ばかりだった。今の社会が世を変革していこうなどという青年を求めていないからだ。ただひたすらこの社会にするりと巧みに溶けこんでいける青年が、いま日本が求めている青年像だった。日本の経済がうまくいっているからだった。日本は世界に金をふりまく大国家になったからだった。しかし日本人はそれにみあうだけの豊かさを獲得したのだろうか。ぶくぶくと太り巨大になっていくのは組織と機械と技術だけではないのか。逆に人間はいよいよ小さくいびつになっていくのではないのか。こういう社会がうみだしていくのは成金的人間だけではないのか。

 少年団もまたこういう人間をうみだすことだったのだろうか。こういう社会にあっさりとのみこまれていくやわな青年しか生れていかないのだろうか。そうではなかったはずであり、そのことはだれよりも青年自身が感じていることだった。どこかこの社会に溶けこめない、どこか心をゆるせない社会だという思いがずっと青年の底に流れているはずなのだ。だったらどうして戦いをはじめていかないのだろうか。戦いという言葉が過激であるとするならばこの社会に抵抗するための、いやその抵抗という言葉も大袈裟だと言うならば、青年がもっとも青年らしくできる砦といったものをどうしてみんなで築いていかないのだろうか。そこで慯ついた心をいやされ、ふたたび現実に立ちむかっていく勇気をえる場所を。

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 ようやく蓮池の全貎がみえてくる。彼がなにを訴えようとしていたかが。彼の愛した太陽にのこす遺言といったものが。私は彼に代わって太陽少年団の団員たちによびかける。君たちがいま立っている太陽という土地を心をこめて堀り起こせと。誠実に情熱をこめて耕していくのだと。そしてもこうも呼びかける。朋子よ。宏康よ。彩よ。直紀よ。佐知子よ。芽衣よ。友紀子よ。一大よ。由美よ、ゆみこよ。明人よ。修よ。桂子よ。良久よ。智広よ。剛よ。なな子よ。紀子よ。英明よ。真よ。純子よ。直美よ。恵よ。隼人よ。司よ。友和よ。清実よ。誠よ、めぐみよ。友子よ。君たちのなかの一人でも二人でもいいのだ。かつて正一や崇や次郎がセンターづくりのときにしたように、夏のぎらぎらとした陽が降り注ぐなかを、汗をたらたらと垂らしながら一軒また一軒と歩き、わたしたちは青年団をつくりたいのですと歩きまわるのだ。くやしいことがある。つらいことがある。打ちひしがれて絶望に沈みこむときもある。そんなとき蓮池はきっと君たちにささやきかけるにちがいない。挫けてはいけない。立ち上がれ。もう一度歩きはじめよと。

 もし太陽青年団ができれば、やがて太陽中年団だって生れていく(中年団の方ははやくも太陽勝手団となって結実の気運がある)のである。そのとき太陽はちょうど実が土にかえりまた新しい芽をふきだしていくように、一つの生命体のサイクルを完成したことになる。そしてその中核となる青年団がいきいきとした活動を展開していくとき、太陽はこの地上にまったく新しいかたちの市民による市民のための市民の国を誕生させたことになるのだ。

 私は二階の病室に蓮池を訪ねた。それが彼との最後だった。
「まいったよ。こんどは」
「そうだろうな」
「病気というやつにかかったのは風邪ぐらいだったからね。それだって仕事を休んだことなんて 一度だってなかったんだ」
「うん。だからさ、神様がいま君に休憩を命じたんだよ。ちょっと休めって。いままでずうっと走ってきたんだから」
「神様か」
 となにか不思議な言葉でもきくように言った。
「また出てきたらはじめようよ。なにかをさ。なにかぞくぞくとするようなことをさ」
「中年の夢か」
「いや、青年の夢だよ。おれたちは三十で年をストップしたはずだ」
「そうだね。おれも三十でストップしたんだっけ」
「おれたちはまだ沢山のことをしなければならないんだ」
「そうだね」
 蓮池は笑った。しかしそれはさびしい微笑みだった。それからしばらくとりとめのない話をして、私は立ち上がり彼の手を握った。彼は強くにぎりかえしてきた。
「まだまだ力はありますからね」
「うん。大丈夫だ。はやく出てきてくれよ」

 私はそのとき信じて疑わなかった。彼が生還してくることを。それはこれからはじまるさらに長い人生のための、しばしのオーバーホールの時間にすぎないのだと。

 しかし彼は再び舞いもどってしまった。刻々と漏れ伝わってくる話しは、いよいよ彼の終末が近づいていることを語っていた。私の心は重く暗くなるばかりだった。妻がしきりに、はやく見舞いにいかなければ時期を失うのよと非難する。しかし私はうじうじとためらいつづけた。神が与えた休息の時間なのだという嘘いつわりの言葉をもう彼とは交わしたくなかった。彼の肉体は刻々と破壊されていく。彼はそんな姿を他人にはみせたくないはずだとも思った。

 私は半年前に癌に無残にむさぼられ屠られた叔父を目前にしたばかりだった。確実に癌が肉体をむさぼり続けていく。しかもすさまじい痛みに日夜さいなまれている人間に、がんばってくれなどということに強い疑問をもっていたのだ。私は結局彼を再び病室にたずねることができなかった。
 葬儀のあとでしみじみと戸田大兄と話していたとき、大兄はそんな私を非難するように、蓮池との会話のなかに何度か私のことが爼上にのぼったと言った。そのときやっぱり私は会いにいかなければならなかったと思った。さらにまた大兄のあの蓮池の別れ方をみて、おれは駄目な人間なのだあと思うばかりだった。

 いま振り返ってみるとき、私はいつも蓮池を裏切ってばかりいたようだ。私がつくりだしたのかあるいはまきこまれたのか、ある不快ないざこざに見舞われて二度と太陽の活動にかかわるまいと自分を禁じていたこともあった。しかし彼が千葉の山林を買うといったとき、その話に乗ることをためらわれたのは、金がからんでくるとおれたちの関係は複雑になるからなあという思いであり、さらにまたあんなに何度も誘われた海辺の小屋を一度も訪ねることがなかったのは、暴れまくる子供たちをつれていったら、あちこち傷つけて後が大変だからなあという思いがよぎったりしたからだった。しかし蓮池はそんなことを気にするけちくさい男ではなかった。彼はもはやはっきりと知っていたのだ。人間は富や金をせしめていくことによって生は満たされていくのではなく、与えることによって、あるいは返すことによって深く充足していくのだということを。

 人間の評価というのは何を成し遂げたかにあるのではなく、何を成し遂げようとしたかにあるのである。蓮池にとって少年団とは、ふつふつと彼のなかに湧きでてくる最も美しい思い、それを理想とよぶならば、彼の理想を実現させるための場だった。その場に子供たちがいた。大人たちもいた。彼の理想とはそこに集う人たちと生のきらめきと生の充実をつくりだそうとしたのだった。性別や、年齢や、職業や、考え方のちがいを乗り越えて、人はなにかをはじめていけばともに生のかがやきにつつまれるのだと。彼はまことに太陽の子であった。

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