見出し画像

ウェッブ・マガジン「草の葉」    12月25日創刊

特集
飯舘村を地球の中心にしていくプロジェクト

美しき日本の大地をわれらの世代が汚してしまった。飯舘村もまた死の灰で汚されてしまった。村民は二年で帰還できると村外に避難していった。しかし避難生活は二年どころではなかった。三年、四年、五年と人々を苦しめるばかりの星霜が流れ、六年目にやっと避難指示が解除され村民はわが村に帰還できるようになった。
しかし今日まで村に帰還した人は村民の二割にも及ばない。しかも帰還した人々は高齢者ばかりで、限界集落どころではない。これでは村は機能しない。なぜ八割をこえる村民が帰還しないのか、なぜ若者たちの帰還が絶無なのか。それはこの村を襲った悲劇があまりにも深く、とうてい村民だけで担えるような悲劇ではないのだ。
なぜ汚された地に住む人々だけが、この巨大な悲劇を担わなければならないのか。なぜ汚された地に住む人々だけが、生木を裂かれるような人生を歩まなければならないのか。われらの世代が美しい大地を汚したのだ。この悲劇はわれらすべての日本人が背負わなければならないのではないか。
若い新生の村長が誕生した。青年よ、飯舘村をめざせ!

画像1

特集
飯舘村に溌剌とした新村長が誕生

いいたて9

飯舘村長として、初めてのご挨拶を申し上げます。
まずもって私は、このふるさとの再生と発展のために全力を尽くすことを皆様にお誓い申し上げます。
これまで国、県、被災自治体、そしてこの飯舘村は、「復興」を目指して様々なことに取り組んできました。しかしながら、気づけば「復興」が、行政が主体となって語られる言葉となり、いつしか復興を実感すべき「住民」自身が置き去りにされて来ていました。誰のために、何のために取り組むのか、目指すべきものを見失ってはいけません。
私はここに明言します。 私たちが目指すべきものは「明日が待ち遠しくなるような、わくわくする楽しいふるさ」です。
この「わくわくする楽しいふるさと」の実現のために、五つの政策を掲げたいと思います。

一 生きがいと生業の力強い再生と発展。
二 健康で生き生きと楽しく暮らせるふるさとづくり。
三 情報通信技術(ICT)による新しい村づくり。
四 ふるさと資源のフル活用。
五 生き生きとした学びの場を育む。

一つひとつの政策の主役は「ふるさとの担い手」です。ふるさとの愛着を持ち、前に向かって力強く進んでいくことの楽しみ、喜びをともにするすべての方のことです。ここにうち外の隔てはありません。
村民の方一人ひとり、村に関わるそれぞれの方々が「ふるさとの担い手です。皆さまお一人お一人が、飯舘村という真っ白なキャンパスにそれぞれの想いを描くことが「わくわくする楽しいふるさと」を育みます。
他に類を見ない、誰もがなしえたことにない「明日が待ち遠しくなるような、わくわくする楽しいふるさと」を、ともに実現しましょう。
どうぞよろしくお願いします。      飯舘村村長杉岡誠


福島県飯舘村村長に無投票で初当選した
杉岡誠(44)

空から雪とともに放射能が降ってきた。誰も経験したことがない、物理でもなかった事態が手間も続く」十日、当選後の記者会見で話した。「放射能の基礎知識を生かして、次に何ができるか、判断していきます」
福島県飯舘村村長選挙で候補者はほかになく、は無投票当選。六期務めた現職(73)に代わり27日に就任する。「私たちの世代が解決に向かって進んでいくという覚悟を決めた」と世代交代をめざす。
人と会った時、合掌する。村で六代続く浄土真宗の寺の住職でもある。「ありがとう。心の中でも両手を合わせるておかげさまの姿が、私の強みでもあると思う」
東京生まれ。中学に入る前、飯舘村の住職だつた祖父と養子縁組をした。高校で元ロケット技術者の恩師に憧れ、日大理工学部物理学科へ。さらに東工大大学院で原子核物理学を学んだ。
その一方で寺を継ぐため修行をして高2で僧侶になり、頭を丸めた。寺を支えてくれた村人らへの「恩返し」と25歳で飯舘村役場に入り、選挙前まで19年勤めた。
原発事故で放射能汚染にみまわれ、避難指示が解除されて3年半。人口はなお震災前の2割の1400人余りで、避難者の帰還が大きな課題だ。
「天明天保の大飢饉で、村はほとんどの方が死に絶えたが、ここまで復興した。200年先を見据えながら取り組みたい」
朝日新聞「ひと」より転載

画像2

特集
われらの友は村長選挙から撤退した

雄大な物語を次なる村長となって歩いていく
舘村村会議員、佐藤健太さんへの手紙

ていす

私たちのグループが、飯舘村から紹介された家屋を賃貸するか、あるいは一気に購入するかという決断の直前までいったが、さまざまなことを勘案するとき、まだ機が熟していないという声が湧き立ちひとまず撤退することにした。しかしそれは捲土重来の撤退であって、もっと我らの力とエネルギーをたくわえて再度立ち向かうという撤退だった。飯舘村の悲劇は限りなく深い。安っぽい付け焼刃程度の力やエネルギーで立ち向かえる悲劇ではないのだ。

飯舘村に帰還した村民はいまだに千人そこそこ、しかも高齢者ばかり。そんな村をあなたは村会議員となって背負っている。もっとも若い村会議員だ。あなたの自宅を飯舘村再生のプランを携えて訪れたが、その山間に広がるあなたの一族が興した工場に目を奪われた。そこに雄大な物語があった。その物語は確実に飯舘村復活への道につながっていく。あなたはおそらく、その雄大な物語をつぎなる飯舘村村長となって歩いていくのだろう。

飯舘村は農業と酪農によって支えられてきた村だった。飯舘村の復活とはこの農業と酪農を再び取り戻すことだった。しかし私たちがたずさえてきた再生のプランの骨子は芸術だった。原発爆発によって飯舘村に降り注いだ死の灰は、さらに数十年村を苦しめる。この苦しみが村を締めつけているかぎり、青年も子供たちも村に帰ってこない。どうすればいいのか。芸術だった。いまこそ芸術の力が問われていると思っているのだ。あなたはかつて演劇活動もしていた。そして柔軟な思考が、芸術で村を再生していくというプランに共鳴し共感してくたれた。そのとき話題になったのが、加川広重さんの絵画だった。

村外からさまざまなクリエーターたちが飯舘村にやってきて、それぞれの手法でその悲劇を描いたり、語ったり、映像にしたりしている。そんななか加川の創造は格段に深く、深刻であり、大きな挑戦だった。彼は縦五メートル六十センチ、横十六メートル四十センチの大画面に、飯舘村の悲劇を描いたのだ。飯舘村の再生は、この絵の挑戦を受けて立つことから始まるように思う、ここから私たちの戦いを始めることができる、それが携えてきたプランの骨子の一つだった。
 
加川はすでにこの巨大な絵画を十点以上描いている。彼の画業をみるにはそのすべての絵画を見たい。しかしそれらの絵を展示する場所がないのだ。数年前、ミーシャの十数点の大画面が六本木の国立美術館で展示されたが、そこならば可能だ。しかしほとんど無名の若い画家の作品など国立美術館は洟もひっかけない。日本には彼の作品を展示する場所がどこにもないのだ。いや、一か所だけある。飯舘村だ。飯舘村ならば、彼の全作品を展示できる。
飯舘村には三つの小学校──草野小学校、臼石小学校、飯樋小学校が立っていた。その小学校はいずれも閉鎖されたままだ。さらに農業高校も廃校にされる。これら閉鎖されている学校の体育館を展示会場にするのだ。巨大な大画面が四つの学校の体育館にずらりと展示される。もしその展覧会が挙行されたら、日本中が彼の絵を見にやって来るだろう。ここから村の再生と復活の戦いを始まる。青年たちが村に帰ってくる。子供たちもまた村に帰ってくる。

《飯舘村・村長選挙》村議会議員の佐藤健太さん(38)が出馬の意思を表明

2020年10月の任期満了に伴う福島県飯舘村の村長選挙に村議会議員の佐藤健太さんが出馬の意思を表明した。飯舘村長選挙に出馬する意思を表明した佐藤健太さんは飯舘村出身の38歳で3年前から村議会議員を務めている。会見で佐藤さんは世代交代とともに所得の向上を目指した農林業や商工業の再生などに取り組むとした。
佐藤健太さん「今、避難によってバラバラになってしまっているコミュニティの再構築、それからひとづくりもやり直していかなければならないだろうと」
避難指示の解除を巡って議論がされている帰還困難区域の長泥地区については、住民の意見を聞いた上で考え直す必要があると話した。
現時点で飯舘村長選挙への出馬を表明しているのは佐藤さんだけで、現職の菅野村長は態度を明らかにしていない。飯舘村の村長選挙は10月18日に投開票の予定。
福島テレビ報道転載

飯舘村村長選挙佐藤健太氏が立候補を断念

10月に任期満了を迎え、飯舘村の村長選挙は現職の菅野典雄村長が引退を表明し、村会議議員の佐藤健太さんと村の元職員の杉岡誠さんが立候補を表明していたが、このうち佐藤さんが立候補を断念する意向を固めたことがわかりました。テレビ福島の取材に対して、佐藤さんは「 世代交代を訴えたが、現職の村長が引退を表明したことで、目的は達成した。若い世代同士でぶつかりあうことは村のためにならないと考えた。今後は村会議議員として活動を続けていく」と佐藤さんは語りました。テレビ福島より転載

画像9

特集 
径(こみち)書房創刊の言葉  原田奈翁雄
 細い道です。もちろん幾多の曲折も、時にけわしい岨道もあって、しかしどこまでもつづく道です。昔は、けものみちだったかも知れません。けものたち、そして人問たちの足が、永い時をかけて踏み分け、踏みかためた道、それが径です。けたたましい車の、まして戦車などの通る道ではないのです。私たちもまたその道を歩みつぎます。歩んで、先人、同時代の人びとの、すぐれた仕事にに出会いたい。生きる知恵と勇気を分ち与えられ、狭いとらわれから、みずからのたましいを解き放ちたい。その仕事にたしかな形を与えて、読者、あなたに手渡したい。‥‥‥この道であなたに出会うために、ともによりよく生きるために、いささかなりとはたらくことができるならば、こんなにありかたいことはありません。径(こみち)書房

特集
一千枚の原稿を「草の葉」に託して世を去った菅原千恵子さん
「草の葉」と菅原さんとの交流が始まり、彼女の作品が「草の葉」で連載され、一千枚になんなんとする大作が投稿されたりしたが、その数年後に御夫君から葉書が届けられた。「妻千恵子は数十万人に一人の難病を患い、読み書きが不能になりました。これまでの妻とのご交誼、深く感謝いたします」。やがて訃報が。彼女は驚くべき本を私たちに投じて立ち去っていった。私の手に一千枚の原稿を託して。
 その一千枚の作品をまずウェッブ・マガジン「草の葉」に一年をかけて打ち込もう。そして「草の葉ライブラリー」で刊行だ。

特集
愛しき日々はかく過ぎに       菅原千恵子
私は自分を書きながら、いつか我らが世代を書いてみたいと思っていた。私達の育ってきた時代こそ、日本が大きく変化したときと重なっていて、今日の日本が抱えている良いところも悪いところも、実はそこにあるように思えてならないからだ。個人的な体験と感覚が、果たして普遍的な人間の問題として描けるがどうか、多少不安もあるけれど、好むと好まざるにかかわらず、絶対多数として時代に産み落とされた私達がどんな思いで時代を走ってきたかは、やはり書かなくてはならない。

画像4

特集
英語教育をコペルニクス的転換させる「草の葉メソッド」
この体系を根底から転換させるメソッドが登場しました。草の葉メソッドです。これを地道説英語教育体系と名付けましょう。それは白が黒になるような、夜が昼になるような、山が海になるような、天地真っ逆さまの百八十の転換です。文法英語教育禁止です。英語教師は生徒たちに文法を教えてはならない。英語の時間は生徒たちが英語のボールを打ち合うテニスコートになるから、英語教師はテニスコートの管理人という地位に下落します。

特集
「草の葉メソッド」の入門編、初級編、中級編、上級編

画像8

特集
沈滞した下町を復活させた地域雑誌「谷根千」
「三号雑誌にはなるまい、三年続けよう」という思いで創刊し、いつの間にかここまできました。しかしこの数年、継続できる最低ラインの七千部を割り、回復できずにいます。そこで、定期購読の節目である二年八冊を責任をもって刊行し、九十三号を最終号とすることにしました。
 長く購読を続けてくださっている皆さま、本当にありがとうございます。もう少しです。ぜひ最後まで見届けて下さい。今後二年間、今までの資料を整理し、聞き書きを充実させ、精魂込めて「谷根千」を作ります」

特集
沈滞した町を復活させた山崎範子の世界
彼女の書く文章には鋭い切れがあり、その対象を捉える視線は深い。それでいて、その文章はあたたかく、読む者を幸福にさせる。彼女は上質のエッセイストとして、独自の世界を作り出していける才能をたっぷりともっているのだ。草の葉ライブラリーで間もなく山崎範子著「谷根千ワンダーランド」が刊行される。

画像9

特集
チャタレイ裁判の記録
これが猥褻文書として糾弾されたロレンスの英文。あなたはこの英文をどのような日本語で紡いでいきますか。

特集
1940年の反乱
ユニクロに革命をもたらしたジル・サンダーとは何者なのだ
11月13日(金)、ユニクロとジル・サンダーのコラボ、「+J」プラスジェイが発売と同時に売り切れになった。いったいこのジン・サンダーというデザイナーはどのような人物なのか。

画像9






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?