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少女の夢 2  酒井倫子



 風の又三郎との出会い

 昭和二十年、疎開先の田舎には何ごともないように春がめぐってきた。家の前の田んぼには一面にれんげ草が咲きみだれ、蜜蜂がぶんぶんとうなっていた。私たちはその中をころころころがって遊び、花の冠をこしらへたりした。野原のお姫様のような気分だった。学校も元気で通った。朝は必ず近所のT子さんが「リンコさ!」といってさそってくれたものだ。私たちは、もんぺに筒袖の簡単服、背中に綿入れの防空頭巾をしょって学校へ通った。はきものは母が夜なべしてつくってくれたモスリン入りわらぞうりであった。疎開っ子の私は皮膚が弱く、普通のわらぞうりだと、鼻緒のあたるところが赤むけになった。そこで母の苦心の、特製モスリン入りわらぞうりとなったわけだ。

 受持のO先生は、まるでフランス人形のように色白で美しく、ぽちゃっとした皮膚には銀色のうぶ毛が光っていて、休み時間になると、先生のまわりは子どもでじゅずなりとなった。特に男の子たちは遠慮もなく先生の腕をなでてみたりして、まぶしそうにその顔をみあげていたものだ。私はどちらかというと、じゅずなりの外にいて、先生に慣れなれしく出来る仲間たちをうらやましく見ていた。

 勉強といえば教科書もなく、ノートらしいものもなく、私たちは裏の白い紙ならば何でも綴って、自分で罫をひいて書きとりノートに使った。O先生は宿題ノートを提出すると赤い大きな三重丸を下さったうえに、毎回必ず赤インキで何ページも美しい罫線をひいて返して下さった。私はうれしくて、うれしくて、またきれいに書いて提出した。当時ノートにも困っていた子どもは私ばかりではなかったと思うが、先生はだまって子どもたちにやさしさを下さったのだ。間もなく終戦を迎え混乱の中ではあったが、私どもはまるで「二十四の瞳」を地でゆくような豊かな小学生時代をすごしたのである。
先生は国語の時間といえば貧しく何の楽しみとてない私たちに、お話や読み聞かせをして下さった。「足ながおじさん」や「少公子」や「家なき子」など沢山のお話に出合った。そして特に悲しいお話になると、ひとり泣き出し二人泣き出し、おしまいには「えん、えん」と大合唱になった。そんな時先生は「あなたたちが泣くから私まで悲しくなるじゃない!」と大きな瞳からポロポロと涙をこぼされた。

 宮沢賢治の「風の又三郎」に出合ったのは四年生、思えば先生に受持っていただいた最後の年であった。ある日、世界の名作などとくらべると異色とも思える「風の又三郎」の読みきかせが始まった。

どっどど どどうど どどうど どとう 青いくるみも吹きとばせ すっぱいくわりんも吹きとばせ どっごど どどうど どどうど どとう……

 の出だしのリズムに私はすっかり心をうばわれた。私たちが野をかけめぐるとき、あの夏の青い風に立ち向かって進むとき、耳もとをかすめてすぎ去る風の音。どどっど どどうど どどうど どとう‥‥‥。私の心の中にはげしく共鳴したのだ。

 芳川平田というところは、西に北アルプス、東に東山の山脈を一望でき、家から東へ一キロメートルのところに悠々とした田川の流れがあった。街道をはさんで家の前には水田用のせぎが両土手の草をぬらして流れ、そのむこうを南北に汽車が走った(中央線)。そこは私たちの遊びの舞台であった。学校が終るとそこで近所中の子どもが群れて遊んだものだ。川原へもよく遊びに行った。家の裏の桑畑と草地を通りぬけると櫟や楢の雑木林がひろがり、林の中には水草の繁る湿地もありそこをグチャグチャと越えると、川原へと続く松林へ出た。そしてひんやりと心地よい砂の道をぬけると突然目の前がひらけ、白い石ころの光る川原であった。流れを二分する中洲もあったし、とげでごつごつしたさいかちの茂る青黒い渕は子どもたちの秘密の水あび場でもあった。都会育ちのひよわな少女にとっては川原へと続く道のりは冒険に満ちていた。がき大将の継子ちゃんや近所の田舎っ子の群におくれまいとわくわくしながらついてまわり、日に日に行動範囲を大きくしていった。

 夏休みが終り、いかにも初秋を感じさせるあの物語の導入部は、私たちの日常とぴったりであった。そのころは流動的な社会情勢で、家庭の都合で学期の途中でもお別れしてゆく子や、新しく入って来る子もいた。そういう子は何だか特別の存在にみえてうらやましかった。だから転校生高田三郎はまったく興味深く、お話の世界と現実とが混沌とした。嘉助のように私も、高田三郎は「風の神の子」にちがいないと思い、いつ、どんなかたちでその姿をあらわすのか、寝ても覚めてもそのことばかり気になり、わくわくして続きを待ったものだ。そして二百十日にやって来た三郎のことをいろいろに想像した。何故お父さんとたったふたりで来たのだろう。お母さんはどこに住んでいるのだろう。優等生のにおいのする三郎のことをまるで自分の同級生の一人のように知りたくて仕方がなかった。今思えば賢治は三郎にあまり生活のにおいを持たせず、多くを語らず読者にミステリアスな又三郎を印象づけていたのだ。賢治のお話の展開のうまさに目をみはる思いである。

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 ミステリアスといえば、私の父の生涯である。父は私が十八の時五十五歳で他界し、今さらそのルーツをたどることが出来なくなってしまった。しかし私が大人になりだんだんと人生を深める年令になってから無性に父が懐かしく思われる。エンジニアであった私の父は戦後公職追放となった。明治三十二年生まれの父は、学生時代大正デモクラシーのただ中で青春時代をすごしたようである。今でも「父の柳ごおり」は有名で、どこへ行くにも柳ごおりをしよい歩いたその中には、マルクス、エンゲルスがしっかり入っていたという。その後日本がどんどん侵略戦争の歴史をたどり軍国主義一色にぬりつぶされる中で父は戦争反対をとなえ続けたという。学生時代にはよく「ブタバコ」に入れられ、その都度祖母が見受けに行ったという。第二次世界大戦でも父が戦争にとられなかったのは「非国民」であったためだったのであろうか。時々祖母が「あれは世の中に害毒を流すものだ」と母に語るのを小学生のころ聞くともなしに聞いたことがある。けれど父の真実を父自身から聞くこともなく、父のルーツは私の中で大きな疑問として残ってしまった。

 戦後は商人の才覚もない父が一攫千金の夢をみたのかブローカーのような仕事に手を出し、うまくゆかなくなったり、秩父山脈あたりで鉱脈を探し歩いたこともあったとか、子どもであった私にはさっぱり理解できない日常で、家に居ることも少なく、三人の子どもを現実にかかえてた母の苦しみは並たいていではなかった。叔母の家の田や果樹園の仕事を手伝わせてもらって、その日暮らしの毎日であった。父の仕事の失敗も手伝って母の心労はたえることがなかったようだ。たまに家に帰った父と夫婦げんかの末、家を出てゆくという母に、私たち姉弟はすがりついて泣き、結局母は夫を捨てることは出来たとしても、三人の子どもをすてることは出来なかったのだろう。

 このことは後でくわしく述べたいが、そののち母も苦労の末、父の亡くなった翌年、四十七歳で突然その生涯を閉じてしまった。ようやく十九歳になった私を頭に三人を残して。けれどもその時私は、天国の父が淋しくて愛する母を迎えに来たに相違ない! と思ったのである。その思いがあまりにも強かったため残された淋しさはなかった。父も母も日本の歴史の中で志ざしなかばで人生を終えることとなり、今平和な時代に生きている私は、時として父母の痛みのようなものが突然私のなかで大きくひろがることがある。そんな時、もしかすると私は父母の人生ももらって生かされているのかもしれないという感慨に覚えたりする。戦後五十年の今、すでに五十七歳となった私は、父よりも母よりも長く生きているのだから‥‥‥。

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「風の又三郎」はどんどん読み進められた。おかしな転校生三郎は、又三郎とあだ名がついて、少しづつ地元の子どもたちの仲間入りをしてゆく。そして「九月四日 日曜日」の出来事はおこったのである。
 晴れたおだやかな日曜日、村の子どもらは一郎の兄が草刈りをする上の野原へ遊びにゆき、少年たちは「土手から外は出るなよ。迷ってしまうとぶづど危ないがらな」という兄の云いつけにもかかわらず、牧場の柵の丸太棒をはずしてしまったため、嘉助と三郎は逃げ出した馬を追って上の野原をさまようことになる。どこをどう走ったのだろうか。嘉助は馬をおう三郎の姿を見失い一人天候の悪くなった野原をさまよう。急変した自然のおそろしさに精神までおぼつかない極限状態におちいった嘉助は気を失って倒れてしまう。その時ガラスのマントを着た又三郎が目の前にいた。又三郎はひらっと飛び、ガラスのマントがキラッと光った。

 賢治は多くの少年たちが登場するこの物語の中で、特に嘉助に感性のすぐれた少年、神童を演じさせている。聞き手である私は嘉助の視点を通して「風の又三郎」に出合うという体験をした。この物語の舞台「上の野原」とは何がおこっても不思議ではない神聖なる場所、即ち魔物の支配する異界であり、時には人の生命さえおぼつかなくし、またいつもは見ることもできないものが見えるところでもある。嘉助に限らず子どもたちは、ぞっとするような自然を体験しながら成長してゆく。ここに登場する不思議な力やみずみずしい感受性を持つ少年はまさに賢治その人であり、賢治こそ自然からの、宇宙からのメッセージをうけとることの出来る数少ない人であったのだ。
小学校四年生で体験した「風の又三郎」の感動は、私を文学好きな多感な少女に成長させた。また、大人になってからも私の人生をつきうごかすエネルギーとなった。本ものの感動とはそういうものではないかと思う。

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