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唐牛健太郎 悲哀の感覚  西部邁


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 唐牛と私は通り一遍にいえば親友の関係ということであり、周囲もそうみなしていたのであるが、あえて自分の実意にこだわってみれば親友というよりも、信友の関係と呼ぶのがふさわしく、もし死者にも発言が可能ならば、唐牛もその方を選ぶであろう。自分の弱味を哂すようなことは断じてすまいという暗黙の約束が成立っているとき、人間関係はそう親密ではおれない。越えることのできない距離があるという思いは、否応もなく、ある種の冷やかさを彼我のあいだに発生させる。だから、私たちが幾度もなした喧嘩には、傍のものには親友の痴話と見えたのかもしれないが、相手の背骨に手をかけんばかりの死活の真剣さが多少込められていたのである。今現在も、唐牛について語るとなると、そうした穏やかならぬ気分に誘われる。しかも、死者の民主主義を奉じる私としては、唐牛の真意をも代弁しなければならず、必然、一人二役でこの冷たい関係を演じなければならないのであるから、とてもそこらの雑誌の「唐牛健太郎伝」において見かけるような安穏な語り口とはいかない。

 自分らのささやかな精神の城を厚い障壁で囲んでいはしたのだが、彼も私も相手の弱点についてはよく承知していたように思う。そこに誤解が多々含まれていたのだとしても、付合いが二五年にわたって維持されるとなると、誤解にもそれなりの重みが出てくるわけである。相手の弱点を窺い見たと思うとき、友人同士の会話に厄介な荷重がかかりはじめる。つまり、相手の発言が虚勢なのか実勢なのかを、さらには両者のどの程度の混合なのかを、逐一見分けなければならなくなる。自己の弱点を隠蔽するような発言は虚勢であり、自己の弱点を見すえたうえでの発言は実勢である。ひと誰しもこの虚実のあいだで平衡を保つよう努めるものであろうが、唐牛も私も、その努力の成否について、どちらかといえば鋭敏な判断力をもっており、おまけに、その判断を辛辣に表現してしまう癖を持っていた。もっと正確にいうと、他所では鈍感かつ温和に振舞うことができるのに、二人が顔を合わせると、しかもかならず酒を相伴させているというのに、そうはいかぬという設定になってしまいがちなのである。

 私が唐牛のことを信友と呼びたいのは、このような設定のなかで彼が律儀なまでに平衡をめざしてくれたからである。その精進ぶりにはどこか人間の真実を決して欺くまいという構えが見てとれた。ここで真実というのは、想像力が果てしなく不安定に拡がっていくという人間の可能性の次元に対して尽きせぬ関心をよせながら、同時に、生き抜くためにはさまざまの拘束に服従しなければならぬという人間の現実性の次元に対しても徹底した注意をはらうという生の根本的課題のことである。そして、この際疾い作業のなかで、あくなく平衡感覚を鍛えることである。この課題に取り組む際の知力、体力そして胆力において、私の友人知人のなかでみるかぎり、最も信じうる能力を持ったもののひとり、それが唐牛である。私は自慢してみせたいのだが、彼がそうした人間であることを早期に見抜いていた。そして、私がそう思っていることを唐牛は知っており、それが彼の辛い人生に対する、ほんの僅かとはいえ、励ましになったであろうと思いたい。少なくとも私の側からいえば、六〇年安保のあと、社会的存在の様式としてどんどんかけはなれていくばかりであった唐牛と私のあいだにあって、私のなしえた唯一の励ましは、彼のかかえた真実をくもりなく理解することだけなのであった。

 思い返せば、奇妙とも当然ともいえるのだが、相互にこのような錯綜した心理ゲームをやりつづけながら、私たちはまともな言語ゲームをほとんどなにひとつなさなかった。馬鹿話の連続の挙句、ほんのちょっとした言葉のもつれから、「うるせい馬鹿野郎」といいあって別れ、数年後にまたなにくわぬ顏で馬鹿話をはじめる。おおよそそんな光景であった。その意味で、酒という生の精は私たちに沈黙をもたらしたのではないかと思う。ところが、癌細胞が唐牛の肉体を喰い荒して死の影がどんどん強まっていった最後の一年間、私たちは、むろん照れ気味ではあったものの、言語ゲームをやりはじめた。できるだけユーモラスであろうと心掛けつつ、金、女、政治、文学、学問など思いつくまま話題にした。私たちのあいだにも安らいだ会話が可能なのだと知ったのは、私には、そしてたぶん唐牛にも、心楽しいことであった。

 彼の死の十日ぐらい前のことであろうか、癌センターの病室で暫しのおしゃべりのあと、私は喫煙室に行き、そして唐牛に別れを告げようと病室にもどった。唐牛は上半身を起こして、膝の上に給食を置き、頭を垂れていた。これが最後の出会いになるとも知らずに、「じゃ、また来るな」と私は声をかけ、それに対し唐牛はかすかに身をゆすって応えた。癌の激痛が襲っている模様であった。戸口でもう一度振り返ってみると、春の西日をあびて、まぎれもなく死につつまれた人間の孤影がシルエットのようにうかびあがっていた。私は息をのんで一瞬立ち止まり、そして、なにかに追われるような気持で街の雑踏のなかに逃げ込んだ。以下に描いてみたいのは、唐牛の賑やかな人生の裏側にいつもぴたっと寄りそっていた孤独というものについてである。彼が、終生、他人の眼にさらすまいとはかった悲哀の感情についてである。私の見たあの西日のなかの孤影は、唐牛の人生の裏面にほかならないのではないか。実は、私の視線はずっと唐牛の裏面ばかりを向いていた。それでおぼろに思いうかべていた唐牛の孤影があのとき不意にありありと眼前に出現して、私は息をのんだのである。その孤影を言葉で描くのが私の仕事であって、戦後の英雄列伝の末席に彼をのせるというようなことは私にはできない。

あさ9


 生活


 青木昌彦と私とで宇都宮刑務所まで唐牛に面会しに行ったことがある。唐牛が田中清玄の事務所に籍を置いて間もなくであり、また青木が東大の大学院で近代経済学の勉強をはじめたあたりの頃であるから、一九六二年の夏場と思う。東北線の車中で、青木は、唐牛が庶子であること、そしてそのことをめぐって「語るも涙、聞くも涙の物語を唐牛の奥さんの和子さんから教えられた」ということについて語った。和子さんは唐牛の母親のきよさんから知らされたのだという。刑務所ではひとりしか面会が叶わぬということがわかり、青木が会いに行った。私は、待合室で、そうした関係にある母子が、一方は函館で他方は関東の刑務所でどんな思いに至るものであるか、たぶん少しは想像をめぐらしたにちがいないのだが、記憶が定かではない。あるいは私にそういう心の余裕はなかったのかもしれない。唐牛とともに連座した一・一六羽田事件には執行猶予がついたが、私にはまだ六・三首相官邸事件と六・一五国会事件が残っていた。自分はいずれ実刑になって獄に下るだろうと確信しながら、毎日を無為に暮すという結構疲れる生活をしていたのである。三人を宇都宮につなげたのは、一切の政治党派から離れたものたちがこれから独りびとり勝手な方向にころがっていくことに関する連帯の挨拶のようなものにすぎなかったのであり、それ以上の心の働きは、少なくとも私に関するかぎり期待すべくもなかったようだ。

 しかしそれ以来、時が経つにつれてますます、唐牛がその背に庶子の悲哀とでもいえるものをひそかに負っていると私には見えはじめた。「唐牛にはそうした生いたちからくる暗さはなく、生まれついてヒマワリの花のような明るさを持っていた」というような評言を私は何度か眼にした。間違ってはいないが表面的にすぎる観察といえる。酒と歌と革命を愛した男として唐牛を描くのはあまりにもオールドーボルシェヴィキ流であり、またあまりにも凡庸である。唐牛は濃い暗闇をかかえて生きていたのであり、彼の示した明るさの半分は天性のものであろうが、あとの半分は自己の暗闇を打消さんがための必死の努力によってもたらされたものである。彼の明るさには心の訓練によって研磨された透明感のようなものがあり、その透き通ったところが私には寂寥と感じられた。

 他人から露悪や被虐と受け取られることを厭わずになんでもかんでもを話題にのぼせたあの唐牛が、自分の生い立ちについては一言もなかった。周囲がそれを知っているということを彼は知っているのに、ついにそのことについて述懐せずにおわった。私はそれを、唐牛の母親に対する敬愛の念とみるようになった。だから、癌と闘っていた最中、ある女性が芸者の職業を称賛するようなことをいったとき、彼が「おめえらに芸者の気持がわかってたまるか」と怒鳴って酒席をひっくりかえしたというのはよく腑に落ちる話である。誤解されないよう念を押せば、唐牛はそうした生い立ちに劣等感を持つような人間ではなかった。庶子の悲哀あるいは暗闇と私がいうのは、母子のあいだで世間の尺度では測れぬ質量の愛情関係をもってしまったものに特有の精神の型、つまり語り得ぬこと伝え得ぬことがあると骨の髄から知ってしまった人問の生に対する構え方のことである。

 北海道大学に入るとすぐ、「学生運動なんかしゃらくさい、労働運勁だ、と思って上京した」という唐牛の言を幾人かの評論家が真にうけている。言葉に対する軽信というものであろう。あの時代、あの函館の温泉街で育った一八歳の人間が政治についてそういう種類の判断を下し、しかも入学したばかりの大学を離れるまでの固い決断に到達するわけがない。「あなたの東京行きは私の過去となにか関係があるのでしょうか」という母親の手紙が、おそらく、正鵠を射ているのである。そして、高校時代における唐牛の恋愛、つまり同じく庶子に生まれ育った女性とのおそらくは幼い恋の顛末もそこに介在しているのであろう。

 故人の秘密をさぐりたくてこんなことをいっているのではない。唐牛の言葉遣いの方法をわからなければ、彼の言葉の片言隻句を集めて唐牛伝なぞ物しても無駄だといいたいのである。そしてその言葉遣いはブント流表現のひとつの典型をなしていたのであった。たとえば、四・二六事件で唐牛は、「恐れることはない。諸君、障碍物を乗り越えて、一歩一歩進みたまえ!」と叫んで装甲車から機動隊のなかに飛び込んでいったという。世人はその姿に若さのエネルギーをみて拍手喝采する、あるいは罵詈讒謗をあびせる。世の習いとはいいながら残酷な光景ではある。私には唐牛の疲労や枯渇やの一切が手にとるように伝わってくる。その日、私は池袋でトリュフォーの『大人はわかってくれない』という映画を観ていたので、現場には居なかった。逮捕される時期を延ばすためである。しかしそれでも、当日の唐牛の情熱が虚無に裏打ちされていたであろうことを疑わない。中垣行博はいっている、「俺が装甲車を越えて向うがわに出たら、唐牛が私服警官の列の方へ足をひきずって歩いていき、そして逮捕された。その寂しそうな姿のことが忘れられない」と。はしなくも、装甲車の前と後で唐牛の心情の表と裏が演じられていたのである。

 唐牛の場合がひとつの見本であるように、政治にかかわった人間の人生はいつも悪しき政治にもとづいて語られる傾向にある。つまり人生の表面だけをわかりやすい定型によってとらえようとする。たとえば、田中清玄の仕事を手伝っていたとき、唐牛が「俺は野良犬になる」といえば、「奴は市民生活を捨てた、立派だ」とか「奴は市民社会から捨てられた、駄目だ」とかいったような評価が寄せられる。下らぬ評価である。無頼になり切るには知的にすぎ、知的になり切るには無頼にすぎるという二律背反に挟撃されている、それが唐牛の実相である。彼はその挾み撃ちの前でたじろがずに、与えられた条件のなかで、決断をなしつづけたのである。二律背反を生きるという人間の根本問題に、その正誤などはさておき、休まずに解答を与えるよう努めたという点において、唐牛の人生になにひとつ特別のものも異常のものもありはしないのである。

 彼の与えた解答は、結果としては、社会の庶子となるということであった。ブント派全学連の委員長になったこと、田中清玄に協力したこと、新橋で飲屋をやったこと、与論島で土方をしたこと、紋別で漁師になったこと、徳田虎雄の選挙参謀をしたこと、それらのすべてが社会的認知をうけにくい種類の事柄とみなされた。そうみなされることを承知のうえで、唐牛は社会への同調ではなく社会からの逸脱の方を選んだ。だが、それらは本当に逸脱なのだろうか。私の知るかぎり、唐牛の選んだ途は彼にとってほとんど避けることのできない行程であったと思う。「政治は個人的心情の賭事だ」と唐牛はいったそうである。まったくその通りで、政治的実践にかぎらず、日常的実践も認識的実践もふくめて、生の全局面が本質的にそうしたものなのだ。しかしそのことは文字通りの意味での選択の自由を意味しはしない。庶子にうまれっていたのがいかんともしがたい宿命であるのと同じように、唐牛にあって賭事の種類も規則もおそろしく限定されたものとして現れていた。彼はそのせまくるしい賭場に素直に赴いて賽を振ってみたまでのことである。

 「餌にとびつく人生」という言葉がある。唐牛は、私もそうなのだが、餌にとびつく人生というものにたいし、戯れつつも、生まじめに取り組んだ。たとえば、新橋で一杯飲屋をひらいたことを世間は唐牛の無頼もしくは酔狂として取沙汰した。しかし、それも唐牛にとっては不可欠の餌なのであった。それまでの数年、私は彼と音信が途絶えていたので詳しいことは知らぬが、唐牛が千円の金にも窮する生活をしていたことをあとでまわりのものからきかされた。その直後、私は唐牛と再会した。ちょうど全共闘が暴れていた時期、酒と花札と駄法螺をまじえて、三〇歳をこえたばかりの男たちが五、六人、あるときは暴発し、ほかのときはのたうつといった調子で毎夜を過していた。私のような貧乏人がスポンサーにならなければ酒席が成立しないという夜も少なくなかったのだから、みんな餌に飢えていたのである。

 全学連委員長になって上京して以来、唐牛が飢えから解放されたことは一度もなかったといってよいだろう。この方面の問題について、ブントの連中は酷薄なまでに相互扶助の精神をきらった。みんな自分のことで精いっぱいだったともいえるし、相互の自立を重んじたともいえるが、もっとざっくりいえば、自分のことしか考えぬエゴイストが大半だったということである。さらには、かつての同志が社会の階梯を滑り落ちていくのをみることに、いわば自己安堵の快感を感じるものもかなりいたというのが私の判断である。唐牛なんかと付合っていてもろくなことはないぞ、という忠告を私はなんどもきかされた。これが人間社会の残酷な現実であり、ブントもまたその例外ではありえなかったというだけのことであろう。また、滑り落ちた人間およびはずれた人間のがわからいえば、ひとたび革命や自由のことを口にしたからには、自分の不遇について不平を口外する権利はなにひとつない。これが過激派政治の鉄則である。唐牛は、全学連委員長であったという一事によって、この鉄則の一番手の適用例になるほかなかったわけである。

 六〇年代の前半、二番手か三番手かははっきりしないが、私もまたそうした適用をうける立場にあった。私は、自分の砕けた破片を拾い集め、張り合せようと心に決めた。そして万が一そういう機会がくるものならば、社会という名の坂をよじのぼってみるのも悪くないと考えていた。そして、そうした試みが失敗に帰したら、北海道にわたる以前の先祖の地であるらしい北陸で農夫にでもなろうかと夢想していた。そのとき唐牛は、田中清玄に近づいたことを最初の一歩として、次々と社会からずれていく径路、少なくともそうみえる径路を選んでいた。むろん、どちらでもよいのである。唐牛の漁師的やり方と私の百姓的やり方のあいだに優劣の差も善悪の差も美醜の差もないと私は思っている。結局は、うまれついての性分が岐路において作用したのだろうとしかいいようがない。

 ただ、ひとつだけ気になることが残る。私には両親と兄妹がそろっていた。帰ろうと思えば帰れる家族の小宇宙というものがあったのである。唐牛にないものが私にはあった。実際には、家族がなにか計量しうる効力を発揮するのは、貨幣とか権力によってであり、私の家族はそういうものとは無縁である。しかし、家族があるという感覚それじたいが、人生のぎりぎりの地点で効力を発揮するのだと私は思う。孤独の深さや大きさが画然と異なってくるのである。呑気に惰眠をむさぼることのできる場所があるかどうかが決定的な作用をおよぼすような人生の局面というのもあるのである。唐牛の場合、家族の規模は極微であり、しかもそこには哀切の情が抑えようにも抑えがたく充満していたはずである。そうした事柄に思いをめぐらすとき、それが幸運なのか不運なのかは解釈次第というわけだろうが、唐牛が人並ではない悲哀の感覚にとらわれていただろうことに無関心でおれなくなるのである。

 唐牛の一周忌に、情報収集というおおいに気のすすまぬ仕事をかねて、函館へいってきたときのことである。彼の高校時代の同級生にあたるある女性が「横浜に唐牛さんのお孫さんがいるんですって」と問いかけてきた。唐牛の語り口を想い起こしながら、私は「それはまったくの嘘です」と答えた。彼女は、「やっぱり」と認めつつも、「でも、あれだけ真剣に、なんども孫の話をされれば、本当かなと思っちゃうわよね」と呟いていた。卒直にいって唐牛は、あのように生きあのように死ぬことによって、三つの家族を破壊した人間である。母親のきよさん、最初の奥さんの和子さん、そして次の奥さんの真喜子さん、それぞれの女性が彼を愛し、信じ、許しつづけたと思われはするものの、世の常識的基準からいって、つまり観念的には拒否しえても時間の経過とともにじわっと襲いかかってくるあの基準からみて、癒しがたい傷を負ったと思われる。唐牛は家族という最小単位の社会からもずれる種類の人間であった。しかし、その喪失、その欠落を補おうとする唐牛の意欲も、孫の話を虚構するというような幻想形態においてであるとはいえ、激しいものがあった。

「真喜子がお産のために与論島から京都へ帰る途中、船が台風にあって、死産してね。俺は子供のために鹿児島に墓をつくったんだ」と、唐牛がぽつりぽつりとした口調で話す。私の妻は、「台風の季節に妊婦を船にのせるなんて、なんていうことをしたの」とすっかり気を高ぶらせている。「うん、失敗だった。俺は阿呆だからねえ」と唐牛は神妙にしている。数年後、私たち夫婦が真喜子さんとも友人になってから、この話が嘘だとわかった。真喜子さんによれば「健太郎の悲しい物語なのよ」ということである。
 
 唐牛は餌にくいつきながら、社会の端へ端へとずれていった。しかし、そのほとんど必然のコースはつねに彼独得の物語によって色付けされていたのである。ブントにおいては、政治を賭事とみなした。清玄事務所では、野良犬として生きることの人生美学を語った。与論島にむかう際には、言葉は腐るというランボー風の物語をつくった。紋別では、自然との闘いというドラマをつくった。そして癌との闘病においては、死を嘲笑する勇気という物語を懸命に語ろうとした。自分の人生を物語の系列として構成しようとするこうした営みは、ともすれば自己劇化さらには自己正当化のにおいを呈しかねない。実際、ジャーナリズムの取材に応えるという脈絡におかれたとき、唐牛の言動にそのような傾斜がかかったことは否定できないであろう。ジャーナリズムがその傾斜をいっそう急勾配にしたのはむろんのことである。

 しかし、唐牛の信友としてどうしても弁護しておきたい点がふたつある。ひとつは、唐牛のつくった物語のほとんどが現実のものとなりおおせることなくおわったのだが、それはある意味で致し方ない話だという点である。唐牛の現実界はきびしく閉ざされており、そんな窮屈な世界のみでは彼は生き切れなかった。死の二年半前、コンピューター会社のセールスマンの仕事が暗礁にのりあげていたとき、私にしては珍しく彼に文句をいったことがある。朝方まで飲み、路上に立看板を横たえて、そのうえで寝るというようなことがつづいているというからである。なにものかにたいする怒気をたっぷりとふくんだ酔眼で私を睨み、彼は「うるせえ、死ねばいいんだろう」とはきすてた。唐牛の現実界はおおよそこのように薄氷のうえをすべっていたのである。虚構の物語であれ希望の物語であれ、そのほかなんであれ、なにかの物語をつくらなければ呼吸も叶わぬ次第であったろう。コンピューター会社では彼流の物語が創作できなかったのである。要するに、唐牛の物語は見果てぬ可能界に想像を馳せるためのものであって、現実界はそれとして残酷に進行していたということである。

 弁護したいふたつめは、平凡な物言いをあえてするが、唐牛の物語は六〇年安保の全学連委員長という十字架のうえに刻まれていたという点である。それがちっぽけな十字架であることを彼は承知していた。しかし背負ってみれば、当事者でなければわからぬ重みがあったのだろうと推察される。また、苦痛の種ともなれば快楽の種ともなるその重量感に親しんでいるうち、その十字架は彼の肉体の一部に化さんばかりになっただろうとも推察される。唐牛は委員長にふさわしい生き方を追い求めていた。六〇年安保が昔話の一項目にくくられる時期になっても、なおもそれを追い求めなければならないのが彼の宿命であった。自分の気性、能力、環境条件などを吟味した結果として選んだのが、あるいは選ばされたのが、「ずれていくスタイル」である。それ以外のスタイルを彼はみつけられなかったのだ。委員長としての恰好をつける仕事において彼は合格点をあげたということなのだろう。そのような仕事にたいしどんな社会的評価が与えられるにせよ、仕事が与えられれば、それに精出すのが彼の流儀とみえた。もっとも私個人にかんしていえば、唐牛がどれほど恰好を失おうともまったくかまわなかった。私の彼にたいする関心は主に彼の暗闇の領域にむけられており、明るみのなかで彼がなす演技の意味は、私のものもまたそうであるように、自明の領域に属していたからである。

 長崎浩は、唐牛が「ぶらぶらしつづけた」のは「世代の暴力」によるのだ、といっている。本当にその通りだ。もっといえば、直接に手を下したのはブントである。高校時代は無口な文学少年で、北大時代は僻地で子供を教えることを私の兄と語らっていたような、母親思いの変哲のない青年に十字架を背負わせたのはブントである。むろんこんなことは、歴史とはたいがいそんなものなのだから、いったとて詮ないことではある。しかし、世代および組織の暴力にかんする最低限の自覚すらない唐牛評がこの二五年間につもりにつもったという事実を前にしては、十字架を背負ったもののパッションについて再度注意をうながしたくなるわけである。

 パッションとは情熱であるとともに受苦である。「船の上で、狂暴な漁師が中学を出たばかりのがきを苛めるんだなあ。俺がそのがきをかばえば、喧嘩になり、港につけば喧嘩の延長戦さ。五分も殴り合えば、こっちも年だから疲れはてて、ぶっ倒されて踏んづけられて、鼻血がだらだら、気を失いながらパトカーがピーポーピーポーと近づいてくるのをきいていると、おい西部、パトカーのサイレンてのはきれいなもんだぜ」。こういうやり方が唐牛の情熱であり受苦である。この話が嘘か真か、誇張か控え目か、そんなことはどうでもよい。いずれにせよ、唐牛の精神の型とはそうしたものであった。彼の生活がその精神の型をほとんど職人の器用仕事のようにして彫りつづけていた。情熱という能動的行為と受苦という受動的行為のあいだで平衡をとろうとする彼の生活術は、ちょっとした変換をほどこせば、たとえば私の仕事である文章にも通じるものである。その意味で、唐牛という死者は私のなかでまだ生きているといわなければならない。

あさ9


 政治


 政治、といえるほど大袈裟なものではないが、とりあえず私たちが二五年前にやったことを政治とよぶならば、私の場合、政治における唐牛との接触はほとんど皆無である。集会や会議で袖擦りあうことはあったが、直かに対面するという形で政治について語ったことはないのである。その理由は、ひとつに、共産党との闘いのために私が東大教養学部(駒場)を離れることが難しく、いきおい、全学連書記局との関係が疎遠になったということである。ふたつに、私は当時の書記長でいまは中核派の最高幹部であるらしい清水丈夫と、お前ら精神的ホモ・セクシャルかと周囲からいわれたことがあるぐらいに仲が良く、私にとって、書記局とのつながりはそれで十分なのであった。

 それのみならず、政治運動の流れに即してみても、彼と私はすれちがいが多かった。唐牛が全学連委員長になった一九五九年の初夏から秋にかけて、私は札幌で無為に暮していた。その年の一一・二七国会突入事件のときは、唐牛は関西にオルグにいっていたとのことである。またすでにのべたように、彼が装甲車をのりこえていた六〇年の四・二六事件のとき、私は池袋の映画館にいた。私が首相官邸や国会へむけてのデモをなんとかかんとか指揮していた五月から六月にかけては、唐牛は巣鴨の拘置所にいた。お互いにその年の末に拘置所を出てから、六一年の春までのブント崩壊期にあっては、唐牛は戦旗派という分派にいて革共同(革命的共産主義者同盟) への移行を画策しており、私は、清水が可哀相なので彼の組織したプロ通派(プロレタリア通信)という分派に所属していたが、要するにブントに最後の時の鐘が鳴るのをじっと待っていた。結局、二人が一緒にいたのは羽田空港の喫茶店においてだけということかもしれない。そこでコーヒーを飲んだというのではない。六〇年の一・一六に、指導者の全員投入というブント中央のおそるべき革命的方針のもと、みんなして喫茶店という袋のなかの鼠になりはてたときの話である。こんな次第であるから、唐牛の政治的側面については遠景しか描けないのである。

 しかし、唐牛と私のあいだにある種の政治的信頼感情が交換されていたことはたしかである。それには同郷の友誼、しかも私の兄が唐牛の友人であったことがあるという友誼も作用していたろうし、また、ブント最高のオルガナイザーであった清水がその感情交換をうまく媒介してくれたという事情も作用していたにちがいないが、それだけではない。気障ときこえるのをおそれずにいえば、アクティヴーニヒリズムを共有するという相互理解が、曖昧なものであったとはいえ、成り立っていたと思う。時期も場所も思い出せないのだが、ともかく安保闘争の途中、「最近なにやってる」と唐牛がきくので、「マルローの『レーコンケラン』を読み直して空気を入れてるところさ」と答えたことがある。彼は「ああ、あれは俺のバイブルだよ」と嬉しそうにしていた。一九二五年の広東蜂起を題材にしたその書物は、私のみるところ、マルローの活動的虚無主義の思想がもっとも濃厚に凝縮されたものである。因みに、「空気を入れる」というのは気力を充実させることで、たぶん清水あたりが留置場から仕入れてきた隠語であろう。

 それゆえ、六〇年の三月の末か四月の初め、ブントの組織に羽田事件で穴があいて空気が抜け切っていたとき、都内の自治会の代表者会議(都自代)で、唐牛が「いまヒットラーの『マインーカンプ』を読んでいる。共産党との闘いをすすめるうえでいろいろ有益である」というような文句を報告のなかにまじえたとき、私にはその真意がすぐ理解できた。それは、アクティヴーニヒリズムを掻き立てなければ切り抜けられないような危機がブントに迫っているということをいうための隠喩なのだと思われた。そのころの私たちに書物をじっくり読む暇も気持の余裕もなかったのであって、『征服者』にせよ『わが闘争』にせよ、ちょっと斜め読みするだけのことであり、それであと一週間を生きるためのイメージが湧けば上出来なのであった。

 唐牛のアクティヴーニヒリズムの淵源がどこにあったか、私の場合を下敷にしてのことであるから大雑把な類推にすぎないが、次のようなことかと思う。まず少数者の感覚というものがあった。少数派は短期においてはかならず敗北するであろうと予感し、そこからニヒリズムへの接近がはじまる。しかし長期においては、少数派の言い分が勝利しないまでも他者に通じるであろうと思い込むことによって、活動へと誘われる。おおよそこんな心理の仕組によって少数派にアクティヴーニヒリズムのにおいがたちこめるのである。

 ただし、少数派の感覚というものにも二種類あって、ひとつはエリート的のもの、もうひとつはアウトサイダー的のものである。唐牛はあきらかに後者に属しており、私も東大生としては珍種といえるぐらいに後者に与していた。なぜそうなったか、知る由もないが、唐牛についていえば、高校二年のとき、それまでの野球部の仲間が「ちょっと恐くて近づけなくなった」というほどにグレたこと、また私については、同じく高校の二年まで、あとで暴力団の幹部になった本格的な不良少年と親友であったことなどを思い起こすと、アウトサイダーへの傾きは生来の気質や幼児期の体験にふかく根差しているのだろうと推測される。むろん、そうはいっても、大学に入って左翼の集団運動をやるわけであるから、局外者の精神といってもたかが知れている。私のいいたいのは、ブントがそうした傾きを秘めていたこと、唐牛がその傾きをいささか如実に体現していたこと、そして私がそれを好ましいと感じていたことにすぎない。

 しかし、安保闘争のあいだの唐牛には、アウトサイダー的の気分が特殊に増幅される要因が、ふたつばかりあったことを認めなければならない。ひとつは、北大生であるために、都内の大学に足場がなく、いわば大衆運動のデラシネとなりがちであったという点である。根無草であるにもかかわらず街頭ではいつも先頭に立たなければならないというのは、ずいぶん不安定な気分であったろうと、いまにして同情される。世人にはわかりにくいかもしれないが、デモ隊が街頭に出てくるまでには、数週間さらには数カ月におよぶ宣伝煽動の活動そして組織化の活動がなければならない。その過程に直接に関与することが少ないというのは、私的には安楽かもしれないが、政治的には不安である。唐牛にあって、その種の不安がアウトサイダーの気分を加速したであろうことは想像しやすいところである。

 ふたつに、全学連のイニシアティヴにたいして東大が依然として大きな影響力を与えつづけており、唐牛はなにほどか外様の地位におかれつづけたという点である。書記局トロイカとでもいうべき、唐牛、清水そして青木の人間関係は、それじたいとしては、支障なくすすんでいるようにみえたが、実際には、清水の卓越した活動力に権力が集中し、少なくとも東大ブントは、本郷にせよ駒場にせよ、清水のいうことならば信頼しようという構えにあった。もっといえば、彼の信友としてはいいにくいことだが、東大の連中には唐牛にたいする軽侮の念が、それほど強いものではないが、ひろくゆきわたっていたと思う。唐牛のもっている非理論的な雰囲気にたいし東大ブントは、そしておそらく早大ブントあたりも、反発しないまでも、心配そうに眺めている気配であった。そういう集団心理の動きをあの敏感な唐牛が察知しないわけがない。激しい運動の連続であったから、そういう政治組織につきものの心理的確執が深刻化する余裕はなかったのであるが、ともかく、そうした意識が運動の流れに密着できないという感じを唐牛に与えたのではないか。

 よくいわれているように、唐牛は「全学連のシンボル」にはちがいなかったが、その象徴には小さくない屈折と亀裂が走っていたのである。またそのことを考慮に入れなければ、六〇年の春に唐牛がなぜあれほどに虚無的に生きていたか、そしてその虚無を発条にして、肉体を言葉に化するような行動へと突っ走りえたかをよく説明することができない。私は、いってみれば東大のなかの唐牛というような立場にいたからわかるような気がするのだが、街頭でアジって逮捕されて裁判所にいく役割のものたちのなかの大立者、それが唐牛なのであった。唐牛はその役割をみごとに果たした。役割を全うしたとて、そのあと組織の支援はなにひとつ期待できない状況にあったという事情を加味すれば、彼の役割完遂は最大級に立派だったといえる。だがそれは、アウトサイダーに特有の「個人的心情の賭事」として実行されたのであって、そうであってみれば、唐牛の心胸にどんな思いが去来した挙句、装甲車にとびのったものであるか、せめて私ぐらいは考えてやりたいのである。

「唐牛のやつ、こんな忙しいときに、金もって箱根にいっちゃったよ」と清水がこぼしていたのは、やはり、六〇年の四月のころだろうか。それをきいても、私は、清水がしんどかろうと同情した以外は、とりわけどういうこともなかった。後年になって、そのころブントが田中清玄から資金援助をうけていたと知らされたときも、その金の一部が箱根で費消されたのかしらんとごく当り前の推理をしてみただけで、どうということもなかった。こうした問題についてはいろいろの解釈が可能だろうが、ぎりぎりのところでなされた行動ならば、私に直接の被害がこないかぎり、気にしないのが私の癖のようだ。私には、むしろ、唐牛の心の虚無のことが、自分もまたそうしたものをかかえていたという背景もあって、思いやられた。四・二六における唐牛の果敢ぶりをきいたとき、それが彼のふかい絶望の証しであると察せられたのはそのためである。

 それゆえ、彼が革共同への移行を率先したのは、ながいあいだ、私にとって不愉快な事実であった。限界的な組織としてのプントにおけるもっとも限界的な人間として、唐牛の政治生命はブントとともに終わるべし、というのが私のひそかな物語であった。私自身もまた、書記局トロイカのいわば弟分にふさわしく、その物語にのっとって行動する腹づもりでいたのである。

 六一年の正月、清水が札幌の我家にやってきて一週間ほど泊っていた。清水も私も、政治についても個人生活についても、なんの展望ももちえず、ほとんど陰惨といってよい有様であった。店牛がちょっと顔を出したが、学生運動における新権力となりつつあった革共同への移行を実現している最中のこととて、意気揚々の感があった。はっきりいえば、傲慢の風情があった。東京へ帰る列車が偶然に同じで、清水と私が座席がなく立っていると、唐牛と篠原浩一郎が食堂車にでもいくのか、通りかかった。私は「よお、唐牛」と声をかけたのだが、二人はお前らなんぞ歯牙にもかけぬといった調子で、見向きもせずに通りすぎていった。たしかに、清水のことはいざしらず、私については歯牙にかけるほどのものではなかったようだ。あえてそのようなものになろうと決意した矢先でもあった。

 私は清水にたいして「政治的に生き延びよびようとするなら、革共同にいくしかない」という話はしていた。そのころの清水は変に私の直観を評価するところがあったので、私の仮定法の話も参考材料くらいにはなったのかもしれないが、間もなく彼も革共同への加入を決心した。私はといえば、すでに五九年の春、ブントに厭気がさして、革共同に加入してみようかと思ったことがある。革共同の連中が四、五人、駒場の矢内原公園にあつまってくれており、そこにむかおうと駒場寮を出たところで、清水に遇った。清水は、誰しもの胸襟をひらかせずにはいないような、あの人なつっこい笑顔で近づいてきた。「この男と訣別したら、あとで後悔することになるな」と咄嗟に判断して、私はブントにとどまった。革共同の人々が呆れ、怒ったことはいうまでもない。そんなこともあって、六〇年のあと革共同にいくことなど私の念頭を横切りもしなかったのである。

 清水は私の会った人間のうちでもっとも純粋な政治人間であるから、彼が革共同にいったことに不思議はなかった。しかし唐牛については不可解なものが残ったのである。彼自身にとっても不可解だったのであろう、一年かそこらで革共同をやめ、清玄事務所に転じた。結局、唐牛の革共同加入について私の思いつくのは次の二点である。ひとつは、唐牛がまじめな人間だったということである。彼は、せめて一度くらいは、共産主義、革命、組織といったような事柄について自力で理屈づけ、自力で方針を捉示しながら行助してみたかったのではないか。青木によれば、「あのころの健太郎は毎日机にむかって真剣だった」と和子さんがいっていたそうである。プロ通派にはなにかをまともに考える力はもうなかった。東大本郷を中心とする革通派(革命の通達)は、宇野弘蔵の経済理論に依拠しながら、革命についての空論を通達していた。唐牛が革命についてまじめに考えようとしたら、とりあえずの寄る辺を戦旗派そして革共同に求めるしかなかったのであろう。

 ふたつめは、平凡なことだが、唐牛はひとりぼっちになるのがこわかったのではないかという点である。北大はすでに除籍になっていたし、彼の生きる基盤は、さしあたり政治的に延命することだけだと考えられたのではないか。また、全学連の委員長ともなれば、私の選んだような虫のように生きるやり方を採用するわけにもいかなかったろう。そしてここでも、帰ることのできる家族すらないという感覚が意識の底に流れていたであろう。だが、どんな動機があったにせよ、革共同が唐牛の住処にはなりうるはずもなかった。要するに、組織の論理がつらぬく革共同はアクティヴーニヒリストとしての唐牛にもっともふさわしくない場所だったのである。

 七五年、紋別の唐牛の家で、夏にもかかわらずストーブを囲みながら、彼と私は例によって馬鹿話をつづけていた。真喜子さんと私の家族はもう寝入っている。彼は三日間の漁から戻った直後で、疲れのためであろう、いつになくはやい酔いっぷりである。私の方も、慣れぬオホーツクの気候のせいで妻と娘が喘息になり、その看病でへとへとといったところで、同じ具合である。両者の心身がどろんと麻痺してしまったと思われたとき、唐牛が不意に、話の脈絡なしに、「俺、革共同にいかなきやよかったな。ありゃ、まずかったな」といったまま、じっと床をみつめている。私の錯覚かもしれないが、唐牛は泣いているようにみえた。私は一瞬、あれから一五年たち、もうほとんど誰もことの次第など憶えていないのに、唐牛の時間は六〇年でとまったままなのか、とびっくりした。私が憶えているということを唐牛は知っていて、そういったのだろうか。それとも、革共同がふたつに割れ、中核派と革マル派が殺し合いをしていることについて、あのとき自分が革共同加入の旗を振らなければ、と悔いるところがあってのことだろうか。それとも、彼独得の潔癖で、アクティヴーニヒリストとしての自画像に小さな汚点がついたことを嫌悪したのだろうか。いずれにせよ、私のいえたのは「ありゃ、仕方がなかったんだよ」ということだけであった。

 私たちが政治をやったといえるのはほんの一年かそこらなのだから、ブントや全学連を背負って生きる必要などなかったのだ、という気がせぬでもない。唐牛自身が、藤本敏夫との対談(朝日ジャーナル、八三年二月一一日)で、「大体、学生運動ってのは、たぶん、かなりくだらないんですね」と認めているのである。また、司会者の「六〇年安保全学連は何を残しはったんですか」という質問にたいして、「そりゃ、何も残らんかった」と答えて、聴衆を笑わしてもいる。そこまでわかっていながら、なぜ唐牛は記憶としてのブントや全学連を、しかも幻影としてのそれらを、ああまで執拗に引受けなければならなかったのか。それがあてがわれた役割の演技であることはすでにのべた。しかし、役割を取得する積極的動機が唐牛のがわにもいかほどかあったと考えるのでなければ、あの執拗さをうまく説明できない。

 彼が意気がり屋であり、目立ちたがり屋であり、寂しがり屋であったということを動機に数えあげるひともいる。それはそうなのだ。しかし、紋別で十年間にわたり黙々と漁師をやりつづけたのはほかならぬ唐牛である。意気がるまい、目立つまい、寂しがるまいとする彼の努力もまた相当のものだったのである。夜の二時、三時に、たとえば花咲港の飲屋から電話がきて、ダミ声で演歌をうたっているというようなこともなんどかあったが、それも数カ月ぶりに陸にあがった解放感のためとなれば、ごく通常の振舞といえる。

 私は唐牛がインテレクチャルでありつづけたということに注目したいのである。信じていただけないだろうが、唐牛と私の会話はうわべは馬鹿話であったが、ひと皮むけば、おおいに知的なのであった。知性主義的な語彙や論理は極力回避されたけれども、おたがいに知力を総動員して馬鹿話を組立てていた、といってもそれほど誇張ではない。だから、先の対談で、「何かインテリがばかにされたような話が、藤本さんから出ましたけれども、私は自分では正真正銘のインテリだと自負しております」と唐牛はいったが、それは本気でそういっているのである。彼はたしかに感覚的に行動する人間ではあったのだが、自己の感覚の流れ、揺れ、渦巻を観察するもうひとつ別の自己を手放すことがなく、そのもうひとりの唐牛がはっきりと知識人の風貌をもっていたのである。少なくとも、知識人の重要な仕事がヒューマンーネイチュアーを論じることに、つまり人性論にあるとするならば、彼は優秀な知識人であったといえる。

 ただし、私のみるところ、唐牛が人性論をやるとき、その素材が六〇年をめぐる事件およびその関連に求められすぎた、という気がする。逆にいえば、彼は知識人でありつづけるためには、六〇年にとどまらなければならなかったし、ブントや全学連にこだわらなければならなかった。私とてそうだということもできるが、正直いって六〇年は、知識人としての私にとって、二五分の一とはいわぬまでも、まあ五分の一の重みである。それが唐牛にあっては五分の四だったような気がするのである。彼は土方や漁師をやることによって人性論の素材をたっぷりと獲得したのだが、それは六〇年問題との対比において分類され分析されるのであった。六〇年を引受けることにおける唐牛の執拗さにはこうした知識人への志向が関係していたと思わずにはおれないのである。

 真喜子さんによれば、死の何年か前、「西部みたいな学者と話しているのが一番気が落着く」と唐牛がいってくれたことがあるそうである。私のことはどうでもよいのだが、こういう話をきいたときに私の思うのは、生活者として非知識人もしくは反知識人でありながら、知識人の精神で生きざるをえなかった人間のうちに蓄積される疲労のことについてである。自分の疲労を人前ではおくびにも出すまいと努める点で、唐牛の強靭さは群をぬいてはいた。しかし、そんなことをしても疲労がたまることに変りはないどころか、いっそう疲労が大きくなるのである。私は、唐牛の癌はそうした疲労に由来するものと、半ば以上、信じている。まだ彼の癌が軽微だと考えられていた段階で、私は思わず、「癌が治ったら、もう面倒だから、まるごと知識人になっちゃったらどう」といったことがある。彼の返答は、予想どおりのもので、「馬鹿こけ」というものであったが。

 彼の「ずれるスタイル」は自己主張の途であるとともに自己犠牲の途であったといえる。人それぞれこうした途を歩むものではあるが、唐牛の場合、その不可逆性がきわだっている。つまり、良いことか悪いことかそれは解釈次第だが、引返しようのない途だったようだ。その決定的な一歩は、やはり、田中清玄のところにいくことによって印されたのだと私は思う。イデオロギーや組織やなにやかやにおいてあくまで嫡子の系統を重んじるのは政治の世界ばかりではない。世間一般が正統性を重んじることにおいて成立っているのである。世間は、唐牛の庶子的行動を許しはしなかった。その行動を非難しないとしても、清玄と結託したものという標識をはりつづけた。彼もそれを覚悟のうえで踏み切ったはずである。いや彼のみならず、ブントそのものが清玄からの資金援助をうることによって、左翼政治の庶子としていつまでも記録されることだろう。この点でいえば、唐牛はここでもブントの宿命を背負ったのである。                                   

 すでにのべたように、私は庶子的行動にたいして、寛大というよりも好意的であるから、ブントや唐牛が切羽詰まって、少なくとも詰まったと思って、清玄から金をもらったのだろうとしか思わない。しかし、近年になってなんどか田中清玄という人と面談してみた結果、自分には折合えない人だということがわかった。だから、想像してみるだけだが、もし自分がブントの資金担当者だったら、ちょっと違う行動をとったかもしれないと考えたりする。また、ブントにせよ唐牛にせよ、切羽詰まったと思うのが早すぎたかもしれないと思う。当初から切羽詰まったところにはじまった六〇年だったのだから、じっとしているのもひとつの手だったとも思われる。しかし、それが後思案だといわれればその通りで、それ以上、私のいうべきことはない。

 なぜ清玄の問題にこだわってみたかというと、そのことに関連して、私自身に忘れられない小さな出来事があったからである。唐牛が宇都宮刑務所を出たあと、彼と青木と私の三人で渋谷のある酒場のとまり木に坐っていたことがある。当時の私は、いってみれば、切羽詰まった状態にあった。唐牛は私に「おい、お前いくとこないんだろ。清玄のところにこないか」と誘った。私は黙っていた。数分後、唐牛がトイレに立っているあいだ、こんどは青木が「おい、大学院を受けてみろよ。近代経済学の本を貸してやるよ」と勧めた。私は、またぞろ咄嗟に、青木の勧めにのることにした。いずれ実刑になると予想していたのだが、それまでのあいだ、勉強とかいうものをしてみたいという欲望が急にこみあげたわけである。結局、奇跡のようにして私は実刑にならず、大学院を出て、学者になって、いまこのように非学問的な文章を書いている。もしあのとき唐牛の誘いに応えていたら、いまごろなにをしているのだろうか。

 いや、架空の因果の糸をたどってみても致し方ない。ともかく唐牛は清玄事務所を振り出しにして、もはや引き返しようもなく、逸脱者として生きつづけた。正確にいえば、それからはなにをしようとも逸脱者とみなされることになった。週刊誌ジャーナリズムが間歇的に元全学連委員長を追い、軽い揶揄をまじえて逸脱者の浪漫を二頁ものの記事に仕立てあげた。唐牛の方も逸脱者として、言動を提供することに便利を見出しはじめた。逸脱者は、それがひとつのイメージにまとめあげられるならば、それなりに社会のなかで流通するものだからである。

 この方面において、唐牛はある意味で政治的に行動しつづけたといえる。世間が「逸脱者の浪漫」とみなすだろうような仕事に就きつづけたということである。たとえていえば、僻遠の地での土方はそういう浪漫を世間に与えることができるだろうが、都会における学習塾の教師ではそれができない。本人の好みもあるにはあったが、自己のイメージをめぐる世間との政治的駆引の要素もそこにはあったのではないかと思われる。

 しかし実際には、清玄事務所を出てから彼のなしていたことはといえば、逸脱も浪漫もありはしなかったのである。仕事の規則や必要にひたすら忠実に従って働くこと、それが唐牛のやり方であった。とくに紋別における一〇年間の漁師生活は、社会の仕組に莫正面から同調しようとする、健気といってよいような営為であった。世間がそれを逸脱のポーズととることは承知のうえで、彼は修行者のような面持で働いていた。世間のみならずブント関係者のほとんどがそのことを知らない。しかし、その漁師も二〇〇海里問題の余波でやめざるをえなくなり、それから母親の死を看取ったあと、彼は上京してきた。彼の上京を歓迎する集まりがあったとき、彼は私の耳元で「勘弁してくれ。北海道で完全に乾上っちやってな」という。私が勘弁するもしないもない話だが、またしても餌にとびつくしかない破目になったことの報告なのであった。そしてその報告をきいて私は、まさか彼の死までは予感できなかったが、かすかに不吉なものを感じていた。

 これで唐牛健太郎のことをおおよそ語りえたと思う。つまりは、彼は彼で、吾は吾で、どうしようもなくこうなってしまう仕儀だったという平凡な話におわるのかもしれない。ただ、私の六〇年以降の人生において、いままでは、ずっと唐牛の姿がみえていた。それは、近づいたり遠去かったりしながらも、つねに私の視界のうちにあった。彼の生活や彼の政治が私の人生に影響を与えつづけてきたことは疑うべくもない。ということは、唐牛が故人となってしまったこれからは、私の人生の風景が変るということである。私の記憶力そして想像力の限界からして、彼の姿が少しずつおぼろになってゆくと予想されるからである。しかし、死の間際における唐牛のあの顔は、ひょっとして、「俺のことを忘れてくれるな」という要求だったのではないか。そうだったと思いたい。そうでなければ信友の間柄とはいえないからである。死ぬのも大変だったろうが、生きているのも大変だという次第である。

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