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ゲルニカの旗  3

 それからだった。宮田先生の私に対する攻撃がはじまったのは。陰険で執拗だった。いまあの日々を振り返るとき、よく私はあの日々を耐え抜いてきたのだなと思うのだ。四十歳をこえた大人の前で、竹刀を手にした圧倒的な権力者の前で、十歳の女の子が毎日びくびくしながら生きていたのだ。例えば、体育館で全校集会がひらかれたとき、私のクラスが一番遅れてしまったことがあった。そのとき全校生徒の前で、宮田先生は私を怒鳴りつけた。
「お前はクラス委員だろう。お前がぼんくらだから、全校生に迷惑をかけるんだ。こんなみっともないことをしょっちゅうやりやがって。もっと気合いをいれてやれ。人を批判する前に自分が何をやっているかよく考えろ」
 あるいは算数の時間、分数の問題を黒板に書き出し、
「倉田、ここにきて、この問題を解いてみてくれ。お前なら簡単に解けるはずだ。お前にとってこんな問題、朝飯前だろうよ。みんなに頭がいいとこをみせてやれ」
 しかしそれはとても私に解ける問題ではなかった。ずいぶん考えてみたがさっぱりわからなかったら、解けませんと言うと、宮田先生は、
「お前はだれでも批判できる偉い子供なんだ。先生さえも批判できる子供なんだ。やってみろよ。人を批判するだけの人間じゃないってことを、みんなに教えてやれ。お前は頭がいいんだ。こんな問題が解けないはずはねえよ」
 その日、私は授業が終わるまで黒板の前に立っていた。
  さすがにあのときの私の抗議で、ハーレム的行為はばたりとなくなったが、しかしもう一つの強い抗議、竹刀をもって授業をしないで下さいという抗議は、そうならなかった。以前と同じように、いやそれ以上にクラス運営がうまくいかなくなると、いらいらして竹刀で机や黒板を叩き散らすのだった。

 その日、校庭で遊んでいた私たちは、始業のチャイムが鳴ったので、教室に戻ろうとした。そのとき下駄箱にいれたはずの上履きが、どこかに消えてしまったという子がいて、みんなでその子の上履きを探していると、教室に戻るのが遅れてしまった。
 教室の前に、竹刀を手にした宮田先生が立っていた。そして授業に遅れた理由も聞かずに、私たちに怒鳴りつけた。
「そこに全員ならべ。お前たちには愛の鞭が必要なんだ。馬鹿な子供がいて、愛の鞭はやめて下さいって批判したけどな、お前たちは、愛の鞭がなければ、ちゃんとできねえんだろう。これは暴力じゃねえぞ。愛の鞭なんだ。お前らのお母さんたちにたのまれているんだからな。どうぞ、うちの子には愛の鞭を思う存分にふるって下さいって。びしびし愛の鞭を入れて下さいってな。お前たちのお母さんにたのまれていることを、おれはやってんだからな」
 宮田先生は、一人一人の尻を力まかせに叩いていく。びしゃびしゃと、肉が悲鳴をあげるような音をたてる。その打音でどんなに強くはげしく叩いているかわかるのだった。私のところにきた。すると宮田先生は、
「倉田か。倉田の家は赤だからな。お前には愛の鞭はいれねえよ。お前に愛の鞭をふるったら、暴力教師だって教育委員会にたれこまれるからな。お前の家のやり方はわかってる。お前はパスだ。愛の鞭をふるわれたなんて、親にたれこむんじゃねえぞ」

 その頃、私はテレビでダビデの像をみた。肩にかけた投石袋を左手が支え、右手は敵を倒さんとする石を握っている。ダビデは巨人ゴリアトをその一投で倒したのだ。その像はミケランジェロが、圧制に苦しむフィレンツの市民のために制作したのだという解説を聞いたとき、私の目から涙がとめどなく流れてきた。まるでその銅像は私のために立っているように思えたのだ。私もまたダビデのように強くなりたいと思った。たった一つの石で、巨人を倒す力が欲しいと思った。
 朝になると、腹痛がきまって襲いかかってくる。その腹痛はきりきりと私のからだに突き刺さってくる。私の全身が学校にいきたくないと叫んでいるのだ。しかしまじめな私は、やっぱりその時刻になれば、学校にでかけていく。そのとき私を支えていたのは、あとわずかで三学期が終るということだった。五年生になるとクラス替えになる。そうしたら私は宮田先生のクラスから外されるだろう。宮田先生は私を嫌っている。私もまた先生を憎んでいる。その二人が同じクラスになるわけがない。五年生になると、私は別の先生のクラスになる。だからもう少しの辛抱だ、もう少し我慢すればいいのだという希望が私を支えていたのだ。

 しかし五年生もまた宮田先生だった。ということはこれから二年間、小学校を卒業する日まで、また同じクラスなのだ。そのときの私の落胆はひどいものだった。私は二週間も学校にいけなかった。ベッドから起き上がれないのだ。なにか熱病に襲われたかのように全身から力が抜けていた。私は毎日死んだように眠り続けた。いままでたまっていた疲労がどっと噴き出してきたのかもしれなかったし、それまで耐えていた大きな重圧にとうとう打ち倒されたのかもしれなかった。
 長い眠りから起き上がって、やっとの思いで学校にいけるようになったのは、私の意志を赤いバラの包装紙に包みこんだからだった。それをランドセルのなかにいれた。そうすることで私は学校にいけるようになったのだ。
 学校にいってみると、クラスの様子ががらりと変わっていた。私の学年は三クラスあったから、クラス替えになると、三分の二が新しい仲間になる。だから雰囲気が変って当然なのだが、担任は同じだった。先生が同じなら同じような雰囲気になるはずだった。しかし新しいクラスは、四年生のときとはまるでちがっていた。
 私はもうクラス委員ではなかった。先生とクラスの子供たちをつなぐという役割から解放されたのだ。そのことがとても私の心を軽くした。宮田先生のあの執拗な私にたいする攻撃もなくなっていた。しかし私はそのクラスで、はじめての体験をするのだった。

 その朝、教室に入り、クラスの仲間たちに朝の挨拶をした。
「おはよう」
 するとそこにいた女の子たちは、いっせいにそっぽを向いた。席に着き、まわりの子に話しかけると、その子たちも顔をそむけた。すでに私を無視するというネットワークができあがっていたのだ。
 その日から私はクラスのなかで徹底的に無視された。私が話しかけると、話しかけられた子は、うざってえんだよ、ぶりっこするなよと吐き捨てるようにつぶやき、顔をそむけたり、鼻をつまんだり、手をはたはたさせて、なにか汚れたものを払いのけるようなしぐさをする。私はクラスのいじめの標的にされたのだった。

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