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碌山の源流をたずねて 4 一志開平

 再度のフランス修業

 フランスでの彫刻修業のための学費かせぎにアメリカに戻って二年三か月。予想した貯えも出来たのでいよいよ胸をふくらませてニューヨークを出発することになる。九月四日、親しかった友人に見送られてニューヨーク港を後にした。

 守衛はアメリカ滞在の頃からレンブラントを崇拝していたこともあり、パリヘの前段階として先ずオランダに立ち寄るために九月二十日ロッテルダムに入港した。ここではレンブラントの地方色豊かな絵の特色の由来を求めて美術館めぐりをしている。ロッテルダムから汽車で二時間、首都ハーグに着き先ずハーグ美術館で念願のレンブラントの作品をはじめダビド、そしてフランス・ハルスやロイスダールの名作にも触れることができた。もう一つの美術館では特にミレー、コロー、ルソー、ドーミエなどフランス画家の作品にも心を打たれている。

 またアムステルダムの王立美術館ではレンブラントの「夜警」そして「呉服商」「ユダヤ人の花嫁」などの名作に触れ、またハーレムでもレンブラント、そしてフランス・ハルスやロイスダールをも鑑賞することができた。

 予定を十日ほど超過したオランダの旅を終えて十月の初めパリ入りした守衛は、モンパルナスの貸アトリエの一室を借りてそこに移り住み、念願のアカデミー・ジュリアンに入学することができた。ここで粘土をこね彫刻をはじめることになる。その時の彫刻部の研究生は十人ほどであったが、みんなそれぞれ自己流の制作に終始していたが、守衛はここで彫刻の中に自己の感動をどう表すことができるかが大きな課題であり、ひたすら精進するのであった。アカデミー・ジュリアンでは先ず斉藤与里に逢う機会にめぐまれている。与里は守衛に絵画部の友人本多功を紹介している。功は凸版印刷の勉強に精を出しているが、この守衛、与里、功の三人は異郷の地フランスで極めて親しい間柄となっていくのである。

 この頃守衛の脳裡を一番悩ませたもの、それは「芸術とは何か」「美術の根本にある思想とは何か」ということであり、守衛自らが一番欠けていると考え続けた思想を何とか高めようとしたのである。矢張り十七世紀のオランダ美術、そして文芸復興期のイタリア、更にフランス、スペインの美術に接して、わが国の美術との相違など考え、守衛はその上に立って何をすべきかをしばしば思いつつも、今はただまっしぐらに制作に打ち込む以外道はないと考え、いまこそ心をこめて付けていく粘土に生命が生じると思うようになるのであった。

 守衛は制作の合間によくルーブル美術館へ出かけている。ここでは敬服している作家ミレーとコローの絵を前に立つことが何より求められていた。作風の違う画家がふたりとも純粋性と神聖なものを追い求めているその姿勢に心打たれたからである。守衛は美術館の帰路、芸術のつまるところは人格ではないかとも思うのであった。そしてまた彫刻である以上、そこには知識のみでなく生命が宿らなくてはならないなどと悩み続けるのである。

 当時のパリーには藤島武二、有島生馬など十数名の日本人美術家がいたが、守衛は美術家ではなかったが五来欣造(素川)を敬愛した。五来はソルボンヌ大学で政治、経済などを学び、日本語や東洋哲学を講じていた。守衛はヴィトリーの宿に五来をたずねている。その時五来は英国旅行より帰ったばかりであったが、守衛のために農家の一室を借り受けてくれ、守衛はそのことで自然環境にめぐまれた閑静な家で、近くに五来と住んでいることもあり、五来に感謝しながら心の休息を得られ、久しぶりに解放感を味わうことができたのである。ここでの五来との会合にはフランスに在りながら米の飯をたき、味噌汁をつくってそれを食べながらの歓談で、話題は美術のみならず文学を論じ、故郷に思いを馳せながら時の経過を忘れて語り合うのであった。

 大賞を受ける守衛

 明治四十年一月、守衛はジュリアン彫刻部での一等賞入賞、絵画部をあわせての大賞を得ることができて、前年までは二等賞であっただけに喜びも大きかった。五来のアポロ美術史をテキストに彫刻制作を主体に解剖学等をも幅を拡げて地道な勉学が続けられた。守衛の彫刻制作は本多功をモデルにした「若き日の本多功」をはじめ「裸婦立像」「男子裸体立像」「女性半身像」など大作の数々はまさに圧倒的な流動感であり、自然主義人体像の究極的な成果といえる。

 その頃既に本多功がロンドンに移っていたことや、五来が夏休みを利用して渡英することなどから守衛はロンドン行きを思いたち、特に本多から時々のたよりの中に「サウス・ケンジントン美術館にあるミケランジェロの人体解剖像を見に来ないか」の誘いもあり、守衛は本多あてにその返事を書いて送ると、本多からは早速旅費を送り届けてくれるということから、七月ロンドンに旅立っている。ロンドンでは本多の下宿に身を寄せながら毎日のように美術館を見て歩くのであるが、イギリスの現代美術には優れたものがあまりなく、そのなかでもロセソティーの作品、そしてサウス・ケンジントン美術館でのミケランジェロの人体解剖像だけが参考になったようである。こうしてロンドンでの生活は約一ケ月足らずであったが、守衛にとっては五来、本多等の友情に支えられての意義深い旅であった。

 その頃お互い読書に専念したこともあり、特に日本の作家の作品が読まれていたが、日本文学界は夏目漱石、島崎藤村等がつぎつぎに新作を発表してそれがフランスにも届けられ、その頃フランスの仲間達も読む機会が与えられている。特に守衛は漱石の「二百十日」を読了した後、とりわけ飄々とした「碌さん」が好きで、ろくでなしの「碌さん」「碌さん」と口ずさむようになり、与里も「二百十日」に感動して、ふたりはいつの間にか守衛のことを「碌さん」与里のことを「圭さん」と呼び合うようになり、守衛は故郷への手紙の終わりにも「碌山」と書くようになって、いつの間にか守衛の号となったのである。

 高村光太郎との出会い

 光太郎との最初の出会いは、守衛アメリカ滞在の末期である明治三十九年、柳敬助につれられて渡米してきた光太郎の下宿をおとずれた時にはじまる。光太郎はアメリカでの生活を「父との関係」のなかで「アメリカで私の得たものは、結局日本的倫理観の解放ということであったろう。祖父と父と母とに囲まれた旧江戸的倫理の延長の空気の中で育った私は、アメリカで毎日人間行動の基本的相違に驚かされた。……アメリカの一年半は結局私から荒っぽく日本的看衣をひきはがしたに過ぎず、積極的な『西洋』を感じさせるには至らなかった」とあり、さらに「西欧的な人生観、芸術観、自然観の開眼はパリにおいてであった。私はパリではじめて彫刻を悟り、彫刻の真を体得したのである」と述べている。

 守衛はロダンの「考える人」によって彫刻への転換を、光太郎はメトロポリタン美術館でロダンの「聖ヨハネの首」によって彫刻に一層の興味を持ったのである。アメリカでの守衛はロダンの話に及ぶと「あんなちっぽけな作品を見たってだめさ。あれじゃロダンのえらさはよくわからんよ」とぶしつけに述べ、光太郎はその時守衛の発言を腹だたしく思ったようである。ところが次のロンドンでは守衛の「ロンドンに行ったら君に是非会おう」の手紙から、光太郎は守衛との再会を心待ちにしてテエムス河畔の光太郎の下宿の二階で一日快談に耽っている。光太郎はエジプトの本を持ち出し、守衛はセザンヌの展覧会の話を持ち出している。ふたりの話は時を忘れて続くのであるが、その時下宿屋の老婆が守衛を評して「あの人には何かとってもいいものがある」と話している。その後も光太郎はトテンナムの守衛の住居を訪ねたり、一緒に美術館も見て歩いている。そしてエジプト彫刻の室では半日暮らしたこともあり、守衛がパリヘ帰った後で「ああ、好い人だ。面白い芸術家だ。本当の作家だ。ニューヨークで思っていたのと人がまるで違っていた」と述べている。いわゆる光太郎は守衛の心の苦闘、芸術に対する疑問にみちたその胸中を深くとらえていたのである。

 守衛にとってここでの最大の収穫は何といってもエジプト彫刻の発見であった。ふたりはつれだって大英博物館をおとずれてはエジプト彫刻を学ぶのであるが、守衛はひそかにエジプト彫刻の中に日本的なものが流れていることや、人の心をとらえて離さないもの、それはいきいきとした感覚なのか、他に類をみない素朴さなのか、それとも永遠に続く永久性なのか考え続けるのであった。ロンドンでの一か月近い生活は光太郎の手引きと本多の心づくしで碌山の心をふるいたたせ、いよいよ自信が湧いてくるのであった。

 パリヘ帰った守衛は再びジュリアン校で制作に没頭し、つぎつぎと発表する作品は校内の展覧会でそのたびに一等賞を、ときには優等賞を受けるという進境ぶりであった。そのなかで現在の碌山美術館には在仏当時の作品「女の胴」と「坑夫」の二点が残っているが、「女の胴」は習作の一つで守衛自身非常に気にいった作品として当時の思い出を帰国後回想している。

 「得意不得意は別として、あれはね、フランスにいったころ、教室で隣の教室のモデルを取ったんです。生徒が二組に分かれて、おのおの一人ずつモデルを使ったんだが、僕らの方へ来た奴はなっていないんだ。で、隣の方のを見ると、とても好い。ことにソファの上に仰向(あおむ)いている両腋下から腰へ落ちている線がたまらなく好い。そこで、こっそり自分の方のモデルはほっといて、隣の奴をぬすみ見して、わずかの時間に作り上げたというもんだ。ところがみつかって、おおいに叱られましてね。『構うものか』といろいろ反抗して見たが、結局僕が負けて、そのまま止めてしまった。そうです。だからごらんのとおり、首もなければ足も手もない。ただもう胴だけの化物(ばけもの)になってしまったんです。しかし僕の眼に強い印象を与えた。腋下から腰のあたりへ落ちてくる線の美だけは、自分でもうまくできたと思っているんです。あれくらい僕が刹那の印象だけに忠実にやったものはないのですよ。元来僕は印象の中心さえできれば、あとはほっといても構わんという主義ですがね」とアカデミー・ジュリアンでの制作の心境を淡々と語っている。

 また「坑夫」を制作した当時の様子は高村光太郎の思い出のなかにくわしく述べられているが、その主要な部分のみに触れると、光太郎は先ず「坑夫」を見ての驚きについて、「この首はまるで自由制作のやうであって、モデル習作じみたところがない。モデルは生徒仲間によく知られているイタリア人の若者で、多分このポーズも教室の合議できめたもので、彼の勝手にきめたものではなかろうが、教室の習作にありがちな、いぢけたところがまるでなく、のびのびと自由に制作されて、作家の内部から必然的に出てきた作品に見え、あてがはずれたポーズといふ感じがまるでないのにまず驚いたのである。作風はロダンの影響がまざまざと見えるもので、面やモドレや粘土の扱い方までそっくりであるが、それが少しもただのまねごとには感ぜられず、彼自身の内部要求としてつよく確信を以て行はれているので、そのロダンじみていることが苦にならなかった。そしていかにも生き生きしていた」と光太郎はこの作品の持つ人間の意志、そしてその意志が個としての存在を主張し、しかもそのなかに生命を宿していることを説いている。

 光太郎は感動のあまりこれを習作としてこわしてしまうのは実に借しいので是非とも石膏にとるようにと守衛にくりかえし語り、近いうちに日本に帰るのだから是非持ち帰るようにと極力すすめている。この時守衛はこの若いイタリアのモデルが網をひっぱっているときの姿態と、斜めの構成によって緊張している動きのある自作を再度改めて見直すのである。そして鼻筋の通った線と鎖骨を通る線とが直交し、全体像がやや傾きをもって緊張を保ち、上向き加減の顔面に深くえぐられた眼窩と、そこから発せられる視線に満足感を覚えるのである。

 守衛は帰国を前にした多忙の中で「女の胴」と「坑夫」を自ら石膏にうつし、しっかりと荷づくりをしたのである。その後守衛はロダンに学び、パリからイタリア・ギリシャ・エジプトを経て帰国の途につき、光太郎はロンドンからパリに移り、矢張りロダンに学んでいる。特にロダンの芸術観、人生観の根本が相通じていることもあり、真の理解者として傾倒し、そして崇拝している。それも単なる共感や共鳴ではなく深奥にせまる光太郎独自の道を探りながら明治四十二年七月東京に帰るのである。

 それから碌山逝去までの約一年足らずではあるが、ふたりは共に自然に深く根ざした人間の生をだいじに芸術の根底にある核心にせまりながら、互いに親交を深め巨腕で日本近代彫刻の扉を開くのである。

 ロダンに学ぶ

 フランスにおける碌山は彫刻において重要なのは外形やその描写だけではないと思い、光太郎も同様そのことを強調している。それはロダンに傾倒し、感動してその共感からロダンに基づく造形理念の展開へと発展するのである。光太郎は近代日本の美術が、ヨーロッパ美術の刺激を受けながら対称の客観性を合理的に四大因子――造形形上の全体統一機構としての面、量〈塊〉、動、姿の肉づけの彫刻的意義――に大別し、それを更に拡大して「彫刻十箇条」という普遍的な原理を確立するのであるが、碌山は実技の上で第一回の競技会で第一席を、第二、三回にも一席を、そして第四、五回にはプリ(大賞)を得ることができて、一期五回とも最優秀であることが認められ、光太郎とふたりやがて日本の近代彫刻を代表する双璧となるのである。

 アカデミ・ジュリアンで彫刻に専念した碌山は一月の半ば、知人であり先輩でもある陶器研究家の沼田一雅からもらったロダンの紹介状を持って、白滝幾之助らとムードンの高台にあるロダンの家を訪ねるのであるが、折り悪しくロダンは留守で面会できず、夫人に来意を告げて帰っている。その時ロダン邸にはモネの絵とギリシャ彫刻の腕の破片が一つころがっていたのみと伝えられているが、実はこの建物はルイ十五世式の高い屋根の華麗な二階建ての別荘で、内には百点ほどの作品が置かれていたといわれている。

 その後もロダンに何かと会いたいと思いながらその機会が得られないままであったが、碌山がロンドンから帰った後在米当時からの友人ウォルター・パックと一緒に逢うことができた。フランス語の不得手な碌山はいつもウォルター・パックに通訳をしてもらっている。その時は彫刻をする上での心構えや彫刻の見方などについていろいろと質問をし、そして教えを受けている。

 その後数回ロダンを訪ねているが、ある時ウォルター・パックがロダンに「オギワラは先生の《考える人》をみて心を打たれ彫刻をはじめたのです」というと、ロダンは制作の手も休めずに「そうですか、それではオギワラは私の弟子と考えてよいね」といわれた。その頃のロダンは彫刻活動に余念がなく、僅かな時間を借しんで会話をしながらもスケッチを続けるといった忙しさであった。

 ロダンの生き方や考え方による碌山への影響は極めて大きいものがあったが、なかでも文学と芸術の相違点はユーモアもあって誠にみごとなものであった。それは文学は作像することの力を借りずに概念の表現ができるが、言葉によって抽象を弄ぶというこの能力はいうまでもなく思想の領域にあっては他の芸術にもまさる利益を文学に与えているが、画家と彫刻の作品は作品そのもののなかにあらゆる興味の個所を抱合している方がよい。文学に助けを乞わないまでも芸術に思想乃至想像を示すことはできるとし、文学を芸術的手法から引き離すその相違点に気をつけて見ることが必要であるとして「善き彫刻家が立像を造ろうとする時、そのものの如何を問わず先ず最初に総体としての観念を掴まえなければいけない。

 それから自分の制作が終りになるまでこの全体としての観念を心に持続していて、作品にある各最小部分をもそれに従わせ適合させるようにしなければいけない。それも烈しい心の努力と思想の集中とがなければ出来上がるものではない」と述べ、芸術家の先ず第一に心掛けなければならないことは、自己が生命ある筋肉を造らなければならないことであり、人を動かすものは内面にある深奥なものであるとこを教えている。

 碌山はロダンの指導を受けながらロダンの弟子であるブールデルの彫刻にもひかれ、構造的な美を追及し、純粋な心情で取り組んでいるブールデルをも尊敬し、また直接会うこともできて、肖像作品についていろいろ指導を受けている。またロダンの流れをくむもう一人の作家マイヨールについては、その作品「ビーナス像」「イル・ド・フランス」などパリのチュイルリー公園にあるものからも心を打たれている。いわゆる近代彫刻の三大家ロダン、ブールデル、マイヨールからも学ぶことができて、フランスにおける碌山の制作上での幸せは最高潮に達するのである。

 ロダンははじめギリシャ彫刻を深く研究し、その頃のギリシャ彫刻研究の同志にも形式や技巧にまで、うわべの美しさではなく、あくまで自然に忠実でなければならないことを強調している。そして生命の躍動から「生命は美なり」とさえ結論づけている。いわゆる彫刻のねらいは外形ではなく、内的な力であることに碌山の心を揺り動かしているのである。

 仰ぐべき先生は自然だ

 碌山は帰国が近づいたある日、ウォルター・パックと今まで世話になった礼と、いとまごいにムードンのロダンのアトリエをたずねると、制作中のロダンは手を休めて「これを見ていくように」と、いつくかの作品の覆いを自分で取りのけて見せてくれたので、碌山はその作品の一つ一つを念入りに見てまわっている。最後に碌山は「僕が今度日本へ帰ると、先生と仰ぐ人もなく、また手本とたのむような作品を見ることもできなくなりますが、何をたよりに勉強したらいいのでしょうか」と問うと、ロダンは「わたしの作品ばかりでなく、ギリシャやエジプトの傑作の数々をも手本などと思ってはならない。仰ぐべき先生はどこにでも存在しているではないか。それは自然だ。自然を先生として研究すればそれが一番よいことではないか」と答えた。尊敬するロダンのことばを碌山は胸の中へ深くおさめるのであった。

 ロダンが考えている自然、それは自然を変形しないあるがままの自然、その自然に対して忠実でありたいと願っていたのである。それには先ず見るということがすべてあり、それは単に外形を写すことや自然を引き写しにするのではなく、眺めるのではなく見入ること、もっというならば自然の一部である心霊を写すことからはじめなければならないということである。そのためには心に根を持ち、心の状態を一番よく表現することが大事であり、その眼は現れている表面の影に潜む真実をも深く見透かすことの大事さを強調しているのである。碌山は内に隠れている真理を静観し、熟慮し、さらに黙考しようとするのである。

 師ロダンからの指標である自然とは碌山にとって大きな課題であり、容易に理解することはできないのであるが、ロダンの自然観即ち大自然の中にあるものは、生命あるもの、空中に浮かぶ雲も、野にある緑の若草など、あらゆる物の中に匿されている偉大な力の秘密を芸術家は知らなければならない。そして凡てのものが思想であり、几てのものが象徴であるから、人間の形体なり様子なりはその心霊の情感を差し示しているものであり、体躯はその円に包んでいる心霊を常に表現しているものである。手短かにいえば形にも線にも色彩にも表現的でない余計なところが少しもなく、何れの部分、あらゆる部分が思想と心霊とを表現しているものを称して、最も至純なる傑作と呼ぶのであるとしたロダンの考えを碌山は何回も噛みしめるのであった。

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 碌山美術館の館長であった一志開平さんは、碌山に新しい生命を吹き込もうと立ち向かってくれた。しかし連載七回目を書き上げた後に逝去されてくやしいかぎりだった。未完で終わったが、一行一行が厳しく磨かれた文体で彫り込まれていった碌山像は、碌山に新しい生命を吹き込んでいる。草の葉ライブラリーで刊行される。

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