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青い海、青い島

「これは三年生になったら学ぶことだけど……」
 と言って、鈴木先生は黒板に《食物連鎖》と書いた。だから私も、ノートに食物連鎖と眠い字で書いた。先生の声がだんだん遠くなっていく。鈴木先生は、また黒板に《熱帯雨林》と書いた。うつらうつらする私は、また眠い字で、熱帯雨林と書いた。どうして五時間目は、こんなに眠くなるのだろうか。派手にこっくりと舟をこぐたびにはっとなるのだが、また気持ちのいい睡魔が、じわじわと襲いかかってくるのだ。
 私はこの生物の先生が大好きだった。まだ大学をでたばかりの先生だったから、どことなく授業が幼稚ぽかったりするけれど、古い先生たちにはない、若葉の輝きというものがあるのだ。私がこの先生を好きになったもう一つの理由は、生物という科目が好きだったからかもしれない。とにかく私は子供の頃から自然大好き人間だった。草むらとか林のなかとか河原とかで、私はもう日が暮れるまで過ごした。倒木をごろりところがす。そこに生き物たちがうごめいているのだ。河原の石をどすんとひっくりかえす。そこにまたいろんな生き物が、いっぱい生きている。その一つ一つの小さな生き物を、掌にのせて遊ぶことにもう夢中になった。私は生物にものすごく興味をもっていたから、鈴木先生の授業はいつも真剣に聞いているのだが、でも五時間目は魔の時間だった。眠くて眠くてしかたがないのだ。
 そのとき鈴木先生は、ふとある人の名前を言った。そして、こんな風に話していったのだ。
「その島には、珍しい生物が、いまなおたくさん生存しているの。生物だけじゃない。木立もそうなの。何百年も生きた木立が、あちこちに立っている。この島には文明に汚染にされていない太古の森があったのよ。ところがある日、とつぜんこの島の突端に、大きな港がつくられる。そしてそこに大きな船が次々と入ってくる。船からはブルドーザーやクレーン車が、ぞくぞくとおろされていく。そしてその巨大な機械が、原生林をばりばりと切り倒していく。何百年も生き続けていた木立が、ばさりばさりと伐採されていく。道路は、森の奥へ奥へとのばされて、そしてまたばりばりと木立が切り倒されていく。
 豊かだった原生林は、裸にされていく。そうするとそこに生きていた生物たちは、どんどん死滅していく。生物だけじゃなくて、原住民もまたそこに住めなくなっていく。人々の生活を支えている森が、消えていくわけですからね。北海道の二倍もの面積をもつこの島は、その暴力的な伐採を続けていけば、あと数年で裸の島になるといわれていたの。このすさまじい暴力に立ち上がったのが、WEOという自然保護団体だったのね。WEOというのは、何千万という人々の寄付で成り立っている、世界的規模の自然保護団体なの。WEOは危機に瀕するこの島に、一人の女性を派遣するのだけど、その人が若い生物学者、芦沢奈津子さんだったのよ」
 私が、はっと心地よいまどろみからさめたのは、この名前だった。私は、もう鈴木先生の話に、まっすぐに引き込まれていった。
「伐採しているのは現地の人々だけど、でもその会社を、後ろで支配しているのは日本の巨大商社だったの。切り出された木材は、直接日本に運びこまれたり、スマトラとかフイリッピンにある工場に送られてパルプにされ、そこからまた日本に運びこまれる。つまりその伐採は、日本に運びこむために行なわれていたの。このすさまじい暴力を日本人に伝えるためにも、日本の生物学者を派遣しなければならなかったのね。芦沢さんは優秀な生物学者だった。そして行動的な人だったの。芹沢さんなら、この危機を告発し、暴力の手からこの島を守り抜いてくれるだろうとWEOは判断したのよ。でも芦沢さんには、その要請をすぐに受られない事情があったの。二年前に結婚して、まだ一歳にも満たない赤ちゃんがいたから。芦沢さんは、一人の生物学者であると同時に、妻でありお母さんでもあったわけ。とりわけ芦沢さんが嫁いだ家は、地酒をつくる地方の旧家だったから、古いしきたりがいっぱい残っていて、とてもそんな島に家庭を離れていけるような環境ではなかったのね。
 でもWEOの再三の要請で、芹沢さんはやっと二か月という期間をつくって、セブ島にむかったの。しかしそこでみたものは、ほんとうに想像を絶する光景だったのよ。熱帯雨林の破壊が、それは大規模に進められている。広大な原生林があと数年でなくなってしまう。芦沢さんは、身が引き裂かれように苦しむの。職業をとるか、家庭をとるかという苦しみ。社会のなかで女性が生きることの苦しみ。もしこのままの勢いで伐採されていったら、この島はあと数年で裸の島になってしまう。これは地球の危機であり、人類の危機だ。もしここで立ち上がらなかったら、私は何をしてきたのだろうか、今まで何を学んできたのだろう、私の生きてきた意味がなくなるではないか。この危機に立ち向かっていくことこそ、人間としての使命ではないか。暖かい家庭に逃げこむことでなく、幸福な家庭に逃げこむことではなく、この危機と戦うべきではないのかと芦沢さんはすごく苦しむの。そして、とうとう家庭を捨ててしまうのよ。愛するご主人を捨て、かわいい子供も捨てて、その島に住みつくのね。芦沢さんは妻であり母であるよりも、生物学者としての道を選んだの。この芦沢の決断は普通の人には、なかなか理解できないことだと思うわ。芦沢さんのこの選択に、たくさんの批判があるのね。でも一人の誠実な生物学者が、人間としてとるべき道を選んだと先生は思うの。その島に渡った芦沢さんは、次々に衝撃的なレポートを全世界に送り出して、その危機を訴えていったのよ」
 そして鈴木先生は、こう言って話を結ぶのだった。
「いまでは芹沢さんのことを、よく日本のレイチェル・カーソンだというけど、芦沢さんが今までしてきた仕事は、とっても大きいのね。芦沢さんは、熱帯雨林を守り抜いた人であり、どんどん破壊されていく自然を瀬戸際でくいとめている人なの。先生が生物学科に入学したのも、そして生物の先生になろうとしたのも、この芦沢奈津子さんの影響なのよ」
 私の家は大家族だった。祖父と祖母がいて、父の弟の俊夫おじさんの家族が五人、それに父の妹の和子おばさんの家族四人が、同じ家に住んでいたのだ。朝晩の食事のとき、みんなずらりと同じテーブルにすわるものだから、にぎやかなことといったらなかった。でもそんなにぎやかな生活も、和子おばさんの一家が、東京に転居してしまい、父も私が五年生のとき、本家のそばに小さな家を立てて、そこに私と父は移り住んだ。それは本家からみると、ちっぽけな家だったけど、父の独立宣言のようなものだった。
 父と私の二人だけの食事。いままでそれはもう賑やかな食事風景だったので、このはげしい落差は、最初のうちはとても寂しかった。でもいまでは、こういう落ち着いた食事も、いいものだと思うのだ。父はちょっと静かな人で、いつも新聞を開いている。父が無口なぶん、私がおしゃべりだったから、なかなかいいバランスがたもたれているのかもしれなかった。
 私は父になんでも話すのだ。もう話しだしたらちょっと止まらないばかりなのだ。そんな私の話を、父はビールをすすりながら、開いた新聞の向こうで聞いている。
「ねえ、お父さん。今日ね、理科の先生があの人の話をしたよ」
「あの人って」
 と父は、広げた新聞の向こう側から言った。
「芦沢奈津子さんの」
「ふうむ。それで、どんな話をしたんだ」
「すごくほめるのよ。あの人は、熱帯雨林を守った人だとか、破壊されていく自然を、今でも第一線で守っている人だとか。鈴木先生は、すごくその人のことをほめるけど、私はちょっと違うんじゃないって思ったわけ」
「どう違うんだい」
「つまり芹沢さんは、セブ島とかいう所にいくために、家庭を捨てたわけでしょう。鈴木先生は、捨てたと言ったよ。愛する人を捨て、生まれたばかりの子供を捨てたって。その捨てたという言い方にもすごくひっかかったけど、一番ひっかかるのは、その人の生き方なのよ。その人がセブ島にいって、消えていく熱帯雨林を守るというならば、どうして結婚なんかしたわけ。どうして子供なんかつくったわけ。家庭を捨てていくなら、もともと結婚なんかしなければよかったでしょう。生物学者として地球を救いたかったら、結婚なんかしなければよかったのよ。だけどその人は結婚してしまった。そしたらその人が一番忠誠を誓わなければならないのは、結婚した人にでしょう。二人の間に生まれた子供にでしょう。そうじゃない、お父さん。一つの家庭を守れない人に、どうして地球が守れるわけ。私はそう思ってしまうのよ」
 私のちょっと熱い口調に、父は新聞をおき、びっくりしたように私をみつめていた。そんな父に私は言った。
「お父さんは、このことをどう思うわけ?」
 父は、ちょっと呆然としたような視線を宙にはわせていたが、やがてなにかを決心するかのように、ばさりと新聞をたたむと、ちょっと待ってくれと言って立ち上がり、食堂から出ていってしまった。なかなか戻ってこないので、どうしたのだろうと思っていると、父はミカンのダンボール箱を両手にかかえて戻ってきたのだ。そしてその箱をテーブルにおくと、私に言った。
「これはお母さんからきた手紙なんだ。お母さんの手紙が、このなかに全部入っている。こんなものをいままで大事にとっておいたのは、もちろんぼくのためである。過去にこだわるのはよくないことだけど、円が生まれたときのぼくたちの歴史がいっぱいこのなかに詰まっているからね。この歴史はたしかにぼくたちのものだったんだ」
 ふだん父は、私の前で、ぼくなどという言い方はしなかった。なんだかその言い方が、とても新鮮だった。それはきっと青春の思い出が、父を青年のように若くしたからかもしれなかった。父は言った。
「しかしお母さんの手紙を、こうして大事にとってきたのは、もう一つの理由があった。それはいつかそのときがきたら、円(まどか)にこの手紙を読んでもらおうと思っていたのだ。どうやらそのときがきたようだね。お母さんは、いっぱいお父さんに手紙を書いてくれた。これを全部読むのは大変だけど、でもきちんと読んでくれるね」

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「青い海、青い島」は、《草の葉ライブラリー》が放つ「クリスマスの贈り物」に編まれています。ただいま「CAMPFIRE」でクラウドファンディング中です。

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