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最後の授業  3


 そしてとうとう九月十一日になります。あの日です。五人はその日をどんなふうに迎えたか。福沢君はその夜、泣きながら狂ったように畔道を走っていたそうです。佐々木君は屋根にあがり星を見ながらしくしく泣いていたそうです。飯島君はその夜、瀧沢君が泣きながら部屋にあらわれた夢をみて、怖くてもう眠れなくなったそうです。細田君はその日からなにも食べられなくなったそうです。青木君は部屋の壁を何度も何度もたたきつけていたと書いています。いまでも青木君の手に包帯がまかれているのは、そのときの傷なのです。瀧沢君を失った衝撃は、時間とともにどんどん深く心のなかに広がっていって、いったいこの悲しみをどうすればいいのか、どうやってこれから生きていけばいいのかわからないと書かれた作文もありましたが、おそらく瀧沢君を失った悲しみは、この五人の魂のなかに刻印されていて、彼らの生命が終わるときまで消え去ることはないでしょう。

 いま五人が書いた五百枚をこえる作文を読んだあと、あらためて瀧沢君の残した遺書をみるとき、瀧沢君の遺書はやはり貧しく幼稚なものだったと思わないわけにはいきません。というよりも瀧沢君はこの遺書のなかに本当のことを書いていません。もっと厳しくいうならば、瀧沢君はこの遺書のなかに嘘を書いています。瀧沢君は嘘の遺書を書き残して死んでしまったといってもいいのです。どうしてこの遺書に本当のことが書かれていないのか。瀧沢君の心のなかではもっと深いドラマが起こっていたのです。そこのところを五人の作文を参考にしながら、そのとき瀧沢君にどんな心のドラマが起こっていたのかを推測してみることにします。

 瀧沢君は小学生のときはとてもおとなしい内気な子供で、なにか仲間とのトラブルがあるとすぐに涙ぐんでしまうような子供だったようです。だからしばしばいじめられました。しかし中学校に入ってからぐんぐん変わっていきました。五人と出会ったからです。その五人とたくらんだ数々の冒険や遊びが、瀧沢君を大きく変えていったのです。もはや内気な子どもでありません。すぐに泣き出す子どもでもありません。嫌なことがあるとすぐに逃げだす子どもありません。どんなことにも立ち向かっていくたくましい子どもなっていました。五人との出会いが、瀧沢君の魂を鍛え上げていったのです。そんな輝かしい時間をともにつくってきた瀧沢君にとっても、北海道遠征は実現させたいことでした。瀧沢君にとっても受験勉強よりも、その遠征のほうが大切なことだったのです。ですから何度も何度も家族を説得しようとしました。しかし瀧沢家の方針は強固で、逆に夏期講習に無理やり通わされることになった。それは瀧沢君にとって、それまでつくってきた世界の崩壊を意味するものでした。五人とともにつくりあげてきた輝かしい世界が崩れ去っていった一瞬だったのです。

 それだけでしたら、おそらく瀧沢君は、その苦しみ耐えることができたでしょう。瀧沢君にとって、彼の魂を砕いてしまうような衝撃は、五人を裏切ってしまったことです。瀧沢君が自分自身を許せなかったことは、五人の夢を自分が打ち壊してしまったことでした。そのことが彼を一番深く苦しめたことなのだと思うのです。ですから脱落していく瀧沢君を吊るし上げるような話し会いのなかで、五十万というお金の話がでてきたとき、瀧沢君はもうその翌日にそのお金を五人に渡しているのは、彼の苦しみの深さを語っているのです。その五十万円とは瀧沢君の苦しみの深さを語っているお金であり、そしてそれはまたそのお金をうけとってしまった五人にとって、北海道遠征という夢が決定的に崩壊した一瞬だったのです。

 夏がきました。松本の予備校の夏期講習もはじまりました。しかし瀧沢君は一日もその講習には出ませんでした。瀧沢君はなにをしていたのでしょうか。家にいれば叱られますから、時間通り電車に乗って松本にいきます。しかし予備校には向かわず、松本城辺りをぶらついたり、浅間温泉の方までいったり、梓川の土手をどこまでも歩いていったりしたと瀧沢くんはある友人にもらしています。彼はそうやって時間をつぶしていたのですが、おそらく彼のなかにいつも五人のことがよぎっていたはずです。五人は北海道にむかって出発しませんでした。その計画は挫折したのです。自分のためにです。自分が脱落したからです。瀧沢君は、おそらく五人の夢を砕き崩壊させた自分が許せなかったのではないでしょうか。だから台風のあと、大人でさえ恐怖ですくむ犀川に、自らすすんで飛び込んでいきました。それは私の推測ですが、そのころから瀧沢君はずうっと死をみつめていたのではないでしょうか。怒涛さかまく川に巻き込まれていく瀧沢君を救い出した五人に、瀧沢君はなぐりかかり、泣きなが絶叫しています。『なぜおれを助けたんだよ!』『裏切ったおれなんて死ねばいいって思ってたんだろう!』と血を絞りだすようにして叫ぶのです。瀧沢君の苦しみがどんなに深いものだったかがわかります。

 長い夏休みが終り、学校がはじまりました。その翌週に瀧沢君は自殺しました。なぜ自殺したのか、それはいまではだれにもわかりません。しかしそのとき瀧沢君の心に複雑な精神のドラマが起こっていたことは間違いないのです。五人に対する裏切りが彼をもっとも深く苦しめたでしょう。北海道遠征という夢を挫折させ、五人をむなしい夏のどん底に突き落としてしまったのです。その計画から脱落させた家族にたいする憎しみもあったはずです。彼が築き上げたものを崩壊させてしまったのですから。しかしやさしい瀧沢君には家族を憎みきることはできせん。彼は家族を愛していました。お父さんやお母さんのいうこともよくわかるのです。三年生は受験の年です。いまの成績では彼の志望する高校には入れないでしょう。ですから夏期講習にいかなければならないこともよくわかるのです。しかし瀧沢君は一度もその講習にいきませんでした。今度は家族を裏切ってしまいました。五十万円のことがあります。瀧沢君はその五十万円をこっそりと引き出しました。そのことはまだ家族には発見されていません。しかしやがてそのことが見つかり、家族に激しく叱られるでしょう。その日がくることが怖かったはずです。夏が終りました。受験が迫ってきます。しかし受験勉強などまったくできません。なにもかも裏切っていく自分、どんどん崩れ去っていく自分。瀧沢君の心のなかにそんな複合的な苦しみがいっぱい押し寄せてきて、自殺へ自殺へと突き進んでいったはずなのです。

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